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	<title>株式会社セルクル代表取締役　鈴木和幸のページ &#187; キーワード</title>
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	<description>株式会社鈴木和幸のページ</description>
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		<title>ボーズ・スピーカー</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:31:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[クリエイト]]></dc:creator>
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		<description><![CDATA[ボーズ・スピーカー &#160; 　私が檀家になっている寺は祖父の代から大変お世話になっているところで、子供の頃には勝手に鐘を突いたことも覚えている。 　祖父は本殿の香炉を、父は本殿天井の金拭きをしたということを住職から [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p align="center"><span style="color: #ff0000; font-size: large;">ボーズ・スピーカー</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　私が檀家になっている寺は祖父の代から大変お世話になっているところで、子供の頃には勝手に鐘を突いたことも覚えている。</p>
<p>　祖父は本殿の香炉を、父は本殿天井の金拭きをしたということを住職から何回か聞かされ たので、私もそろそろ何か寄贈しようと考えていた。こちらのお寺ではお経をマイクを通し、スピーカーから流しているが（本堂の中と外部用がそれぞれ二個ず つ付いている）、それが３０年前のものということで、スピーカーを寄贈しようと考えた。</p>
<p>　まずは現地視察でスピーカーを見たが、３０年頃前に流行していた通常のステレオスピーカーを使用しており、３０センチ・ウーファーの下部にはカビが生えていた。これじゃあまずいと思った。スピーカー寄贈はするべきだったのだろう。</p>
<p>　相手はお寺、お寺は坊主―――ボーズ、という安直な発想の元に、私はボーズ株式会社に連絡した。</p>
<p>　聞いてみたら、やはり私のように、お寺に寄贈するならボーズ・・・という考えを持つ方は全国に多いらしく、そういう問い合わせが結構あるそうだ。世の中には私のような思考回路を持つ人がいるのかと思ってちょっと嬉しかった。</p>
<p>　エンジニアを呼び、備え付ける準備が始まった。本堂の両側にＰＡシステムのようなス ピーカーが備え付けられ、外部には全天候型のものが取り付けられた。住職はマイクも交換したい希望で、なぜかシュアーのマイクが搬入された。シュアーのマ イクにボーズのＰＡシステム・・・これじゃあまるでロック・コンサートである。</p>
<p>　お寺の中にボーズのＰＡシステムという妙な寄贈は遂に完成した。スピーカーには「寄贈・鈴木和幸」の金文字が、寄贈者である私にこれみよがしの妖しげな光を放って見えた。</p>
<p>　そして、私が出席したこの寄贈スピーカーが使用される最初は・・・なんとこのお寺の住職式だった・・・合掌。ちょっとショックだった。</p>
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		<title>須賀川</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:29:07 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[　私が住み、生まれ故郷である須賀川市は、変な言い方ではあるが、「死に近い街」という印象がある。縁起でもないが、まるで街全体が、葬式、法事など、「死」ということに関わる行事に、やたら近しい位置にあるように思えるのだ。 &#038;n [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignnone size-medium wp-image-404" alt="image001" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/image00121-300x199.jpg" width="300" height="199" /></p>
<p>　私が住み、生まれ故郷である須賀川市は、変な言い方ではあるが、「死に近い街」という印象がある。縁起でもないが、まるで街全体が、葬式、法事など、「死」ということに関わる行事に、やたら近しい位置にあるように思えるのだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　毎年、お盆の時期には、新盆（あらぼん）といって、昨年のお盆から今年までに亡くなっ た方の自宅にお参りする習慣がある、これは、地域によってアラボン、ニイボン、などと言い方が違うが、普通は近親の近しいところで済ませる慣習である。と ころが、須賀川市の場合、行く範囲がやたらと広い。旧市内の誰かが亡くなれば、絶対に行かなければならない。街中は８月１４日、郡部は１３日だが、年間に 亡くなった人の分だけこの二日間にお参りする。ある程度商売を広めていれば、この二日間に行く軒数は３０軒、４０軒というのが当たり前である。この時期に は前日に予定を立て、いかに効率的に廻るか考えなければならない。行く側は一軒あたり３０００円ほど包み、迎える側もそれに応えるお返しを用意しなければ ならない。それこそ、このためにすさまじい労力を要し、年配の方になると、それで「死」に一歩近づいていくかも知れない気もする。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　そして、お盆では子供達もこの「死者を迎える儀式」に参加する。須賀川市内のお墓に は、たいてい石で作られた灯籠がある。お盆が近くなると、この灯籠に和紙で風よけの紙が貼られる。そして、この墓の檀家は、１３日から１６日にかけ、夕方 にろうそくを灯しに出かけていくのである。</p>
<p>　　私は、こういう習慣は日本中のものと思っていた。ところが、須賀川だけの慣習だと高校のときにわかった。ろうそくを持って出かけていくのはもっぱら子供の役目である。暗くなった時間に一人でお墓に行くのは怖い。須賀川の子供達は、必然的に肝試しまでさせられる。</p>
<p>　お盆は死者がこの様に帰ってくるものだといわれている。死者は近くに迫っている・・・。そういうときにお墓に行かされる子供達ったらたまったものではない。須賀川では、子供の頃から死者は近くにいる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　また、お葬式も重要な儀式である。葬式で義理を欠いてはいけない・・・どこでもそうなのだろうが、特に須賀川ではお葬式をおろそかにしてはならない、という暗黙の了解が、大人達の間に厳しく張り巡らされている様に感じられる。</p>
<p>　何らかのときに、お葬式の案内が来る。そうなると、他の行事を中断しても、それに出か けなければいけない。欠席すれば、大変な無礼に当たる。そのため、どんなことがあっても葬式ばかりは欠席できない。お坊さんのお経を欠かしてはならないの だ。結婚式よりも、お葬式が重要・・・それが須賀川のしきたりである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　須賀川市最大のお祭りである松明あかしも、元々は伊達政宗に滅ぼされた須賀川市の人々 を弔う祭りである。何かおめでたいことを祝う祭りではなく、過去の死者を弔うことがこの祭りの重要なファクターであるのだ。町を挙げて死者を弔い、それは 年々派手になっていく。そう考えると、いよいよもってこの須賀川市は「死」に近い街であると思う。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　平成の代になり、中心街には松明の灯火をかたどった街路灯が光るようになった。これも 須賀川市を象徴する風景ではあるけれど、どう見ても明るいネオンのような輝きには遠く、私には、何か死者が通って下さいと言わんばかりの灯火にしか見えな い。一年中、お盆のような雰囲気の中、私も、他の人たちも、まるで幽霊のように、飲屋街を彷徨うのだ。ただ、この灯火に照らし出されているのは、妖怪では なく、円谷プロによって作り出された怪獣ではあるが・・・。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　若干趣が違うが、あの妖怪の大家、水木しげる先生がこの街を訪れたときに、どの様に感じられるのだろうか？ぜひともお聞きしてみたいものである。妖怪博士、怪獣の街を訪れる・・・の図をぜひ実現してもらいたいものである。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>猫</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:28:23 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[　２００８年の１１月から我が家に猫がやってきた。 　猫を飼ったことはほとんどない。ずっと犬がいたが、猫は小さいとき、祖父と同居していた時代と、会津にいた時代に迷い猫がやってきた数ヶ月以外全くない。本当に縁のない動物ではあ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>　２００８年の１１月から我が家に猫がやってきた。</p>
<p>　猫を飼ったことはほとんどない。ずっと犬がいたが、猫は小さいとき、祖父と同居していた時代と、会津にいた時代に迷い猫がやってきた数ヶ月以外全くない。本当に縁のない動物ではあるが、飼い猫、野良猫を含め、昔から近所にはゾロゾロいる。</p>
<p>　猫は、我が家にやって来たときにはまだヨチヨチ歩きだった。相当チビのうちから親元を離されてしまったのだろう。小鳥のように籠に入れられていたが、数日で外に出た。今はだいぶ成長し、子供達にかわいがられ、家の中をはね回っている。</p>
<p>　飼ってみると、今までわからなかった猫の性格がかいま見れる。</p>
<p>　まず、極端な寂しがり屋である。みんなが出かけ、家に私以外いなくなると、私に頼って くる。にゃおー、にゃおーと寄ってきて、爪を立てて座っている私をよじ登ってくる。足から登り、ひざ、腰、胸と登って肩に乗っている、これじゃあ小鳥だ。 こっちと頼って登ってくるんだろうが、ここまで来るとまさか顔には爪を立てて登れないことはわかっているらしく、どうしていいかわからずにいる。とにか く、誰かが一人になると、その人物と仲良くしたいようだ。</p>
<p>　また、これも極端なマイペースである。相手に合わせるということもないので、毎日好きなように暮らしている。アフリカでは猫は天才である（何もしないのに暮らしていけるから）というが、ホントにそうだと思う。</p>
<p>　私は生まれたときから犬を飼っていない時期がほとんどないので、どうしても犬と比較するようになる。</p>
<p>　犬というのは、人間と自分の立場をわきまえ、自分がどうあるべきかを考えて行動してい るように思える。自分の役割を果たすべく、自分の位置づけを模索しているのである。番犬となって見覚えのない人物を吠えたり、猟犬などは主人の狩猟の手助 けをしたりと、役割を全うしようと努力する。</p>
<p>　これに対し、猫は、人間との役割を意識しているようには感じられない。なにかしら、自分がいかに気楽に生きていけるかを追求しているように感じられる。人間にうまく頼り、波風を立てずにうまく乗り越えようとしているのだ。</p>
<p>　ネズミをつかまえることが猫の仕事でなくなった現在、特に猫の仕事というものはない。不審者が近づいても、犬のように吼えて威嚇したりすることもないし、ただいるだけである。</p>
<p>　しかし、その「いるだけ」のありかたがうまい。子供が昼寝していると、その近くで一緒になって同じポーズで寝ているのである。はたでそれを見ていると、何の意味もないのに、それもありかな、と思えてくる。</p>
<p>　実用性がほとんどないのに、それとなく存在感を示し、家族や家屋とも同化している。さりげなく存在感を主張するのはかなり難しい。違和感なく行動を周囲に納得させなければならないからだ。ある意味、ブライアン・イーノの環境音楽にも通じる生き方である。</p>
<p>　しかし、連中にも何か私たちには知らない世界があるらしい。うちの猫は表には出ない が、時々、近隣のノラとおぼしき猫がやってきて、ガラス越しに向き合っている。その様子は、明らかに後輩の猫に何かを教えに来ているのだ。猫世界には何が あるのだろうか？猫世界の掟のようなものがあるのだろうか？</p>
<p>　そういう猫であっても、この地のルールには従ってもらうしかない。いつも風呂に入れられて、スリムになってこたつに飛び込んでくるのであった。</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<title>痛風</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:27:56 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[通風 &#160; 　平成６年の秋、それは突然やってきた。 　朝目覚めたら、足を捻挫（ねんざ）したような痛みを感じた。バンテリンを付けて出勤したが、会社でもなかなか痛みが止まらない。 　捻挫がだんだん痛くなるなんて変だ。 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div>
<p>通風</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　平成６年の秋、それは突然やってきた。</p>
<p>　朝目覚めたら、足を捻挫（ねんざ）したような痛みを感じた。バンテリンを付けて出勤したが、会社でもなかなか痛みが止まらない。</p>
<p>　捻挫がだんだん痛くなるなんて変だ。そのうちに、立って歩けないほどになってきた。私は妻を呼び、そのまま整形外科に連れて行ってもらった。</p>
<p>　「まずこれは通風だなあ。」そういう病名を聞いて驚いた。そういうものとは縁遠いと思っていたからだ。しかし医者に聞いて、これは最近は年齢に関係なく、特にスポーツマンなどにも出るとわかった。ヤクルトの古田選手も痛風だそうだ。</p>
<p>　それに、あのアントニオ猪木も痛風である。激痛の中、それだけちょっと嬉しかった。</p>
<p>　この時、足の先に注射を直接打ち込む事で、この痛みは和らいだ。普通だったらそんな注射はいやだが、とにかくそのくらい痛いのだ。ブツッと刺されて、まあその時は終わった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　痛風は、昔は贅沢病などと呼ばれていた時期もあり、栄養のとりすぎで起こる病気だ。最 近では、スポーツ選手などが激しい運動の後に暴飲暴食し、痛風を引き起こす場合も多い。血液中に尿酸の結晶が出来て、それが足の先などにたまって激痛を引 き起こす。体験したからわかるが、捻挫を１０倍痛くしたような状態である。モツ煮、焼き鳥など内臓系の肉やビールをたくさん飲む人が危ない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　この時期私は最初の本、「翔びつづける紙飛行機」を出版した後だった。最初の本は、後 の「特撮の神様と呼ばれた男」のように十分な知識を得た後ではなかったので、異聞のイマジネーションによる部分が多く、毎晩ビールを飲みながらの作業だっ た。バドワイザーの缶を一晩に５，６本、多いときは１０本も飲んでトイレと往復しながら書いていたものだ。さらにはモツ煮込みなんて大好物。自分で作るく らいだったから、後で考えれば痛風になる資格十分というわけだった。</p>
<p>　また学生時代、学生プロレスをしていた関係で無理に体重を増やそうとし、暴食したのも後で反動を招く種になった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　結局この年はこの後もう一度発作があって、２回で終わったものだった。この後、食事にも注意していたのでしばらくは発作がくることはなかった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　次に来たのは平成１１年（１９９９年）である。まずは二月に台湾でお葬式があり、急遽 出かけたのだが、場所が台南なので台北で一泊しての旅となった。その頃台湾では急激にシェアを伸ばす日本のアサヒドライに対抗するため、国家事業として生 産した「台湾生ビール」が注目を浴びており、ホテルで飲んでみたがこれがうまい！調子に乗ってバンバン飲んだら異国で発作が起きたのであった（勿論一緒に 食べた料理なども一因である）。お葬式には足を引きずりながら参列した。</p>
<p>同年、また同業者のお葬式で秋田県大館市に行った私は、そこの事業所に 赴任していた高校時代のバンドのメンバー、酒井に会い、懐かしさもあってガンガン飲みまくったのである。また、その土地は比内鳥という名物があり、動物性 油脂たっぷりの食事を採りすぎて、帰ってから久々の激痛に襲われたのだった。平成１１年のその頃、私はここ１０年で一番ウェイトがない時期であり、痛風と は縁遠いと思っていたのだが、やせたらやせたなりに発作はより起こりやすくなるのであった。これは知らなかった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　そして平成１４年、父親が亡くなり、その「お別れの会（葬儀は無宗教で執り行った）」 の後、やはりまたわざわざ来てくれた酒井と飲んで発作が来てしまった。通算五分の二の確率で発作には酒井がつきまとうが、これは別に酒井が悪いのではな く、懐かしい親友なのでこっちも油断して深酒してしまうからである。また、どうもお葬式とも関連があるようだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　痛風は治らない。同世代で結構これで苦しんでいる人も多いらしい。粗食にしろと言われても、粗食するのが現在では難しいと思う。この痛みは、なった人でないとわからない。</p>
</div>
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		<title>つげ義春</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:27:17 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[キーワード]]></category>

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		<description><![CDATA[つげ義春 &#160; 中学一年の頃、つげ義春の特集を図書館で見つけ、初めて読んだ。 タッチがまるで水木しげるだったので最初は勘違いするほどであったが、お化けは登場しないし、やたら暗いので大変印象に残った。また中学一年と [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: large; color: #ff6600;">つげ義春</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>中学一年の頃、つげ義春の特集を図書館で見つけ、初めて読んだ。</p>
<p>タッチがまるで水木しげるだったので最初は勘違いするほどであったが、お化けは登場しないし、やたら暗いので大変印象に残った。また中学一年としてはずいぶんと色っぽい漫画だな、とも感じた。</p>
<p>　当時はやはり「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」のインパクトが強烈で、こういう世界もあるのか、と友人にも見せて廻ったが、趣味になるほどでもなかった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　大学生活の後半、書店で見つけた「つげ義春日記」という文庫本が、再びつげ義春熱に火 を付けるきっかけとなった。当時私は温泉巡りに興味を持ち始めており、アバンギャルドな漫画家という印象しかなかったつげ義春は、実は紀行文なども書いて おり、付随するイラストはとてつもなく引きつけられる魅力的なものであった。漫画は二つしかなく、残りは日記、紀行文で占められていたが、見た夢をそのま ま記載した「夢日記」も面白いというか、自分の世界に近い、共感する内容であった。その後、つげ作品を買いまくり、初期作品の一部を除いてほとんど揃えて いる。つげ作品は漫画も文章も面白く、それについて書かれた評論分もまた面白い。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　また、自分の故郷はつげ義春の作品に多く登場する舞台とも隣接していることも、この興 味を広げる理由となった。「二股渓谷」、「もっきり屋の少女」、「会津の釣り宿」などは車で１～２時間の所である。また、文中に登場する母畑温泉、湯野上 温泉、木賊温泉、早戸温泉なども近い。</p>
<p>　極めつけは岩瀬湯本温泉である。「来て良かった。今までで最高の所だ。」と書かれたこの温泉は、子供の頃から父親に連れられて何度も訪れた所である。つげ作品は、新鮮な衝撃と、故郷へ帰っていくような郷愁を感じさせた。</p>
<p>　こういった世界を追い求め、８０年代は温泉旅行に行くことが多い静かな人生を過ごし た。８４年からは青森県に引っ越したため、日曜となればいつもつげ義春の文章に登場する地域、温泉に出かけていった。恐山、鰺ヶ沢なども印象深い。８７年 からは会津に住み、やはりゆかりの場所に行った。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　つげ作品は、読んでいるうちに、自然に自分がその世界に入っていってしまう感覚がある。作品の中の季節がありありとわかる。登場人物の心情も、実に良く理解できる。絵と文が絶妙のバランスを持ち、見る者を深く共感させるのである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　本人の体調などもあり、新作が登場しないのは大変残念であるが、その作品は何度読み返しても興味深く、面白い。</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<title>プロレス</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:26:51 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[プロレス &#160; 　２００１年に、長く新日本プロレス・レフェリーとして活躍したミスター高橋が、「流血の魔術・最強の演技　すべてのプロレスはショーである」という書籍を出版し、大きな話題となった。 　内容は、プロレスが [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>プロレス</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　２００１年に、長く新日本プロレス・レフェリーとして活躍したミスター高橋が、「流血の魔術・最強の演技　すべてのプロレスはショーである」という書籍を出版し、大きな話題となった。</p>
<p>　内容は、プロレスが世間一般でいわれる八百長であり、真剣勝負とはほど遠いものであることを説明し、自分のレフェリー生活の中からプロレスの試合がいかに組み立てられていくかを詳細に解説しているものである。</p>
<p>　プロレスがとても真剣勝負とは思えないことは今更言うまでもないが、どうやらこれは真 剣勝負ではない、と言われた昭和３０年頃の時点（昭和３１年、映画「力道山・男の魂」の中では、力道山が自ら主演の映画でありながら、八百長という言葉が 何度も登場する。）から、なぜ今までこの様な事が世間に発表されなかったのか、実に不思議である。</p>
<p>　この半世紀の間、プロレス界に多くの人材が関わり、そして去っていったが、誰しもがこの「八百長」には関わったはずであるが、その誰もがプロレスのショー的部分には口をふさぎ、公表しようとはしなかった。むしろそのことの方が異常である。</p>
<p>　この書籍に関しては、多くの人々は、プロレスがショー的なスポーツであることは知って いても、そのショーがいかにして形成されるか、どんな打ち合わせが行われるのかは知らない。それを記述したのだから、ニーズに応えたと言えるだろうし、ベ ストセラーになるのもうなずける。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これまでこうした現実が 誰の口からも発せられなかったのは、プロレスという世間一般からはだいぶ隔離された世界において、その正体を公表することは多くの関係者の生活を脅かすこ とにもなるし、また、そういう裏切り者を許さない環境も確立されていたのだろう。それは、プロレスに関わる関係者ばかりでなく、プロレスマスコミ（これも 一般マスコミとは関わりがなくプロレス世界に隔離されている）、そしてファンまでもを巻き込んだ一種独特な世界なのである。この本が登場したのは、もはや プロレスはかつてのゴールデンタイム放送など夢となり、深夜放送枠でやっと放送されるような、人々に愛されるものではないマイナーな一分野に成り下がり、 要するに「金にならないもの」になり、プロレスの内幕を公表する掟破りの危険性がほとんどなくなったからだと思う。夜中になにやら汚いアンチャンらが騒い でいるものがプロレスだというなら、もう誰も寄りつかないのは当然だ。</p>
<p>「流血の魔術・最強の演 技　すべてのプロレスはショーである」が発表され、世間でだいぶ話題になっていた時期においても、プロレス誌でその事実はなんら話題とはならなかった。そ の書籍の存在を知らなかったといのではない。まるで、みんなで耳をふさいでいた様である。それは大本営発表か、現在の北朝鮮のように、ファンが知らされて いなかったというのではなく、プロレスという社会に共鳴し、そういう一般社会、メジャーな社会を受け付けたくないという自己防衛本能の様にも感じられた。 プロレスは専用マスコミやファンに支えられた運命共同体なのである。肩を寄せあって細々と生きる少数民族の趣を感じる。</p>
<p>　</p>
<p>プロレスを演じる彼らの 収入も、あのハードな試合から考えればあまりにも不相応な低いものであると思う。前にどこかの女子プロが経営危機に陥った時、選手の「おにぎり二個でいい 試合が出来るか。」という発言に対し、経営者側が「おにぎり３個にカレーも付けていたはずだ。」などという返答があったが、こういうやりとりを聞いている と、もしかして日本で一番エンゲル係数が高い職業じゃないかな、と思う。好きじゃないと出来ない商売である。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>プロレス評論に関して は、８０年代に鈴木邦夫という人が書いた「夢の格闘技・プロレス」という名著がある。ここで書かれているのは、格闘技の真剣勝負には、ファンが見たいと思 うようなシーンが登場する事はあり得ない。ところが、ファンは有名な選手がその得意技で勝利するシーンを夢見ている。プロレスは、ファンの見たいそういう シーンを故意に見せる事を実現する格闘技である、という事である。デストロイヤーが見事に四の字固めで勝利したり、ジャイアント馬場がロープから返ってく る相手に１６文キックを決めるのは、やはり金を払ってやってくるファンがその場面を見たいからに他ならない。プロレスラーは、互いの打ち合わせによって、 観客のニーズに見事に応えているのである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、レスラーが子供騙しのレベルでそういう「ショー」をやっているわけではない。メジャー団体のレスラーを見れば、その堂々たる体格には圧倒されるのみである。これで、弱いわけはない。単に生活のために、怪我をしないようにしているだけである。</p>
<p>また、プロレスブームの 時に学生時代を迎えていた自分は、アントニオ猪木に影響を受けていたことも手伝い、プロレス研究会に身を投じていった。そのときに経験した、プロレス技に 関しては、多少体を鍛えていても、レスラーがリング上で当たり前のように展開する技を５、６発くらってみれば、まず翌日は立っていられなくなる（プロレス ごっこではなく、観客の前でという意味）。ふつうの体力では、全国を巡業することなど不可能だ。そういう体力的裏付けがあったからこそ、レスラーも多少の 打ち合わせを甘んじて受け止めていたのではないだろうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　それに、他の格闘技にしても、ショー的要素なしではとても興行など打てるものではない。すべては同じ事の繰り返しである。ミスター高橋の言葉を借りて言えば、「すべてのプロ格闘技はショーである」である。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そういう私にとってプロレスに関する鮮烈な思い出がある。１９７７年２月のことである。</p>
<p>新日本プロレスが郡山市にやってきて、郡山セントラルホールという場所で興行を打った時のことであった。</p>
<p>メインのアントニオ猪木、木戸修組対スタン・ハンセン、ピート・ロバーツ組の試合が終わり、帰りについた時である。</p>
<p>外人専用バスがいて、そこからくだんのミスター高橋が窓から顔を出し、５、６人のファンと握手をしていた。人数も少ないし、私もそこへ行って握手しようとした。</p>
<p>ようやく私の番が回ってきて、手を差し出したそのとき、</p>
<p>ビュン！と、高橋氏の後ろから何かかが、私の顔をかすめていった。</p>
<p>それは、あのタイガー・ジェット・シンのサーベルであった。高橋氏の後ろで、あの悪役は私に向かい、壮絶な憎しみの表情で私と一瞬対峙した。それは、テレビで見ていたあの顔と同じであった。</p>
<p>当時高校１年生だった私 に対し、ここまで演技してくれるのならそれで十分さ。「すべてのプロレスはショーである」をもっと極端に言えば、「すべての世の中はショーである」ではな いか。そこまでやってくれたことに対し、これはこれで立派なものだと思った。その後もしばらくプロレスにのめり込んだのは、この瞬間の真剣さだったのかも 知れない。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>温泉</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:26:21 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[温泉・秘湯 &#160; 　子供の頃、家族で行く旅行は決まって温泉だった。特に岩瀬湯本温泉などはよく行き、父親と一緒に夜の風呂に入っていると、風呂場のガラスいっぱいに蛍が張り付いてそれはきれいだった。今ではあり得ない光景 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div>
<p>温泉・秘湯</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　子供の頃、家族で行く旅行は決まって温泉だった。特に岩瀬湯本温泉などはよく行き、父親と一緒に夜の風呂に入っていると、風呂場のガラスいっぱいに蛍が張り付いてそれはきれいだった。今ではあり得ない光景である。</p>
<p>　昔は温泉自体が素朴なものだった。風呂に入るという以外、別に楽しみはなかった。７０年代に入る頃に地元にも巨大温泉が登場し、温泉がレジャーセンター化の傾向を辿った。</p>
<p>　それぞれの時代を通じて、我が社の社員旅行は決まって温泉に宿泊している。現在もそう であるが、昔は近間の温泉で一泊、７０年代に入ってからは会社を金、土、日と三連休にして二泊旅行、また最近では会社が年中無休なので、１班から３班に分 かれての一泊旅行と形を変えながらも依然として行き先は温泉である。</p>
<p>　正直、温泉はもはや時代遅れである面も多い。会計が不明瞭である上、旅館の中で出され る飲食物が市価の何倍もする。下へ降りていって買えば１５０円の缶ビールが５５０円とは何だ！ある意味流通を無視して存在している。（高校の先輩で、この 辺の矛盾を是正した温泉経営を行っている人もいる。）しかしそれでも当社が温泉に行くのは、他に行くところがないのと、やっぱり温泉でないと、という人も 多いからである。</p>
<p>　かつては、須賀川市内の葬儀店のマイクロバスをお借りして社員旅行していたこともあっ た。後部座席は、普段であれば棺桶が乗っている場所であるが、そんなことはお構いなしにみんなで楽しく出かけていった。かつて常磐ハワイアンセンターとい う所があって、家族でもでかけたが、あれも巨大な温泉である。平成５年、福島空港が開港する頃には、沖縄や北海道にも行って来た。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　こういった社員旅行に家族ぐるみで必ず社員旅行につきあっていた私にとって、温泉は身近なものであった。</p>
<p>　大学時代の後半、書店で「つげ義春旅日記」という本を見つけた。漫画家つげ義春の旅行 記や温泉のイラストなどがふんだんに紹介されており、これにたまらなく引きつけられ、子供の頃に行った温泉のことなどが懐かしく思い出された。当時は東京 に住んでいたので、隣の部屋の住人がツメを切る音が聞こえてくるような都会のせせこましい生活にうんざりしていた時期でもあり、ことさら田舎ののんびりし た風情に憧れた、という気持ちもあった。</p>
<p>　実家に帰ると取り立ての免許で、秘湯と呼ばれる温泉をやたらと目指した。８０年代初 頭、秘湯はまだ健在で、一日に３つの温泉に入るなどという事もあった。学生時代に終わりを告げると、父の薦めで青森県に行くことになったが、これも当時の 温泉好きが高じ、青森には秘湯がたくさんあるのだろうといった、単純な動機の方が大きかった。そして、青森県付近は私のそういう期待には十分に応えてくれ たものだった。</p>
<p>　さらに、実家に帰ってからは、工場が会津に建ち、そこに住み込みとなったために会津付近の温泉を散策した。</p>
<p>　こういった動きが収まるのは、結婚したり子供が誕生したからである。寂れた温泉には女性を連れて行きにくいし（私は平気、なんていう人は甘い）、子供連れも難しいのである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　いろんな所に行ったが、最近では廃業してしまうような所も多くなった。温泉は儲かって 巨大化するか、客が来なくなって廃業するかのどちらかの運命を辿るが、近年これに寂れたまんまでそれを売り物にする、いわゆる秘湯マニアを相手にする所も 登場した。「日本秘湯を守る会」の看板も堂々と掲げてある。</p>
<p>　私はでかいゴージャスな温泉よりも、寂れた秘湯が好きであることは言うまでもないが、秘湯を売り物にするのはあまり嬉しくないと思っている。</p>
<p>　秘湯であろうとする行為をまあ認めなくはないが、「秘湯を守る会」に入らなくても、十 分秘湯のイメージを持つ温泉はたくさんある。私にゆかりのある福島県と青森県を比較すると、青森県は秘湯が秘湯として堂々と存在するが、福島県ではまるで 山のすみに隠れているかのように秘湯が点在する。そういう所を見つける喜びというのは格別である。</p>
<p>　青森県はあまりにも田舎なので秘湯が手つかずの状態にあるが、福島県は東京から近いの ですぐに影響を受け、人間に媚びてしまう。秘湯は、人間に媚びず、自然に向かって超然としてこそ秘湯なのだ。最近新幹線が八戸まで伸びたが、秘湯が荒らさ れるのではないかと心配している。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　ここでどの温泉が良かった、ということは出来るが、そこには私の人生の一コマを感じさ せるシチュエーションというものがある。だから、それは絶対的評価ではない。温泉は、いった人がこれはいい、と思えばいいのだ。ただ、好きな人はそのチャ ンスが普通の人よりも多い、というだけであると思う。</p>
</div>
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		<title>五反田</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:25:51 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[五反田 &#160; 　私がいつも行く全国クリーニング協議会は大崎に事務局がある。平成１０年の末に青年部会長になって、ぐっと出張の回数が増した。会合が終わり、飲みに繰り出すのは隣町の歓楽街、五反田である。大崎には飲み屋は [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><b>五反田</b><b></b></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　私がいつも行く全国クリーニング協議会は大崎に事務局がある。平成１０年の末に青年部会長になって、ぐっと出張の回数が増した。会合が終わり、飲みに繰り出すのは隣町の歓楽街、五反田である。大崎には飲み屋はなかった。いや、今でも一次会場しかない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　私は４歳の時に初めて上京し、それ以来東京に行くのが楽しみであった。東京に行くと、なぜか故郷に帰っていくような郷愁を感じた。</p>
<p>　それは、変だと思われるかも知れないが、東京はいつまでも昔のままだからである。</p>
<p>日本において田舎というのはどんどん変わっていくものである。人口の希薄な地域に、次々と素晴らしい道路ができあがる。日本はお金が田舎にばらまかれる不思議なシステムがある。</p>
<p>　ところが、東京はあまり変わらない。お台場や六本木といったところはすごいが、商店街など昔のままで営業している。</p>
<p>　自己流の解釈をすれば、それは人口が多いからだと思う。田舎では人口が少ないから廃業 する商店がある。都会ではとりあえず人口が多いからそのままでいられるのだ。もう、田舎にはチェーン店以外のレストランは存続しにくくなっている。コンビ ニ以外の商店も同様。田舎に行けば田圃の中にコンビニも、ショッピングセンターもある。</p>
<p>　ところが、東京では個人経営の店が今でも営業している。そして嬉しいことに、スタイルもあまり変わらない。そういうところにたまらない魅力を感じるのだ。何だか昔に戻ってきたみたいに・・・。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　酒を飲みに行くようになった街、五反田は、わたしのそういう趣向に見事に応えてくれる 街であった。昼間行くと、まるで昔の郡山のようである。駅前に古―いデパートがある。ガード下の飲み屋がある。そして五反田からはトローい走りの池上線が 出ている。ほとんどＳＬの様なものである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　ガード下に焼鳥屋がある。Ｌ字型のカウンターに７人しか座れない小さな店だが、これが 実にうまい。あんまりうまいので家族で行ったくらいである。ここに同業者を連れて行くと、やはりその魅力にとりつかれ、常連になってしまう。このほかにも 五反田には魅力的な店が多い。居酒屋も、寿司屋も、焼き肉屋もイタリアンも、フレンチも、チェーン店ではなく多くが個人経営。人口が多いから生き残ってい るだけではなく、それぞれが持ち味を出して、魅力的な店作りを実践している。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　二次会以降も、まるで昭和３０年代の映画の世界に入ったようなレトロなクラブが現存し ている。森繁久弥や加山雄三や植木等になったつもりで飲んでいるような感じである。子供の頃、怪獣映画の同時上映の若大将やクレイジーを見て、東京に憧れ たものだ。それが、そのまま実現できるというわけである。東口の有楽街などは、昭和３０年代の繁華街がそのまま残っている感じである。店も、立っている呼 び込みの人も、町並みも・・・。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　私にとって東京に行き、夜になって酒を飲むというのは、過去を懐かしむ旅に出かけるようなものである。子供が憧れていたすべてが東京にはあった。そして、今の年齢にふさわしい宝物が、五反田にはあるのだ。</p>
<p>　東京がどんなに発展していっても、五反田には変わらない世界がある。お台場一丁目商店街のように演出されたものでなくても、血の通った過去がある。古びた商店街も、猥雑な路地裏も、時間の止まった飲食街も、すべてが素晴らしい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　かつては隣の大崎が、山手線でもっとも寂れた駅であったが、今やニューシティ、ゲート シティ登場で発展し、昨年１２月からはりんかい線開通、埼京線も延びて五反田よりも都会になってしまった。かたや五反田は、山手線のこっち方面としては一 番寂れた駅になってしまった感がある。大塚から鶯谷までを別格として、駅のホームから眺める光景は、郡山駅よりはずっと田舎である。いや、今となっては昔 のままで存在していられる幸せがある。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　今や新宿、池袋と同等の魔都となった渋谷は、人がぶつかっても平気で流れていく不良ガキの街となってしまった。どの店のテーブルも異常に狭く、東北の私には耐えられない。五反田は飲食店のテーブルも地方仕様といった感じで、渋谷のような窮屈さがない。その点が快適だ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　平成１４年、家族で恐竜博を見に行ったときに、恐竜博もそこそこに家族が向かったのは 上野アメ横、東京タワー、そして五反田の焼き鳥屋だった。ガード下の狭い焼鳥屋を見て家族は仰天したが、焼き鳥のおいしさと、店主と常連客が人情で一体と なった雰囲気にすぐに満足した。結局私は少年時代のあこがれを、子供たちに見せるのが憧れだったのだ。東京は私にとってのアンバランス・ゾーンなのであ る。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>ウィルヘルム・フルトヴェングラー</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:25:07 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[フルトヴェングラー &#160; 　中二の頃、須賀川のレコード店、ヨシグンで、クラシックのコーナーを物色していたとき、ベートーベンのところで初めてフルトヴェングラーのレコードを目にした。 　ベートーベンのコーナーのレコー [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>フルトヴェングラー</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　中二の頃、須賀川のレコード店、ヨシグンで、クラシックのコーナーを物色していたとき、ベートーベンのところで初めてフルトヴェングラーのレコードを目にした。</p>
<p>　ベートーベンのコーナーのレコードは、ジャケットは大抵がベートーベン本人の肖像画か ヨーロッパ的な写真とかであったが、この人のレコードだけはジャケットがベートーベンではなく、このフルトヴェングラーという人物の肖像であった。そうい うものがベートーベンのところだけでいくつもあった。</p>
<p>　これはよほど偉い人に違いないと、買ってみることにした。高いものでもなく、仏のLPが２０００円くらいの時代に１３００円であった。この時に買ったのがベートーベンの３番、１９４４年の録音ということでいわゆるウラニアのエロイカだった。</p>
<p>　聴いてみて感じたのは、録音がかなり古いことだ。そういうことがまるでわからずに購入したのでややガッカリしたが、それでもこのレコードは毎日のようにプレイヤーにかける愛聴盤となった。</p>
<p>　この後ちょっと過ぎて、テレビでカラヤンのエロイカをやった。放送用の録音だったが、 同じ「英雄」なのに、こっちの方は何だか全然迫力がなくていいとは感じなかった。当時カラヤンは来日もあり人気絶頂だったが、なーんだたいしたことない や、と思ったものである。ウラニアのエロイカと比較されては仕方がないが、この時、私はクラシック音楽というものが指揮者によってかなり違うのだというこ とを知った。</p>
<p>　その後この音楽熱はバンド結成などによってロックへと変わり、再びクラシックへと移行するのは環境が整った大学に入ってからのことであった。</p>
<p>　大学の寮、和敬塾には小沢陽というクラシックにやたら造詣の深い先輩がいて、クラシックに関していろいろ教えてもらったものだ。この人は今は日本交響楽協会にいて、私も２００１年には会社でピアニストを招いて記念コンサートを行ったこともある。</p>
<p>　この時期から熱狂的なファンになった私はレコードを買いまくった。高田馬場に中古レコード店もあったので、これもまた良かった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　フルトヴェングラーの場合は、本人がもうとっくに亡くなっている（１９５４年１１月３０日没）し、熱狂的なマニアが多いので、同じ曲でも違う録音だといくらでもレコード、CDが売り出される。また、「音楽は一回限りの芸術」と本人も言っているとおり、演奏によって印象が違うので、同じ曲でも演奏した日が違えば何枚でも買ってしまう。また、それでも価値があるのである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　クラシック音楽を聴く動機は、やはり父の影響によるものが大きいのだが、父はフェリッ クス・ワインガルトナーが好きで、フルトヴェングラーに関しては名前は知っているものの、特に好きでもない。父はＳＰ時代の人間で、ＬＰの頃になると忙し くなったせいかクラシック熱も冷めてきたので、そういう影響もあるかもしれない（ＳＰ時代にはあまりフルトヴェングラーの名盤は存在しなかった。）。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　私にとってフルトヴェングラーのあり方はレッド・ツェッペリンと似ている。ツェッペリ ンもスタジオ録音が限られている割には次々と本人の意図しない実況録音版（海賊版）が登場しているが、フルトヴェングラーもそれと同じで、次から次へと録 音が登場する。それは、没後５０年近く過ぎた現在でも変わらない。生涯のコンサートの記録なども出版されているが、これもツェッペリンと同じである。</p>
<p>　「楽譜は演奏の出発点に過ぎない」という現在では及びもつかないような発想を持ち、ほ かの指揮者から「この曲のこの部分はどのようなテンポで演奏するか？」と聞かれれば、「それは会場と聴衆によって変わりますよ。」と、ライブ至上主義の ロッカーのような答えが返ってくる点なども、コンサートでの即興演奏が楽しみのツェッペリンとの類似点が多い。文献も非常に多く出ていて、それらも皆大変 興味深い。</p>
<p>　音楽とはいろいろなジャンルによって、それぞれのピークというものがあるのではないだ ろうか？クラシックの場合、作曲はともかく演奏に関しては１９３０年代から４０年代にかけてフルトヴェングラー、トスカニーニ、アーベントロート、ワイン ガルトナー、ワルター、メンゲルベルクなど大指揮者が多数登場し、まさに黄金期と言える時代があったが、ロックに関しては１９６８年から７０年代初頭にか けて、常識を覆すすごいバンドが数多く登場し、それらは未だに聴かれている。両方のジャンルに、その時代を超える存在がまるで登場していないのである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　さて、私はこのフルトヴェングラーの墓参りに行ったことがある。平成５年のことであっ た。業界の研修会でシュツットガルトに行くことになり、フルトヴェングラーの墓のあるハイデルベルクまでは１００キロ先なので、もしかしたら行けるかもし れない・・・という安直な発想の元に出かけていったのである。</p>
<p>　朝早く出て、シュツットガルトから電車に乗る。外国の電車は当てにならないということ だったが、そこは流石ドイツ、定刻にやってきた。ハイデルベルク駅に降りて、路面電車に乗ってベルクフリートホフで降りると、レコードのライナーに載って いたとおり、門のある墓場に着いた。</p>
<p>　広大な墓地、この中にフルトヴェングラーの墓がどこにあるのか。普通なら発見すること は出来ないだろう。初めての異国で、広大な墓地から一人の人物の墓を探し当てることなど出来ないのが普通である。しかし、そういうことが出来るのである。 なぜなら、それはフルトヴェングラーだからだ！</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　墓の前に着くと、涙が出てきた。墓の前にはやはり他の人よりは多くの人が訪れるのだろう、ベンチが二つあった。頭の中に流れたのはブラームスのシンフォニー３番、第３楽章だった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　フルトヴェングラーはナチ時代などの事を考えても、徹底して世渡りは下手だったようだ が、やっぱり芸術家は世渡りがうまくては芸術家ではないよなあ。実力だけでどんどんのし上がることの出来る時代だったんだろうが、今でもそういう音楽が聴 けるのは大変嬉しいことだ。「芸術は大衆に向かって語りかける。」と言ったのがフルトヴェングラーだが、果たして今の芸術家という人たちが大衆に向かって 語りかけているだろうか？無学な私のようなものをクラシック音楽に夢中にさせるからこそ、フルトヴェングラーは偉大なのである。</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<title>ブライアン・イーノ</title>
		<link>http://www.cercle.co.jp/blogs/?p=387</link>
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		<pubDate>Mon, 06 Mar 2000 01:23:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[クリエイト]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[キーワード]]></category>

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		<description><![CDATA[ブライアン・イーノ &#160; 　この不思議な音楽家は、常に私に衝撃を与え続けたものであった。 　中学二年生の時、私は書店で「MUSIC LIFE」という雑誌を購入した。その時大ファンだったT・rexが表紙であったこと [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><b>ブライアン・イーノ</b><b></b></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　この不思議な音楽家は、常に私に衝撃を与え続けたものであった。</p>
<p>　中学二年生の時、私は書店で「MUSIC LIFE」という雑誌を購入した。その時大ファンだったT・rexが表紙であったこともあった。</p>
<p>　しかし、表紙をめくったカラー・グラビアには、当時売り出し中のバンド、Roxy Musicの写真があった。これは、幼稚園の時に少年マガジンかサンデーの表紙で バルタン星人を見たときと同じくらい気色悪かった。服装が不揃いのメンバー達がケタケタ笑っていて、一番右側にはほとんど化け物みたいな男が写っていた。 現在音楽評論家となった幼なじみの笹川孝司は、これを見て「カラスみたいな奴だな。」と言ったものである。それが、ブライアン・イーノであった。</p>
<p>　ロキシー・ミュージックは、東北の中学生にとってあまり嬉しい音楽ではなかった、パープル、ツェッペリンが激しいシャウトを聞かせ、ELPやイエスが壮絶な技巧を奏でる中で、これは何の魅力もないものと感じられた。その魅力に少しは気がつくのは、ずっと後だった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　そして大学時代、私の住んでいた和敬塾という学生寮にアメリカからの留学生がいて、そこで彼らが「いい、いい。」と喜んでいたのが「forth world vol1,possible musics」というアナログレコード、ブライアン・イーノがジョン・ハッセルと組んだものだった。</p>
<p>　イーノの名前を聞くのは久しぶりだったが、なるほど聞いてみると、今までは聞けなかったような音がする。こういうのがアバンギャルドなのかと思って自分でも購入した。</p>
<p>　不思議な音楽だったが、（というよりも音、だったが）、聞いていると不思議と心が和ん でくるものだった。当時、私はいい加減都会の喧噪に飽きてきて、田舎ののんびりとした風景に憧れていた。つげ義春に傾倒したのもその現れであったが、同時 期にブライアン・イーノの洗礼も受けた。</p>
<p>レコード店で探すと、これがまたたくさんあるものである。といっても彼だけの音源ではなく、誰かとともに新しい音楽を模索する、といった方向性があった。環境音楽というのが当時流行したが、「music for airport」というアルバムに代表されるように、邪魔にならない音楽がテーマであったらしい。</p>
<p>そのうちに私は社会人となり、青森県に行った。その頃出たのが「Pearl」というアルバムである。ハロルド・バッドというピアニストと作ったものだが、これがたまらなく素晴らしかった。当時、車に乗ってこれを聴きながらドライブした。秋田県の乳頭温泉郷に行くときなどこれを聞いて言った。田沢湖の湖の輝きを見ていると、この音楽を思い出す。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>イーノは様々な活動を行って、いろいろなミュージシャンに光を与えたよ うに思える。ハロルド・バッド、ジョン・ハッセル、ララージなどだが、みんな良かった。この時期、環境音楽の影響を受けて、同様な音楽がたくさん発売され たが、聞いてみるとみんなイーノの足元にも及ばなかった。これはこれで道を究めていたのである。</p>
<p>　環境音楽というジャンルはその後流行し、同様なサウンドが多く登場した。環境音楽はど れもボヤンボヤンとした雰囲気で同じような印象だが、ブライアン・イーノが関わったものは何というか、格が違う。音楽にならない音を出させてこれほどサマ になる人も珍しい。そういう才能を持ったミュージシャンなのだろう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただし、８０年代に、ロジャー・イーノというイーノの弟名義のレコードが出たことがある。これはちょっと月並みだった。アバンギャルドな音楽をやっているイーノも人間だったのね。イーノも人の子。弟はやっぱりかわいかったのかと思ったものだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　芸術活動を志し、常に前進するイーノ。そんなにレコードやCDが売れているようでもないし、大丈夫かな、と思えるけれど、それでこそ芸術家じゃないか！金のことを考えていては芸術家じゃないよ（よくわからないけれど）。これからもがんばって欲しい。いっぱい音源（映像も）、出して欲しい。</p>
<p>&nbsp;</p>
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