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	<title>株式会社セルクル代表取締役　鈴木和幸のページ &#187; 円谷英二関連</title>
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	<description>株式会社鈴木和幸のページ</description>
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		<title>真砂子って誰？　円谷英二の秘密</title>
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		<pubDate>Sat, 25 Apr 2026 12:01:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[cercle]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[「真砂子」って誰？ 円谷英二の秘密 &#160; 　現在、須賀川の偉人、円谷英二を朝ドラに、という動きがある中、円谷英二に関する話題を提供したい。 &#160; 　円谷英二は、その生涯の中で、実家との手紙のやりとりを数多 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: large; color: #ff0000;">「真砂子」って誰？</span></p>
<p><span style="font-size: large; color: #ff0000;">円谷英二の秘密</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　現在、須賀川の偉人、円谷英二を朝ドラに、という動きがある中、円谷英二に関する話題を提供したい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　円谷英二は、その生涯の中で、実家との手紙のやりとりを数多くしている。それらの中には若い頃、人生の悩みを打ち明けるもの、兄と慕う五歳上の叔父、一郎に叱咤激励されるもの、新しい映画会社に移り、意気込みを語るもの、戦後、公職追放指定となる心配があった時期に不安な心境を吐露するものなどどれも大変興味深いが、その中に、「真砂子」という名前が登場するものがいくつかある。戦前の手紙にも、戦後にもである。真砂子とは、いったい誰だろうか？今回はこの謎を探求していきたい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #ff0000;">手紙に登場する「真砂子」</span></p>
<p><span style="font-size: large;">　</span>いくつかの手紙の中から、昭和９年と思われる（封筒が紛失している）手紙を紹介したい。</p>
<p>　この中には、時代劇映画ばかり粗製濫造させる古い映画会社を去り、JOスタジオに入社した時期の手紙である。英二は当時研究していたスクリーン・プロセスについて詳しく説明し、その意気込みを語っているが、ようやく理解者（大沢義夫）が現れたことの喜びを語っている。実家の人たちに実に生き生きとした映画技術の発展に向けた自身の努力について買ったっているものである。</p>
<p>　そして、「さんざん真砂子に急ぎ立てられているのですが」、「真砂子ともときどきは家庭争議を引き起こすほど」など、手紙に「真砂子」という女性が何度か登場する。</p>
<p>　また、戦後まもなくの手紙にも、長男、一（はじめや）次男、皐（のぼる）を帰省先の須賀川から連れて帰る汽車の中でも、「真砂子」は登場している（混んでいる列車の中で、ようやく席が空いて座って換えることができた喜びも書かれていた）。</p>
<p>　子供達と一緒に出てきたりするのであり、どの手紙の文面の印象からも「真砂子」という人は英二の奥さんではないかと思われるのだが、英二夫人は「マサノ」であり、「真砂子」ではない。</p>
<p>　これについて、英二の三男、粲（あきら）氏に聞いたことがある。お母様の本名は真砂子ではないかと聞いたのだが、「そのような名前は知らない」とのことだった。そこで、いろいろな手紙に「真砂子」という名前で出てくることを説明したが、「それは初めて聞く話だ」ということだった。</p>
<p>もっとも、父親が実家に宛てた手紙のことを息子に説明するようなことは普通ないし、後で父親の昔の手紙を息子が見るようなことも一般にはないから、これは不自然な話ではない。しかし、そうなると真砂子とは誰なのだろうか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #ff0000;">英一　→　英二</span></p>
<p>　ただ、いろいろ考えてみると、円谷英二自体が実は本名ではない。本当は長男だから「円谷英一」である。これについては、以前は、東北なまりの強い英二が都会で自己紹介するときに「ツブラヤエーイジです」といったために英二になったとか、映画人は「二」を好むから英二になったとか俗説があったが、現在では、兵役が終わって一度は須賀川に戻り、実家の手伝いをすることになった際、占いに詳しい親族がいて、姓名判断をして「英二」になったというのが最も信憑性があり、現実に親族からその話も聞いている。実家にはわずか五歳年上の叔父の一郎がおり、今後やっていく上で、一郎と英一がいたのでは長男が二人いるようだから、英二にすればいいとなり、画数を調べてみても格段に良くなることから「英二」と名乗るようになったと考えられ、それはほぼ間違いないだろう。</p>
<p>このように、英二自体が本名でないので、奥様も手紙の上だけではあるが、縁起を担いで「改名」した可能性が高い。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #ff0000;">やっぱり真砂子は奥さん？</span></p>
<p>　もし、真砂子という奥様とは別の女性がいたとしても、実家に宛てた手紙の中に何度も書くなどということは考えにくい。やはり真砂子は奥様ではないかと思う。ちなみに円谷マサノを円谷真砂子にすると、確かに画数はずっと良くなる。これはウェブ上にある姓名判断のサイトなどでもわかる。</p>
<p>　案外、円谷英二という人は、縁起にこだわる人だったのではないかと思う。いろいろ浮き沈みの激しい人生を送った人だったので、そういうことにこだわるようになったのではないかと思う。マサノ夫人は円谷家の実家との関係も非情に良好だったので、実家から「手紙を書くときはこのように名乗ると良い」と勧められたのかも知れない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #ff0000;">以前からの疑問</span></p>
<p>　私が９０年代に最初に伝記を書いたときも、英二が出た実家、大束屋の円谷誠さんにお手紙をお借りしたが、そこにも真砂子と書かれたものがあり、これは誰なのだろうと思った。ただ、文面から判断すると、当時もやはり奥様であることがうかがえた。</p>
<p>手紙の中だけのことではあったので、親族すら知らないという希有な問題だったが、円谷英二のそういう一面もうかがえて、興味深いともいえる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<title>須賀川「第二の特撮人」 影山 重雄 ― 忘れられた特撮黎明期の技術者 ―</title>
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		<pubDate>Mon, 24 Nov 2025 10:41:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[cercle]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[須賀川「第二の特撮人」 影山 重雄 ― 忘れられた特撮黎明期の技術者 ― 特撮の神様・円谷英二が須賀川市の出身であることは広く知られている。しかし、須賀川にはもう一人、戦前・戦後の日本映画で特撮技術を支えた人物が存在して [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<h1 data-start="51" data-end="66">須賀川「第二の特撮人」</h1>
<h2 data-start="67" data-end="94">影山 重雄 ― 忘れられた特撮黎明期の技術者 ―</h2>
<p data-start="96" data-end="183">特撮の神様・円谷英二が須賀川市の出身であることは広く知られている。しかし、須賀川にはもう一人、戦前・戦後の日本映画で特撮技術を支えた人物が存在していた。それが影山重雄である。</p>
<h3 data-start="185" data-end="201">■ 出自と映画界入り</h3>
<p data-start="202" data-end="374">影山重雄は須賀川市で「影山作画社」に生まれた。影山作画社は、当時の映画館が常設していた上映作品の看板やポスター類を描く、映画興行には欠かせない仕事を担っていた。当時の映画館は映画館ごとに看板を手書きで描く作業が行われていた。<br data-start="286" data-end="289" /> 影山は親戚にあたる円谷英二を頼り、戦前に円谷が勤務していた東宝へ入社した。このことにより、須賀川には“二つのルート”から映画・特撮界へ進んだ人物が存在していたことになる。</p>
<h3 data-start="376" data-end="395">■ 特殊技術者としての活動</h3>
<p data-start="396" data-end="508">戦後、影山は映画のクレジットへ「特殊技術」「特殊撮影」名義で参加するようになった。<br data-start="437" data-end="440" /> 1949年の大ヒット作、原節子主演の『青い山脈』では特殊技術として名前が残っており、この作品には後にピープロの社長となる鷺巣富雄もノンクレジットで協力していた。</p>
<p data-start="510" data-end="708">のちに影山は大映で多くの作品を手がけ、『丹下左膳』『続 丹下左膳』『大仏開眼』などに特殊撮影名義でクレジットされている。中でも特筆すべきは昭和28年（1953年）公開の『怪談佐賀屋敷』である。<br data-start="606" data-end="609" /> 佐賀藩の化け猫騒動を題材にした同作では、戦前にアイドル的な人気を誇った入り江たか子が化け猫を演じ、大ヒットを記録した。影山はこの作品でふんだんに特撮技術を駆使し、戦後特撮の初期成功例の一つを築いた。今日までこの題材を扱った作品は多いが、間違いなくこの作品がナンバーワンであるといえる。</p>
<p data-start="710" data-end="804">注目すべきは、この1953年という年が、円谷英二が東宝で『ゴジラ』（1954年）を発表する直前であるという点である。すなわち影山は、円谷に先んじて戦後特撮で大きな成功を収めた人物であった。</p>
<h3 data-start="806" data-end="830">■ 地域に残る記憶と、鷺巣富雄との縁</h3>
<p data-start="831" data-end="925">2023年には、須賀川市の団体「須賀川知る古会」が『怪談佐賀屋敷』の上映会を開催している。戦後初期の特撮としての価値に加え、須賀川ゆかりの技術者の作品という意味でも再評価の動きがみられる。</p>
<p data-start="927" data-end="1060">影山は東宝時代、後に『マグマ大使』『スペクトルマン』『怪傑ライオン丸』などを生み出すピープロの社長・鷺巣富雄が入社してきた際、親切に面倒を見たという。鷺巣はその恩を深く感謝しており、のちに著書『夢は大空を駆け巡る　恩師・円谷英二伝』にも影山との思い出が記されている。</p>
<p data-start="1062" data-end="1175">1990年代、筆者（鈴木和幸）が鷺巣を須賀川の円谷英二生家・大束屋へ案内した際、古い写真の中に影山の顔を見つけた鷺巣は、「あ、この人だ！」と喜んだ。戦中・戦後の混乱の中で忘れていた人名が、写真によって一気に蘇った瞬間であった。</p>
<h3 data-start="1177" data-end="1200">■ 忘れられた技術者を再び須賀川へ</h3>
<p data-start="1201" data-end="1333">影山重雄は、現在ではほとんど語られることのない人物となっている。しかし、須賀川出身であること、戦前から戦後にかけて映画特撮の黎明期を支えたこと、そして円谷英二と深いつながりを持っていたことを考えれば、須賀川市において「第二の特撮人」として顕彰されるべき存在である。</p>
<p data-start="1335" data-end="1433">影山重雄を紹介することは、須賀川の映像文化史をより豊かにするだけでなく、特撮史の空白を埋める意義を有している。本HPが、忘れられた技術者の姿を再び地域と映画史の中に取り戻す一助となれば幸いである。</p>
<p data-start="1335" data-end="1433"><a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/578d4c13455e321a2844405ddb86fc0f.jpg" rel="lightbox[1138]"><img class="alignnone size-medium wp-image-1139" alt="夢は大空を駆け巡る" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/578d4c13455e321a2844405ddb86fc0f-300x300.jpg" width="300" height="300" /></a></p>
<p data-start="1335" data-end="1433">影山氏についての記載がある書「夢は大空を駆け巡る」（鷺巣富雄著）</p>
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		<title>日本映画輸出振興協会　怪獣映画製作に税金が使われた時代</title>
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		<pubDate>Fri, 08 Mar 2024 01:37:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[cercle]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[日本映画輸出振興協会 　怪獣映画製作に税金が使われた時代  （この文章は須賀川市のFM曲、ウルトラFMで放送れる番組「セルクルさわやかライフ（毎週水曜午後１時から放送、再放送は毎週土曜午後１時半）」で放送された内容の原稿 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: large; color: #ff0000;">日本映画輸出振興協会</span></p>
<p><span style="font-size: large; color: #ff0000;">　<span style="color: #0000ff;">怪獣映画製作に税金が使われた時代</span></span></p>
<p> <span style="color: #008000;">（この文章は須賀川市のFM曲、ウルトラFMで放送れる番組「セルクルさわやかライフ（毎週水曜午後１時から放送、再放送は毎週土曜午後１時半）」で放送された内容の原稿をブログ用に編集したものです）</span></p>
<p> <span style="font-size: large; color: #ff0000;">ウルトラFMはこちらから</span></p>
<p><a href="https://www.jcbasimul.com/ultrafm">https://www.jcbasimul.com/ultrafm</a></p>
<p><a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/150315aa1c2f28ff8f4f70e440a7030b.jpg" rel="lightbox[1028]"><img class="alignnone size-medium wp-image-1029" alt="ウルトラFM" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/150315aa1c2f28ff8f4f70e440a7030b-300x135.jpg" width="300" height="135" /></a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">日本映画輸出振興協会登場</span></p>
<p>まさに怪獣ブームと呼ばれた昭和４１年の５月、財団法人日本映画輸出振興協会という団体が設立された。この団体は、当時大人気だった円谷英二監督が関わった特撮怪獣映画が海外でも大変売れていたので、国が助成金を出してもっと作らせようという協会である。</p>
<p>特撮、怪獣映画に限定したものではないが、海外で売れたものはそういう映画しかない。国から税金を原資とした助成金が出るとはすごい。今から考えると冗談みたいな話だが、これは事実である。</p>
<p>昭和２９年、「ゴジラ」に始まる日本の特撮、怪獣映画は大ヒットしたが、これは日本だけのことではなく、海外でもヒットした。当時は１ドル３６０円の固定相場だったのでこの稼ぎは大きかった。円谷英二が絡む特撮映画は、製作が発表されると海外のバイヤーがそれを聞きつけ完成前から買いたがるような状況だった。</p>
<p>昭和３０年代も後半となると、円谷英二もいい加減怪獣映画ばかり作らされる環境にだんだん飽きて、もっと自由に作品を作りたいと考えるようになっていた。この時代に台頭してきたメディアはテレビ。円谷英二はテレビに興味を持ち、息子二人をテレビ局に就職させている。</p>
<p>そして、円谷監督はマスコミに東宝からの独立を宣言する。これは事前に何も聴かされていなかった東宝をあわてさせるが、こういうところが円谷監督らしいところでもある。これはスキャンダラスに報じられたので、東宝首脳部は火消しに走った。結果として、円谷プロダクションの設立は認可するけれど、その幹部には東宝の人たちを介入させることとなったようだ。まあ、この判断は正しかったと思う。会社は優れた発案やカリスマ性だけで運営できるものではない。</p>
<p>そういったことから他の会社の映画の仕事は日活の石原裕次郎主演、「太平洋ひとりぼっち」くらいだったが、テレビでは活躍する。１９６６年、１月２日からTBSで始まった「ウルトラQ」は大ヒットとなり、続く「ウルトラマン」もさらにヒットして、世はまさに怪獣ブームが到来、そんなときに幼稚園から小学一年生になった私なんかはそのさなかにあり、頭の中が怪獣だらけになってしまった。郡山のデパート、うすいでは屋上で怪獣ショーが行われ、ソフビ人形がいっぱい売られていた。</p>
<p>こういう状況の中で、日本もこれだけ怪獣が流行し、海外でも人気があるなら、これを日本の産業として振興していこうということになった。そこで、日本で作る特撮や怪獣映画に助成金を出し、より外貨を獲得しようという企画が起こります。それが日本映画輸出振興協会である。決して特撮映画に特化した制度ではなかったが、実際、ほぼ特撮怪獣映画しか海外ではヒットしていなかった。</p>
<p>財団法人日本映画輸出振興協会は１９６６年５月、まさにテレビではウルトラQが大ヒットしていて、怪獣映画も量産されるようになった頃にスタート、東宝では相変わらず怪獣映画が量産されていて、大映も１９６５年の大怪獣ガメラが低予算にもかかわらずヒットしたことにより、シリーズ化されていく。大映はガメラに続いて大魔神もシリーズ化したので、この時期、東宝を追いかける勢いを持ったことになる。また、大映は東京と京都の二カ所に撮影所を持っている強みを生かし、東京でガメラシリーズ第二弾、ガメラ対バルゴンを制作、京都では大魔神を制作して特撮映画新作二本立てを実現します。東宝にもできないことを行っている。</p>
<p>このような状況下、特撮映画が他の国にはあまりまねのできない日本独特の文化であり、日本経済に貢献しているのなら、それを振興する団体を設立してさらに盛り上げていこうということになったわけである。</p>
<p>この制度の中で、大映ではガメラシリーズ第３弾、「ガメラ対ギャオス」が融資の対象になり、大魔神シリーズ第３弾の「大魔神逆襲」も融資が得られた。また、今まで特撮映画には関心がなかった日活、松竹も急に怪獣映画を作り出す。日活は「大巨獣ガッパ」という作品を製作、この映画のヒロインは、先日亡くなった山本陽子。南海のオベリスク島で子供の怪獣を日本のテーマパークに連れて行ったら、親怪獣が連れ戻しに来るという、どこかで聞いたようなストーリーになっている。</p>
<p>松竹では、宇宙大怪獣ギララが制作される。人情ものの作品が多い松竹では異色であり唯一の怪獣映画だったが、宇宙船、アストロボートの噴射口に付着した謎の発光物体を持ち帰るとそれがら怪獣ギララが登場するという、後のエイリアンの先駆けになったような話でもある。</p>
<p>ガッパとギララの２作品については、円谷英二監督のところで働いていた技術者、渡辺明、川上景司といった人たちによって作られた日本特撮映画株式会社が特撮を担当している。</p>
<p>日本では現在でも怪獣映画、特撮映画が多く制作されているが、実はこんな風に政府が怪獣映画の制作を後押しした時期もあった。</p>
<p>一方、もう一つの映画会社、東映では、特撮映画は制作していたものの、社の方針でこのような融資を受けることはなかった。１９６６年に公開した「大忍術映画ワタリ」が大ヒット、海外でもヒットしたことにより、次に「怪竜大決戦」を制作、これは日本映画黎明期から何度も何度も映画化された児雷也の話を、最近の怪獣ブームに合わせて、変身するガマを怪獣並みの大きさにしたり、戦う相手も龍の怪獣にして作り上げた。配役も児雷也が松方弘樹、敵の大蛇丸（おろちまる）が大友柳太郎、ヒロインが当時のアイドル、小川知子とやたら豪華でもある。</p>
<p>現在でもコロナ下の日本で事業再構築補助金なんてのが出ているが、国が出す助成金というのはどこかこう、おかしな傾向がある。この日本映画輸出振興協会に関しても、そういった特撮作品には慣れていない日活や松竹に強引に怪獣映画を作らせた印象があり、近年の事業再構築補助金を思い起こさせます。慣れないことを無理にやってもそう簡単にうまくいかない。で、結局、映画会社五社に３年間で６０億円もの投資を行うと謳ったこの制度は、たくさん作りすぎたために質の悪化につながり、それまで円谷監督が関わった作品はアメリカに３０万ドルで売れていたが、一つの作品に付き５万ドル程度に買いたたかれてしまい、日本国内でも怪獣映画のあまりの粗製濫造により怪獣ブームが終演してしまうという事態になった。あまりにもたくさんの怪獣を一時期に見せられた当時の子供たちは怪獣に飽きてしまい、次に起こった水木しげるや楳図かずおに代表される妖怪ブームに注目した。もくろみは完全に外れた。これについては、円谷監督もシニカルに回顧していた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">永田雅一の暗躍</span></p>
<p>　さてこの財団法人日本映画輸出振興協会、何がきっかけとなって発足されたかというと、実は大映の社長、永田雅一が政界に働きかけて始まっている。政財界に通じていた永田雅一しかできないことともいえる。</p>
<p>　最初のガメラの公開は１９６５年１１月２７日。これが低予算の割に大ヒットしたので、永田はこれはいけると思ったのだろう、自分で作る映画のため政府から金を出すことまで考える永田はなかなかやり手である。</p>
<p>　ガメラは海外市場でも大変人気があり、だから第４作、「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」からは主人公を日本人の少年と白人の少年にし、海外でもあまり違和感なく見られるようにするなど工夫もしていた。</p>
<p>　しかしこの永田雅一社長、我らが円谷英二監督とは深い因縁がある人物としても知られている。円谷監督としては、どちらかといえば敵みたいな存在。だから日本映画輸出振興協会についても、シニカルな目で見ていたのだろう。</p>
<p>　１９３０年頃、日本映画もようやくトーキー、音付きになっていた頃、日活の社員であった永田は当時松竹にいた円谷英二に移籍を持ちかける。給料を倍にしてやるからこっちに来いというものだ。日活は歴史のある会社だが、当時トーキーの技術がなかった（犬塚稔氏の話）。そこで、技術者英二に目を付け、当時の相棒の犬塚稔などと一緒に引き抜きを狙った。</p>
<p>　ところが、給料が倍は嘘、現実にはそんなにもらえなかった。当時コンビを組んでいた犬塚氏の話にでは、日活は松竹以上に古い体質の会社で、新しい取り組みなどは全然させてもらえなかった。円谷英二はここでしばらく一緒に頑張ってきた犬塚稔と別れ、それぞれ別の道を歩むことになる。これは仲が悪くなったのではなく映画界での方向性がお互い違ってきたからである。日活在籍時、アメリカ映画、「キングコング」も見たものだから、それは当然である。</p>
<p>　１９４８年、大映幹部となった永田は再び円谷監督に声をかけ、戦後初の本格的特撮映画、「透明人間現わる」を企画する。戦時中、ハワイ・マレー沖海戦などで発揮された円谷監督の特撮技術を駆使して、日本版透明人間を作ろうという試みである。当時の円谷監督は公職追放指定を受けて苦しい時期であり、うまくいけば大映の所属になるという永田の話を信じてこの映画に必死に取り組んだ。</p>
<p>　この作品はそれなりに面白かったが、大映側としては成功とは認識しなかったようである。細かいやりとりは不明だが、今考えると、永田雅一にだまされたみたいなものだったのかも知れない。まあ、仮にここで円谷監督が大映に入ったなどということがあったら後の映画界は大きく変わっていただろうし、いろいろ考えるとそれはなかった方が良かったと思う。</p>
<p>　永田雅一は１９０６年生まれで円谷監督の５歳年下。２０代前半のうちに円谷監督らを手玉にとるのだから、なかなかのやり手。京都に生まれた永田は、両親の商売の失敗によって小学校を出ると親戚を頼って上京、そこで関東大震災に遭い、片付けなど今でいうボランティアなどには積極的に参加したす。京都に戻ってからは当時の流行で社会主義に目覚め、いろいろ活動をするようになるが、当時の暴力団だった千本組という一団にも属し、警察からマークされる。これを知った母親は永田を勘当する。</p>
<p>　家を追われた永田は当時の映画界で知られたマキノ雅一と知り合いだったことで日活に入社、無声映画時代の映画界は野外ロケが普通で、ロケ現場にファンが集まり、撮影しているのにおひねりが飛び交うような日々だった。永田はそのおひねりを集めて女郎屋に通うようなこともしていたという。</p>
<p>　円谷監督の引き抜きを狙うなどいろいろ尽力したが、１９３４年には日活を退社、大映設立のメンバーとなる。戦後は円谷監督と同じようにGHQによって公職追放指定となるが、すぐに復帰して大映の幹部となる。この時期、岸信介とか河野一郎のバックアップを受けて政界進出を図るものの落選、しかし「妖怪」と言われた安倍晋三の祖父、岸信介などとも交流があったのだから、政界との結びつきは強かった。</p>
<p>　戦後の映画界の中で、永田は大映で「羅生門」、「雨月物語」、「地獄門」などカンヌ映画祭でグランプリを取るような作品を連発して大映をもり立てる。敗戦で沈みきった日本人にとって、国際グランプリで日本映画が優勝することは大変大きなパワーになったといえる。このように永田は全くダメな人とかではなかった。紫綬褒章など、叙勲も三度ほどしている。</p>
<p>　そういう永田雅一だが昭和３０年代後半になると映画もテレビの影響を受けて次第に低迷、名作を送り続けた大映も苦戦が続く。いろいろ考えたのだと思うが、東宝の独占だった怪獣映画に挑戦しようという発案も、円谷監督といろいろ因縁と交流のあったこの人物からすれば当然だったかも知れない。</p>
<p>　ガメラは永田雅一が飛行機で移動しているとき、窓から見えた島の形が亀に似ていることから発案されたなどという逸話が残っているが、最初の段階では低予算映画であることに加え、担当する監督がそれまで一本の映画しか監督したことがない、しかもヒットしなかった映画の監督だった湯浅憲明であり、あまり大きな期待を持ってはいなかったかも知れない。</p>
<p>　しかしガメラは亀なのに空を飛んだり子供好きだったりするキャラクターが受けてヒット、シリーズ化する。私も当時のガメラを見た。須賀川ではなぜかピオニ劇場（あまり大映映画を上映しない映画館）で公開され、私は父やいとこたちと見たが、映画館は満杯だった記憶がある。当時の映画ファンは、東宝ではない新しい怪獣映画の誕生を歓迎していたようにも思えた。</p>
<p>　そういう機を見るのに便で、政治に世界にも精通し、頭の切れる映画人だったからこそ、日本映画輸出振興協会のような団体を立ち上げることができたのだと思う。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">ギララとガッパ</span></p>
<p>　日本映画輸出振興協会が出資した代表的な作品を検証しよう。最初は「宇宙大怪獣ギララ」。松竹が製作し、1967年（昭和42年）3月25日に公開された怪獣映画である。</p>
<p>　宇宙船の事故の原因を調査するため地球を飛び立った宇宙船アストロボートの乗組員たちは、宇宙船噴射口に付着した胞子上の物体を採取、地球に持ち帰ると、これはエネルギーを吸収して巨大化する怪物だった。怪物は研究所を脱出、エネルギーと求めて発電所などを強襲する。人類は必死の抵抗を試みるもギララと名付けられた怪物は無敵であり、光の球となって次の標的（エネルギー源）まで飛んでいく。</p>
<p>　しかし、宇宙空間に存在するギララニウムという物質が弱点であり、それを宇宙で入手した隊員たちによって再び元の胞子上の物体となる。</p>
<p>ますます加熱する怪獣ブームによって、それまでその手の作品のない松竹、日活も興味を示した。その原動力となったのは永田雅一の尽力で設立された日本映画輸出振興協会である。１億５千万円の予算をかけて制作された「宇宙大怪獣ギララ」は、特撮を元・松竹の川上景司、元東宝の渡辺明、小田切幸雄らによって結成された特撮請負会社「日本特撮映画株式会社」に担当させた。彼らは同年の日活映画「大巨獣ガッパ」も担当している。ストーリーも他社と差別化すべく凝った作りになっており、宣伝もかなり力を入れた。</p>
<p>　松竹が並々ならぬ覚悟で取り組んだギララだったが、どんなにストーリーが凝っていても、出てくる怪獣が東宝やテレビに出てくる怪獣と製造元が同じなので、結局あまり変わらない印象になってしまった。現場はともかく、制作側のトップは怪獣映画に慣れていない人たちだったので、期待に外れ、月並みな映画になってしまったように思える。</p>
<p>　ちなみに本作はまだデビュー当時の初代仮面ライダー役として知られる藤岡弘が脇役として出演しており、１９８４年公開の「男はつらいよ・寅次郎真実一路」の冒頭場面にも登場する。しかし寅さんに倒され（もっとも、これは寅さんの夢の中という設定）、映画の中で、一度もギララという本名で呼ばれず、劇中「ゴジラだ！」などと呼ばれているのも悲しかった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">大巨獣ガッパ</span></p>
<p>大巨獣ガッパはこんな映画である。</p>
<p>週刊誌記者の黒崎は、カメラマン、生物学助教授らと出版社社長の命を受け南太平洋の探検を開始、これは会社が計画中の一大テーマパークを実現する目的があった。</p>
<p>彼らは南洋オベリスク島に謎の石像を発見、一行は島民達に遭遇するが、彼らの一部はなぜか日本語を理解でき、「日本人が帰ってきた」と手厚い歓迎を受ける。巨大な石像の元にたどり着くと、突如発生した地震によって石像は倒れ、そこに2メートルほどの大きな卵があり、卵が孵化、子供の怪獣が登場する。彼らはそれを日本へ連れ帰ってしまい、子供が連れ去られたことを知った親ガッパは怒りに荒れ狂って島の集落を襲撃、日本を目指す。</p>
<p>ついに2羽の親ガッパが出現、熱海市を破壊する。オベリスク島民サキは子ガッパを返すよう説得するがかなわない。東京全滅が懸念され、彼らは子ガッパを羽田空港で解放。親ガッパは再会し、3羽で南を目指して飛び去っていく。</p>
<p>　こちらはオリジナル性が薄い、大変陳腐なドラマという感じだ。話が偶然、偶然の連続で、親怪獣が子供を連れ返しに来るという設定はイギリス映画、怪獣ゴルゴのパクリのようにも思える。怪獣を連れてきて一大レジャーランドを作るのもモスラ対ゴジラでやっているし、やや安直な印象だ。</p>
<p>　ギララもガッパも当時のプラモデルメーカー、ニットーによってプラモデル化されたが、映画のヒットには至らなかった。</p>
<p>　ちなみにガッパは、当時のうすいデパート（郡山市の老舗デパート）屋上で怪獣ショーをやったとき、ウルトラマンに登場する怪獣、ゴルドンとの対決をライブでやっていた。全く関連のない二頭だが、実は製造元が同じだったりする。私たちは異種格闘技戦のように見ていた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">日本映画輸出振興協会は成果があったのか？</span></p>
<p>　さて、この日本映画輸出振興協会から支出を受けた映画はどんな収益を上げたのだろうか？昭和４５年４月１４日の内閣委員会でこの協会の問題が取り上げられている。質問者は当時の政治家、大出俊。この制度は円谷監督の没後まで続いていたということになる。この質問の中で、振興協会から出資を受けた映画の数字が示されている。</p>
<p>　まず松竹の宇宙大怪獣ギララはなんと４８００万の赤字。松竹は「智恵子抄」とか「黒蜥蜴」なんていう映画も協会から融資を受けているが、黒字になったものはことごとくなかった。松竹は「昆虫大戦争」というＳＦ映画も制作するが、これがなんと１億４千万の赤字。制作費が１億４千６百万、国内の収益が２千万足らずで、海外では１５１万円しか売り上げがない。決定的な失敗というわけだ。私もこの映画を昔見たが、当時、なんというつまらない映画だなと思った。松竹は、この時期の「男はつらいよ」作品も融資の対象にしていて、これが３０００万の赤字という。「男はつらいよ」なんて海外の人にわかるわけないと思えるが・・・。これを選考した協会もまともとは思えない。</p>
<p>　日活の大巨獣ガッパは、４１００万円の赤字という。これらは、制作費に対して、日本と海外でどれだけ興行収入があったかで出された数字である。なお日活では「神々の深き欲望」という映画で１億の赤字を出している。今村昌平の芸術作品だが、出演する嵐寛寿郎は、あまりにも強引な撮影による制作であり、逃げ出したかったとも述べている。</p>
<p>　さて、永田雅一率いる大映がこの協会の提案者だが、これはどうなのだろうか？まず、最初の融資の作品、「ガメラ対ギャオス」は９０００万円の黒字。さすがだ。提案しただけのことはある。ガメラ対ギャオスについては、対戦相手のギャオスはその後の「ガメラ対大悪獣ギロン」にも出ているし、平成ガメラシリーズにもたびたび出ている。やはり人気怪獣だ。ガメラが子供を助けた映画でもあり、こういうキャラは海外で受けるように思います。</p>
<p>　そしてガメラシリーズ次回作、「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」は、７０００万円の黒字。この作品では、海外市場を意識して主人公を日本人と白人の少年にしている。作品も、ボーイスカウトのリーダーとして後のウルトラマンタロウとなる篠田三郎が出ていたり、後の大映お色気シリーズの中心人物たる渥美マリも出ていたりする。しかしながら、ガメラシリーズ第５作、「ガメラ対大悪獣ギロン」は２０００万円の赤字。これも海外では売れたが、国内での成績が悪かった。この作品については、明らかに低予算でこじんまりとした内容なのと、登場人物がすごく少なかったりガメラが真っ二つになった宇宙船を火炎で溶接したりと子供じみた演出があって、これは仕方ない。</p>
<p>　さて、大魔神シリーズ第３弾の大魔神逆襲はどうだったのだろうか？これが２千万の赤字。大魔神は海外でも人気があると聞くが、当時はまだ理解されなかったようだ。</p>
<p>　しかし、大映はこの時期量産していた怪談映画も融資の対象にしている。昭和４８年作、巨匠、山本薩夫監督による、牡丹燈籠を扱った作品として最高傑作といえる大映映画、「怪談牡丹燈籠」も実は対象となっているが、これが３６００万円の赤字だった。あれだけの傑作だが、海外で受け入れられるにはまだ日本文化の理解が足りなかったのかも知れない。それから、藤村志保主演の「怪談雪女郎」、これは雪女の話を映画化したものだが、３５００万円の赤字。こういう映画はyou tubeなんかでよく海外から上がってくるので、時間をかけて理解されたのではないかと思う。戦後まもなく、大映の文芸映画が海外の映画賞を次々と獲得したが、たとえば「羅生門」なんかだが、興行的には全然ダメだったらしい。</p>
<p>　さらに大映は、戦争映画、「ああ海軍」も融資の対象にしたという。これは３０００万の赤字だが、こういう全く日本的な作品が融資の対象になるということ自体がおかしい。絶対日本でしか受けない内容だと思う、この協会の組織もかなり異常だと思う。</p>
<p>　この制度について、さらにおかしな点をいうと、国会質問の中で、石原プロのような独立プロが認められなかったことと、東宝、東映などが全く関わらなかったことがある。独立プロは希望したけれど経営が脆弱などの理由で断られたようであり、東宝、東映は最初から融資を希望する意志がなかったようだ。</p>
<p>　結局この制度は、斜陽の映画界を救うためという大義名分はあるけれど、政治力のある永田雅一のための制度だったともいえる。日活も松竹も、結局は永田雅一に乗せられただけだったようだ。</p>
<p>　それと、変に制作費が高いというのもある。映画各社は、どうせ助成金が国からもらえるのだから、予算は贅沢に使ってもいいというような考えがあったのかも知れない。</p>
<p>　この国会答弁が行われた翌年、大映は倒産している。まさに円谷英二の天敵、永田雅一は国会でその正体を暴かれ、最後の時を迎えたという感じだ。そういうこともあり、日本映画輸出振興協会はその後廃止となった。</p>
<p>　日本映画輸出振興協会については、今も続く日本の悪習というか、あまり時代に合わないものが延々と続いてしまうという問題の典型であるとも思える。クリーニングでも「生活衛生営業指導センター」なんていう全く意味のない組織が未だ続いていて、零細業者向けの講習会を大手業者も受けなければならないなどということになっている。日本映画輸出振興協会も、振興しようと思っていたのが、結果的に日本映画が安く買いたたかれるという結果になった。しかも、紹介したように海外で受けるとはとても思えないような映画にまで融資されていて、本当におかしなものだった。これで怪獣ブームも終わってしまった。本当に迷惑な話である。</p>
<p>　クリーニングでも、何十年間も起こっていない衛生面の問題ばかりを取り上げ、業界の労働環境や保管クリーニング（実際は保管していない）、意味のないしみ抜き料金など詐欺的商売を見逃す結果となり、低価格競争を放置している。クリーニングは日本のデフレの一端を半世紀も担っている。もちろん、これが日本の国力を下げる結果にもなっているのだ。意味のないことを延々と続けさせる政治、行政があって、日本は３０年間も国力を下降させているのだ。</p>
<p>　事業再構築補助金も、いろいろな業種の人々に新規事業に目を向けさせるのは理解できるが、「餅は餅屋」という言葉があるとおり、慣れない仕事を急にやってもそう簡単に成功できるとは思えない。日本映画輸出振興協会同様は特撮の神様たる円谷英二が苦々しく見ていたが、近い将来、同様の結果が出てくるようにも思える。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #008000;">（この文章は須賀川市のFM曲、ウルトラFMで放送れる番組「セルクルさわやかライフ（毎週水曜午後１時から放送、再放送は毎週土曜午後１時半）」で放送された内容の原稿をブログ用に編集したものです。口語体など、多少の無理はご了承ください）</span></p>
<p><span style="color: #008000;"> </span></p>
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		<title>銀幕いっぱいに溢れるウルトラ愛　シン・ウルトラマン鑑賞記</title>
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		<pubDate>Sun, 15 May 2022 10:55:05 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[銀幕いっぱいに溢れるウルトラ愛　シン・ウルトラマン鑑賞記 &#160; 　遂に話題のシン・ウルトラマンを見た。封切り初日に映画を見るのは生まれて初めてだ。待ちに待った映画だし、「シン・ゴジラ」がすごく良かったので期待して [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>銀幕いっぱいに溢れるウルトラ愛　シン・ウルトラマン鑑賞記</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　遂に話題のシン・ウルトラマンを見た。封切り初日に映画を見るのは生まれて初めてだ。待ちに待った映画だし、「シン・ゴジラ」がすごく良かったので期待していた。何度もネットに出てきた、煽るような予告編も気になった。</p>
<p>　映画館は米沢の映画館。なんと、55歳以上は700円も安く見られる！年齢が高くなって得をした初めてのことともなった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　オープニングは例によってグニョグニョした画面の中から次第に文字が見えてくるウルトラQ以来のもの。しかし、出てきた文字は「シン・ゴジラ」だった。驚く観客の前に、銀幕はいきなり赤に染まり、「シン・ウルトラマン」と出る。あの効果音とともに・・・。1967年、ウルトラマン第一回放送で受けた衝撃を久々に受けた。ぐるぐる回って次第に浮き上がってくる文字、これは、ウルトラQに習って「ウルトラマン」と出るのだろうと思っていたら、「ウルトラQ」と出てきてビックリした。しかし、すぐにジャーン！という効果音とともにウルトラマンになる！これがまた繰り返された。子供の頃の衝撃が思い出された。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　どんな展開をするのかと思いきや、冒頭、あのウルトラQの音楽とともに、懐かしのウルトラQ怪獣が出てくる。最初のセットが第1話「ゴメスを倒せ！」そっくりだったのでええっ、まさかと思ったら、まさにTVの世界に最初にやってきた円谷ワールドの面々が登場、ゴメス、マンモスフラワー、ペギラ、ゴーガ（？）、ラルゲユウス、パゴスとかが「現代風」になってほんのわずかずつだが登場すると、予想外の出来事にこちらは心臓ドキドキだ。ウルトラQもやってくれたことに大変感激した。作者にとって、ウルトラマンはウルトラQに続くシリーズで深い関連があると認識しているのだろうか。だとしたら、私も全く同意見です。映画の中では、こういった怪獣（禍威獣）がたびたび出没することが、「禍特対（カトクタイ）」が結成される理由にもなっている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　ところで、ここに出てくるウルトラマンにはあのカラータイマーが付いていない。3分のリミットを知らせるカラータイマーはウルトラマンの代名詞のようだが、考えてみれば、宇宙人なのに地球の時間を知らせるタイマーなんておかしい。子供達にウルトラマンの弱点をわかりやすく伝えたかったためにカラータイマーが付けられたそうだが、ウルトラマンのデザインを担当した成田亨氏の原案にはカラータイマーなどなく、他の関係者によってカラータイマーを付けられたときには成田氏は大変不愉快だったと聞いているが、オリジナルの良さを大切にしたということか。原点に帰り先入観なく最初からリメイクする。「シン・ゴジラ」にもそういう姿勢を感じたが、そこがまたいい。そういえば米津玄師によるテーマソング、「M八七」も、最初、ウルトラマンはM87星雲から来たという設定だったのだが、何かの機会に間違えられ、M78星雲になったとも聞いている。私も子供の頃、M87星雲と書かれた雑誌などを何度か見た記憶がある。知らない間にM78星雲になり、あれ、どうしたのかなと思った。ここにも原点回帰の姿勢が感じられる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　当作品では冒頭、ウルトラQ怪獣が数頭登場、その中にはパゴスも加わっている。その後、ウルトラマンと闘う怪獣にはネロンガ、ガボラがいるが、禍特対によってこれらは同種、同類と判断される。それはそうですよね。元はみんな東宝のバラゴンだもの（ウルトラQ、ウルトラマン制作時には東宝から首を切り取ったバラゴンの着ぐるみを借り受け、その後首を創作して誕生した怪獣が複数いる）。これはウケ狙いか？作品はウルトラの世界にどっぷりと浸っている人々を楽しませてくれるようだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　さて、作品全般に関しては、原作（最初のウルトラマン）を大きく逸脱して新たなストーリーを模索するのではないかと思ったが、そうではなく、むしろ原作に忠実というか、ビックリするくらいに同じ場面が多い。それでも、新しさを感じさせる演出が大変嬉しい。それが最も顕著なのが、ザラブ星人が出てくる当たりである。ストーリーがほぼ、そのまんまであるばかりでなく、セリフも全く同じところもあり、ウルトラマンとにせウルトラマンの戦い方も、まるっきりコピーしているような感じだ。飛んで逃げようとするにせウルトラマンを本物のウルトラマンが至近距離からスペシウム光線を放って打ち落とし、ザラブ星人の正体がバレたり、にせウルトラマンを本物が空手チョップで脳天を叩いた後、ウルトラマンが手を痛がる場面まで忠実に再現されている。大変なウルトラ愛を感じるが、ここまでこだわると、作者はザラブ星人が大好きなのではないだろうかと思えてくる。闘いは大都会の真ん中で行われるが、映像は格段に進歩し、現代の東京上空を颯爽と飛ぶウルトラマンは、最初にウルトラマンを見てから半世紀が過ぎた私にも最高にかっこ良く思える。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　予告編では「メフィラス」の名詞の人物が出てくる。これも、初代ウルトラマンの原案に沿った展開といっていいだろう。改めてみてみると、戦い方も使ってる技なんか同じだったりする。そして、初代ウルトラマンではフジ隊員が巨大化するが、本作でも巨大化する人がいる！勿論、実際に善良な宇宙人がいたならこんな展開になるよなといった、現代的な視点も整っていて、初代ウルトラマンの、いまいちはっきりしないような部分、子供番組的な場面はかなり改善されている。とにかく全編に溢れるウルトラ愛は凄まじいものだ。原作を大切にして、そこに新たなあり方を盛り付けたような作品で、原作のウルトラマンを知っていればいるほど面白い作品ともいえる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　作中、政治家が「禍威獣は日本にだけ現れる」という台詞（セリフ）を話す場面があるが、なんで禍威獣は日本にだけ現れるかというと、それは日本には円谷英二監督がいるからである。それ以上の理由はない。</p>
<p>　ラストシーン、映画は唐突に終了し、最後は米津玄師のテーマソングが流れ、スタッフがテロップで紹介されるのだが、そのときに、まだこの世界にとどまっていたいような気分になった。後ろ髪を引かれるような気持ちで映画館を後にした。独自の世界観は、私たちにとっては大変心地いい、素晴らしい空間であるようにも思えた。また何度か映画館に見に行きたくもなる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　というわけで、「シン・ウルトラマン」は大変な傑作だったが、ここまでいい作品だと、ぜひ続編を、とも考えてしまう。「シン・ウルトラマン２」である。今回のストーリーからして続編は難しいかも知れないが、原作に非常に忠実な作品であったからには、まだまだたくさんある魅力たっぷりのプロットを、このスタッフで実現して欲しい。</p>
<p>　たとえば、ウルトラマン最大の宿敵であるバルタン星人は今回登場していない。シン・ウルトラマンを見る限り、バルタンはかなり面白いプロットが完成しそうだ。20億3000万人のバルタン星人地球移住計画など、盛り上がりそうだ。その他にも、人気怪獣であるレッドキングやゴモラも登場して欲しいし、ジャミラ、ダダなどもかなり興味深いテーマを提供できるのではないだろうか。そういう作品を想像するだけでもワクワクしてくる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　さらには、「シン・ウルトラセブン」も期待したい。異星人の侵略をテーマにした「ウルトラセブン」は、より面白いストーリーが展開できそうに感じる。ゴジラやウルトラマンを蘇らせた庵野氏や樋口氏がさらなる展開を見せてくれることを期待している。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　これだけの傑作、須賀川市ではTETTE当たりで上映会を開いてみてはどうだろうか？特に子供に見せたい気がする。子供向きではないが、背伸びして見るこういう作品は、子供達に大きな影響をもたらすと思う。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※なお、これは個人の感想であり、何の先入観もなく、映画を見た印象を書いております</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<title>追悼　宝田明氏</title>
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		<pubDate>Sat, 19 Mar 2022 06:18:57 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[追悼・宝田明氏 私を怪獣の世界へいざなった人   　　　　　　宝田明氏の死去を報じる新聞 　2020年3月14日、東宝で活躍した俳優、宝田明氏が死去した。87歳だった。宝田氏は1934年生まれ、父親の仕事で朝鮮半島から満 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">追悼・宝田明氏</span></p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">私を怪獣の世界へいざなった人</span></p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/c739b528e28f565607ba5f9d1aa109d9.jpg" rel="lightbox[963]"><img class="alignnone size-medium wp-image-965" alt="20220319宝田" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/c739b528e28f565607ba5f9d1aa109d9-300x172.jpg" width="300" height="172" /></a></p>
<p><span style="font-size: x-small;">　　　　　　宝田明氏の死去を報じる新聞</span></p>
<p>　2020年3月14日、東宝で活躍した俳優、宝田明氏が死去した。87歳だった。宝田氏は1934年生まれ、父親の仕事で朝鮮半島から満州へ移り終戦を迎え、終戦後日本へ戻った後に1953年、東宝に入社、翌年、「ゴジラ」で主演となる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">「モスラ対ゴジラ」の衝撃</span></p>
<p>　私は4歳のとき、映画館の前で見たスチール写真を見て衝撃を受け、ある日突然怪獣の魅力に取り憑かれた。「モスラ対ゴジラ」である。写真には見たこともない怪物が写っていた。特に、海岸で両手を広げ、目をかっと見開いた怪物には、なにか、この世に生まれて遂に見つけるべきものに出会った様な衝撃があった。これはゴジラといった。</p>
<p>　数日後、父にせがみ、映画館に連れて行ってもらった。映画は、スチール写真から私の想像する世界をはるかに凌駕する驚くべき世界だった。いきなりすごい台風の映像(全部特撮！)、干拓地から登場するゴジラ、名古屋の街に徐々に近づき、町を破壊する。そこにやってきた平和の使者モスラ。決闘の末ゴジラが勝つも、幼虫が生まれてゴジラに仕返しをする。最後に流れる平和のテーマ・・・4歳の私には衝撃が大きすぎて、問答無用に引きつけられる宗教みたいなものだった。こんな映像を見せられては、その後、怪獣に夢中になるのはむしろ当たり前だった。もし、私が見た最初の特撮映画がモスラ対ゴジラでなかったら、後に本を書くほどは夢中にならなかったと思う。</p>
<p>　この作品で主役を演じたのは、宝田明だった。新聞記者の宝田氏は中京地区への台風襲来からドラマの導入部で活躍する。この頃からやたらテンポの良くなった本多猪四郎演出に実に合っているが、4歳の私にもわかるように、展開が早い割には非常に丁寧にストーリーが展開していく。改めて見てみると、この作品は、全編を宝田氏がガイドしているような印象もある。私は、宝田氏の案内によって怪獣の世界に連れて行かれたのではないかと思う。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">宝田氏からの電話</span></p>
<p>　今から20数年前、私の会社の電話が鳴った。事務員は、</p>
<p>「社長、社長に電話です。なんだか怖そうです」といっていた。私はクレームの電話かと思った。</p>
<p>「もしもし」</p>
<p>「鈴木さんですか？」</p>
<p>「そうですが」</p>
<p>「ああ、宝田です」</p>
<p>　これはまさに、宝田氏からの電話だった。実はこの頃、須賀川青年会議所で円谷英二の活動を行っていた私は、その頃出版された宝田氏の書籍について、出版社に自分の意見を述べた手紙を書いていたのだった。それに、宝田氏は対応して連絡をくれたのだった。それが、私と宝田氏との唯一の会話となった。ドスの効いた声は、確かに若い事務員が怖がってもおかしくないわけである。</p>
<p>　その頃の宝田氏はミュージカルに燃えていた。酒井法子氏なども出演すると自分の情熱を私に語った。私は常に夢に向かって挑戦を続ける人なんだと感じた。ともかくも、あの宝田明とお話ができたのは嬉しかった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">ゴジラ</span></p>
<p>　宝田氏といえばなんといっても昭和29年、最初の「ゴジラ（１９５４　東宝）」である。宝田氏はデビューまもなくにもかかわらず、この作品において、この大作の主演を演じている。</p>
<p>　日本初の本格的特撮怪獣映画だったので、スタッフの苦労は大変だったと思うが、その甲斐あって同作品は日本はおろか海外でも大ヒットを記録、すぐさま続編の製作が決定される。</p>
<p>　しかし、「ゴジラ」監督の本多猪四郎は続編の監督を辞退、それはゴジラに込められた戦争への意味合いからだといわれる。安直に続編を出すことは、あの戦争を体験した人々にとっては我慢のならないことだったのかも知れない。</p>
<p>　そういう発想は、宝田氏も同じだったのだろうか。満州から引き上げ、戦後も平和を語った宝田氏にとって、原水爆の権化であるゴジラの続編を商業的な成功が約束されているとはいえ、すぐさま製作するのは望ましいと思わなかったようにも感じられる。</p>
<p>　そういうわけで、「ゴジラの続編」、「キングコング対ゴジラ」には出なかった宝田氏は、4作目の「モスラ対ゴジラ」に主演し、私が初めて鑑賞する映画となる。同作品はモスラが出ていることからも、平和への祈りが大変強調されている。まあ、俳優と企画は別だし、今となっては知るすべもないが、何か思うところがあったのかも知れない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">平和の願い</span></p>
<p>　宝田氏の出演した映画の中で忘れられないのは、「世界大戦争（１９６１　東宝）」である。二つの陣営に分かれた世界が遂に第三次世界大戦を開始、一瞬にして世界の各都市は壊滅、人類は最後のときを迎える。平和を願う映画だが、翌年にはキューバ危機が発生、人類は危機一髪となるが、このときは、ケネディ、フルシチョフといった賢人達が人類最後の危機を話し合いで解決した。（そう考えると独裁者プーチンが暴れる現在の方があのときよりもっと危ないと感じる）</p>
<p>　宝田氏は晩年も世界平和を願い、核兵器のない世界を目指して平和活動を行っていた。それはゴジラに主演したというよりは、少年期に満州で受けた経験の方が大きいようにも感じられる。</p>
<p>　当方の二枚目俳優として活躍した宝田氏は、戦後、満州から旧ソ連の銃撃を受けながら必死に生還した。亡くなる４日前、ロシアのウクライナへの侵攻について、「現在のウクライナの人々は、かつての自分」と語ったそうである。少年時代と同じような状況となった世界の中で、宝田氏は静かに旅立った。その心中にはどのようなものだったのだろうか。私を怪獣の世界へいざなった宝田明氏のご冥福を心よりお祈りいたします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<title>かぐや姫はこんな映画だった</title>
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		<pubDate>Mon, 24 Jan 2022 01:54:45 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[「かぐや姫」はこんな映画だった  生誕120年　円谷英二特別上映会   　2022年1月22日、須賀川文化センターで「生誕120年　円谷英二特別上映会」というイベントが行われた。最近英国で発見された、円谷英二が1935年 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: large; color: #ff0000;">「かぐや姫」はこんな映画だった</span></p>
<p> <span style="font-size: medium; color: #0000ff;">生誕120年　円谷英二特別上映会</span></p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/0270eccd0757dabf0ff8a4531a06dcaa.jpg" rel="lightbox[953]"><img class="alignnone size-medium wp-image-954" alt="かぐや姫上映会" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/0270eccd0757dabf0ff8a4531a06dcaa-211x300.jpg" width="211" height="300" /></a></p>
<p>　2022年1月22日、須賀川文化センターで「生誕120年　円谷英二特別上映会」というイベントが行われた。最近英国で発見された、円谷英二が1935年にカメラマンとして参加した作品、「かぐや姫」の上映会である。</p>
<p>　そういう作品が製作されていたことは知っていたし、拙著でもキネマ旬報の情報などを参考にこの作品について書いていたが、本物を見たことはない。昨年、同作品が発見されたというニュースが流れ、東京では上映会も行われていたので、私は市の担当職員にぜひ須賀川でも上映会を・・・とお願いしていたが、それが遂に実現した。どのような経緯で実現したのかはともかく、大変嬉しいことである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">突然登場した「ウルトラマン」</span></p>
<p>　当日は午後1時と3時に二度上映会を行ったが、私は1時の方に行った。30分ほど前に到着すると、会場の文化センターは既に人がだいぶ集まっていた。20分前くらいからスクリーンにいろいろなウルトラマンが映された。円谷プロの宣伝である。ウルトラQから、最近の私が全くわからないウルトラマンまで登場した。</p>
<p>　会場は実にいろいろな人がいた。須賀川市民が集ったという印象だ。これは円谷英二に関する市民活動があらゆる層に浸透してきた証拠ととらえることもできるなどとも感じた。約150名くらいだったと思う。</p>
<p>　さて定刻になると、音楽が流れ、司会者の女性が登場した。すぐに映画が始まると思っていたので驚いた。司会者は本日の特別ゲストを呼び出した。それは、古谷敏氏だった。</p>
<p>　左手から真っ白なスーツを着て古谷氏は登場した。古谷氏といえば、初代ウルトラマンのスーツアクターであり、「ウルトラセブン」ではウルトラ警備隊のアマギ隊員として知られている。突然の「ウルトラマン」登場に会場はどよめいた。私も知らなかったし、事前の告知があったのだろうか。</p>
<p>　ステージ中央の椅子に座った司会者と古谷氏は、いろいろと話を始めた。東宝に昭和35年入社、その頃は黒澤明とともに円谷英二は東宝の稼ぎ頭で、雲の上の人だったこと、ウルトラマンのポーズは当時、東宝内にあった空手道場に通っており、そこからヒントを得たこと（本人の話）、「ウルトラQ」でラゴン、ケムール人のスーツアクターとなり、大変息苦しかったので最初ウルトラマンはやりたくなかったこと、ウルトラマンが円谷監督から何事か話しかけられている有名な写真があるが、あれは実は「古谷、目、見えるか？苦しくないか？」と心配されていたことなどである。</p>
<p>　最後のちょっとだけ「かぐや姫」について語り、当時既に合成の技術があったこと、カメラを移動させながら撮影していることなど、円谷監督の先見性を賞賛した。</p>
<p>　正直、1935年作の「かぐや姫」と、古谷敏氏との関連はほぼないといっていい。ただ、では誰ならふさわしいのかといえば、もはや当時のスタッフはおらず、強いてあげれば映画史に詳しい方くらいで、それだと専門的な話で一般の人々は付いていけないだろう。関連はないが、話題性はある。古谷氏を呼んだのは、そんなところだろう。</p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/d0bf065e4dc9d4a5ea0f617d8f932ef3.jpg" rel="lightbox[953]"><img class="alignnone size-medium wp-image-955" alt="円谷英二" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/d0bf065e4dc9d4a5ea0f617d8f932ef3-300x133.jpg" width="300" height="133" /></a></p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">「かぐや姫」全容</span></p>
<p>　さて、円谷英二が1935年に撮影した「かぐや姫」は、こんな感じだった。</p>
<p>　冒頭、アニメの映像が流れ、かぐや姫のタイトルが出る。この頃からこれだけのアニメがあったのかと感心する。この後のスタッフ商会などは英語版になっており、原形をとどめていないが、それでも円谷英二の名前は紹介されている。</p>
<p>　70分以上の映画を33分に短縮し、しかも海外の映画（イギリス人にとっては）で内容が理解されないと思ったのか、最初からいきなりこの作品のあらすじを最後まで全部紹介する。従ってこの作品は映画を見ながら先のストーリーを読むようなものではない。</p>
<p>　やたらと歌が挿入され、登場人物達が歌いまくる。ミュージカル仕立ての作品である。ある夫婦が竹藪で光り輝く竹を発見し、中から女の子が出てくる。この子はかぐや姫と呼ばれるようになり、美しく育つ。この夫婦には先に男子が生まれており、将来は夫婦になる約束をしている。いわば許嫁である。ところが、かぐや姫の美貌に惚れ込んだ時の宰相の息子二人が権力にものをいわせ、二人のうちどちらかの妻に迎えたいと申し出る。困り果てたかぐや姫だが、宰相に恨みを抱く陰陽師が切り抜け策をアドバイスする。かぐや姫は月の使いであり、中秋の日に月へと舞い戻るとの噂を流す。宰相らは武装して月からの訪問者を追い返そうとするが、折からの月蝕により慌てふためく、みなが昇天、昇天と騒いでいる間に、かぐや姫は翁夫婦、そしてその息子の許嫁と都落ちしてこれを逃れる、というもの。</p>
<p>　円谷特撮により、月よりやってきた使者が壮大に描かれると思っていると肩すかしを食らうが、それでも特撮場面はいくつかあり、円谷英二らしさを感じる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">活躍する円谷特撮</span></p>
<p>　作品中、大昔の建物は随所にミニチュアが制作されている。これはなかなかの出来である。また、スクリーンプロセスと思われる場面もあった。侍達が幻想を見る場面では空に天女が舞い、ここは合成で撮影されている。完全版を見たわけではないので本当のところはわからないが、映画の流れが大変スムーズである。保存状態が良いためか、同時期に制作された「新しき土」と比較しても出来は良いと思われる。円谷監督の撮影は熟練の冴えを見せ、随所にこういった作品にふさわしい、幻想的な美しい場面が見られる。後述するがこの作品は「音」を聞かせることを主眼に作られた作品なのに、映像もなかなか素晴らしい。</p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/0559c3f966ae2cd8b83fb38d9bbed46b.jpg" rel="lightbox[953]"><img class="alignnone size-medium wp-image-956" alt="かぐや姫" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/0559c3f966ae2cd8b83fb38d9bbed46b-209x300.jpg" width="209" height="300" /></a></p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">「音」を聞かせる映画</span></p>
<p>　この作品は日本最初のトーキー（音入り）映画、「マダムと女房」からわずか4年後の作品であり、映画に音が付くならとばかり、出演者に歌を歌わせてミュージカル風に作られた映画である。そういう趣旨であれば、この作品の前にも「百万人の大合唱」という映画がJOで制作され、もちろん英二も参加している。かぐや姫の翌年には円谷英二が自ら本編の監督を務めた「小唄礫・鳥追お市」という作品も公開され、人気歌手の市丸が歌いまくる。要するにこの時代はスクリーンから音が出ることを生かし、強調した作品が量産されていたようだ。長らく無声映画の時代が続いた中、映画で音が出るのは大変喜ばしいことであったに違いない。「かぐや姫」も新日本音楽映画と銘打たれ、歌手の藤山一郎などミュージシャンが出演し、楽団も活躍する。世界のトーキー第一作は「ジャズ・シンガー」という映画だった。音が出るなら、思いっきり音楽を聴かせましょうというわけだ。1980年代、MTVが登場し、今までは音だけだったミュージシャンが映像も出るようになり、盛んにテレビでロッカー達が俳優のように振る舞った時代があったが、そのときの衝撃よりもはるかに大きな変化、進歩であったに違いない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">監督、田中喜次</span></p>
<p>　「かぐや姫」監督の田中喜次（たなかよしつぐ）は1907年生まれ、東宝の前身であるJOに入社するとアニメ製作に尽力し、児童映画の製作なども行う。「かぐや姫」は初監督作品だった。その後はほとんど監督をすることはなく、戦後はまたアニメ作品に関わるようになる。「かぐや姫」という題材自体も子供向けといえ、子供のための映画に情熱を傾けた映画人生を送ったともいえる。作品冒頭のアニメ映像も、同監督がアニメに造詣が深かったことの表れとも取れる。キネマ旬報社が発行した日本映画監督全集によれば、作品製作の動機は当時公開された「会議は踊る」（1914年のナポレオン戦争後のウィーン会議を題材としたオペレッタ映画　1934年日本公開）を見て、同様な作品を作りたくてたまらなかったそうである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">酷評された映画</span></p>
<p>　ただ、当時のマスコミは同作品を酷評している。キネマ旬報、昭和11年1月1日号にはこのような記載がある。</p>
<p>〇新日本音楽映画をJOが作ろうと志したのは甚だ結構なことであり、題材に竹取物語を選んだこともそうした意図からは当然であったが、こうした新日本音楽映画といったものを作ることは、実はそう容易なことではない。</p>
<p>〇レコード歌手を主演者としたくらいのことでは音楽映画は作れはしない。</p>
<p>〇こうしたものにあっては、「映画」であることは第二とするならばこれでも良かろうが、制作当事者の自慰的満足以上に出ようとするのであるならば、まず何よりもしっかりした、こうしたものを作るにあたる心構えを持たねばならぬ。古典風な題材を、古典風なセットの内で、古典風な音楽で描くというくらいのことで、こうしたものを作ろうとすることは無駄に近く、こうしたものからは「美しき絵と音楽」を顧客の誇ろうとするのはあまりにも人もなげなあり方である。</p>
<p>〇これは一言にして申せば「映画」とは言い難い。監督者田中喜次はほとんど監督者としてはそうしたものと思えるものを示さないが、演技監督と美術監督と音楽監督に制せられての、彼の苦心は察するに難くないが、それでも少しは映画的な運びというものを狙って欲しかった。愚しさの中で、監督者だけは努力しているというくらいにはありたかった。</p>
<p>〇これはこうした古典音楽映画を作りたいという意図、唯それのみがかろうじて買えるものであった。</p>
<p>　ただ、キネマ旬報の論調は戦前、戦後を通じて総じて批判的であり、特に新しいものに対する批評は厳しい。昭和29年のゴジラについても酷評されている。これを持って同作品がダメだとすることはできない。</p>
<p>　円谷英二は映画人生を通じて常に当たらしいもの、今までにないものを追求している。同作品もいわばその一環である。こういった評価は、本人にとっては慣れっこになっていたかも知れない。</p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/a59a2525b4ec913fb3885a1c33d55b63.jpg" rel="lightbox[953]"><img class="alignnone size-medium wp-image-957" alt="かぐや姫２" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/a59a2525b4ec913fb3885a1c33d55b63-300x191.jpg" width="300" height="191" /></a></p>
<p><span style="font-size: large; color: #0000ff;">出来に不満の円谷英二</span></p>
<p>　「かぐや姫」は当時のキネマ旬報などを見る限り、話題作として大々的に宣伝され、JOも大きな期待をかけていたのかも知れないが、円谷英二は後に同作品を「つまらない」と評している。須賀川での上映会では「かぐや姫」直後に「現代の主役　ウルトラQのおやじ」（1966年、TBS.番組。怪獣ブームのまっただ中、怪獣ブームを作り出した中心人物、円谷英二の日常を取り上げたテレビ番組）が上映されたが、この中でも英二は家族との会話の中で同作品に触れており、「素人ばかり集まってきた。面白くなかった」などと述べている。これは、監督の田中喜次も監督初作品、出演者も本業は歌手など素人が多かったことを指すと思われるが、英二には、自分ならもっといい作品にするのに、という気持ちがあったのかも知れない。</p>
<p>　英二は戦後もかぐや姫にこだわり、何度もかぐや姫の作品化を考えていたことで知られている。その英二が唯一関わったかぐや姫が同作品だが、音楽映画にもかかわらず、映像にかなりこだわっていることからも、それがうかがえる。</p>
<p>　ただ、現存する作品はイギリスで偶然見つかったものであり、70数分の作品を33分に短くしており、短縮版というよりはダイジェスト版然としており、正直概要はつかめない。ともあれ、貴重な映像であることは間違いなく、若き日の英二が映像に凄まじい情熱をかけていたことを、現代に伝える貴重な資料である。わずかな映像であっても時代を超えて情熱が伝わってくる。円谷英二の故郷、須賀川で上映していただいたことに感謝申し上げたい。</p>
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		<title>「ゴジラ　キングオブモンスターズ」見ました（ネタバレあり）</title>
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		<pubDate>Mon, 01 Jul 2019 03:35:09 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[「ゴジラ　キングオブモンスターズ」見ました ネタバレあり &#160; 怪獣は神々 　「ゴジラ　キングオブモンスターズ」を宇都宮で見た。映画館はショッピングセンターに隣接している。いよいよ梅雨が始まり、しとしと降る雨の中 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: large;"><span style="color: #0000ff;">「ゴジラ　キングオブモンスターズ」見ました</span></span></p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: medium;">ネタバレあり</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">怪獣は神々</span></p>
<p>　「ゴジラ　キングオブモンスターズ」を宇都宮で見た。映画館はショッピングセンターに隣接している。いよいよ梅雨が始まり、しとしと降る雨の中を向かった。</p>
<p>　作品では怪獣の位置づけは「太古の神々」。神話の中で、怪獣と人間は共存していた。過激な環境団体が現れ、増えすぎた人間を「調整」すべく、怪獣達をよみがえらせる。しかし、怪獣の一匹、キングギドラは宇宙からやって来たことがわかる。怪獣達は一番強い奴をボスとしてそれに従う。キングギドラがボスでは、自然界のバランスを戻すどころか、人類絶滅の危機……。そこで人類も怪獣の王、ゴジラに味方して立ち向かう、という筋立て。</p>
<p>　とにかくすごい、最初から最後まで戦闘シーンの連続だ。息つく間もなく怪獣が大暴れ、休む暇がない。かつて本多猪四郎監督は映画「ガンヘッド」を、「こんな刺激の連続では感覚が麻痺してしまう」と批判したそうだが、これを見たら同様な感想を持つのではないか。そのくらい過激である。円谷英二特技監督も、無声映画時代は時代劇の筋立てで盛り上げ方を考えていた。活劇の連続という作品には抵抗があると思う。</p>
<p>　主に活躍する怪獣はゴジラ、キングギドラ、モスラ、ラドンで、このメンツでは「三大怪獣・地球最大の決戦（１９６４）」だ。モスラがゴジラの味方をするなど、若干リメイクといえなくもない。他に、スカンジナビアのトロールみたいなのとか、造形の時点で失敗したクモンガみたいなのも出てくる。</p>
<p>　日本人にはお馴染みの怪獣達がほぼ別解釈で表現されているという意味で、なかなか興味深い作品ではある。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">失われた主張</span></p>
<p>　同作品は環境問題に触れている点はあるが、アメリカ映画らしく「ゴジラ（２０１４）」同様に勧善懲悪で文明肯定である。オスプレイやF35がバンバン飛び回る光景はなかなか神経を逆なでさせられる。アメリカ人はそんなもの、なんとも思ってないのだろうか？まあオスプレイもF35も怪獣達に全く歯が立たないのだが・・・。</p>
<p>　格闘するゴジラとキングギドラに、「オキシジェン・デストロイヤー」が使用される。昭和29年版では海中で手動操作だったが、本作品ではミサイルである。その武器がいかなる効果があるかは説明されていない（たぶん）。しかし、かつてゴジラを葬り去った同名兵器とは違い、結局怪獣を倒せない。初代ゴジラへのオマージュなのかも知れないが、見ている私たちには日本の無力さを表現されたような気分で、余計なお世話的な場面だった。</p>
<p>　一番抵抗があったのは、眠るゴジラを核兵器で蘇らせる場面。放射能がゴジラのエネルギー源という発想はどの映画当たりからだろうか？ゴジラは核兵器の犠牲者という初代の主張は葬り去られている。武器礼賛、核兵器礼賛で初代ゴジラの持つ文明批判、核批判の思想が、軍拡や核兵器肯定の思想へとすり替えられている。</p>
<p>　別物の映画とみればそれでいいのだが、「ゴジラ」と名が付く以上、個人的にあまり嬉しくない。怪獣が格闘する真下を人間達が動き回るのも、普通、潰されるだろと思うし、放射能は平気なのか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">ゴジラは猿山のボスか？</span></p>
<p>　ゴジラ、モスラの登場場面ではそれぞれ日本の映画音楽（伊福部明＆古関裕而）がすこしだけ流される。</p>
<p>　この作品の解釈で面白かったのは、怪獣達は一番強い奴に従うという点。ゴジラがボスならいいが、キングギドラだとそれに従い、みんな暴れ出すという。そこでふたたびゴジラをボスにすべく人類も協力するのだが、それじゃあ怪獣は上野公園の猿のようではないか。ゴジラがトップなら秩序が保たれるという。ラストシーンでは、いろんな怪獣がゴジラの前にひれ伏す場面がありビックリした。あらゆる怪獣が、ゴジラの前に水戸黄門が印籠を見せたが如く「ははぁーっ」とひれ伏すのだ。なんという発想！日本的だとでもいいたいのか？「カイジュウ」という分野は、生物の種別を超越しているようだ。</p>
<p>　キングギドラがボスになると、怪獣がみんな悪くなるというのは、なんだか日本のクリーニング業界のようで笑った。一番悪い奴がいい加減なトッピング商法やおかしな宣伝を繰り返すと、日本中の業者がそれを真似る。おかしなノウハウがあっという間に業界中に広まる。業界紙も悪い奴をさも素晴らしいかのようにちょうちん記事で応援する。日本のクリーニング業界は、ブラック企業たるキングギドラをトップにした悪者集団なのか？暗い映画館では、様々な妄想が浮かんだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">アメリカ人の怪獣解釈</span></p>
<p>　アメリカでは日本の怪獣映画がテレビで見られ、たくさんあるチャンネルのどこかで特集されることもある。一日中怪獣映画ばかり放送されることもある。マニアみたいな人が出てきて解説するのを見たこともある。つまりとても日本怪獣に親しんでいる。その中で、本作は日本の怪獣をアメリカ人が独自の解釈で表現したともいえる。私はこの作品の監督もスタッフに関しても何の情報もないが、なんとなく日本怪獣への愛着は感じられた。</p>
<p>　それにしても、キングギドラがやたらあくどい。人間をポリポリ食うし、破壊の限りを尽くす。日本が生み出した怪獣を巨大生物としてダイナミックに描いているのには感心させられるが、やっぱり国が違うと表現も違うんだなあと思った。</p>
<p>　ゴジラは何度もキングギドラに闘いを挑む。しかし、強いギドラはなかなか倒せない。何度か敗戦といっていい勝負をして、最後に勝ってみせる。この辺の展開は旧ガメラ的でもある。なにか、こういうあり方はアメリカ人には受けそうだ。東宝映画でも、かなり海外セールスを意識して作られたと思われる「キングコング対ゴジラ（１９６２）もそんな展開だ。</p>
<p>　目立つのは怪獣の擬人化である。怪獣達はより人間のように演技する。キングギドラの三本の首が争い、憎々しげな表情を浮かべる。かつてアメリカ版ゴジラ製作を東宝が許可した際、「怪獣に話させないこと」という文言が条件の一つになったと聞いているが、アメリカ人は何でも擬人化したいのだろうか？日本で作られた「シン・ゴジラ」などとは全く違う怪獣像がある。</p>
<p>それにしても、この映画にはあの巨大な怪獣に人間が触る場面が二回も出てくる。日本の映画で、怪獣に触る場面なんてあっただろうか？せいぜい、キングコングが女性を捕まえたり、ガメラが少年を救出する程度の話だったのではないか。しかし本作では二回とも人間が自分の意思で怪獣に手で触れている。普通では考えられないことだ。古代の神々という割には触るとは何事だろうか？アメリカ人は、触ると嬉しいのか？あまり怪獣に触らないで欲しい。その点は気になった。</p>
<p>　ともかく、いろいろ考えさせられる興味深い映画でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>「大空の夢　特撮の神様・円谷英二伝」発表</title>
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		<pubDate>Tue, 05 Feb 2019 02:58:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[cercle]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[「大空の夢　特撮の神様・円谷英二伝」発表   　２０１９年１月１１日、須賀川市中心分に市民交流館TETTEがオープンした。これに併せ、私は１８年ぶりに円谷英二伝を発表、「大空の夢　特撮の神様・円谷英二伝」の名で大月書店か [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">「大空の夢　特撮の神様・円谷英二伝」発表</span></p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/043eb2e14c8e6751d6edc01bcd59a8f0.jpg" rel="lightbox[875]"><img class="alignnone  wp-image-876" style="width: 248px;" alt="大空の夢表紙" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/043eb2e14c8e6751d6edc01bcd59a8f0-209x300.jpg" width="209" height="300" /></a></p>
<p>　２０１９年１月１１日、須賀川市中心分に市民交流館TETTEがオープンした。これに併せ、私は１８年ぶりに円谷英二伝を発表、「大空の夢　特撮の神様・円谷英二伝」の名で大月書店から発売された。なお、タイトルの「大空の夢」は、１９９０年代、青年会議所時代に短編映画を製作したときの作品名から取った。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">「大空の夢」製作のいきさつ</span></p>
<p>　「大空の夢」は、以下のような理由により、製作を思い立った。</p>
<p><span style="color: #008000; font-size: medium;">○市民交流館のオープン</span></p>
<p>　須賀川市中心部に建った市民交流館TETTEは、大きな予算をかけた大がかりな建物。須賀川市の未来を賭けた壮大な建造物であり、その最上階には円谷英二ミュージアムができる。須賀川市出身の偉人として讃えられた円谷英二だが、今までこれほど大きくクローズアップされたことはなかった。この時期に円谷英二の伝記を発表するべきではないかと考えた。</p>
<p>　円谷英二という人物に関しては、あまり伝記が発表されていない。資料や情報を集めるのが難しく、伝記としてまとめにくいのが理由だが、当方は長年にわたる取材や資料収集によりそれが可能となった。また、円谷英二は自らが生み出した怪獣などのキャラが有名になりすぎ、そちらに関心が集まる傾向もある。怪獣だけが中心にならないよう、それを生み出した円谷英二についてきちんとした情報を発信すべきと考えた。</p>
<p><span style="color: #008000; font-size: medium;">○相次ぐ子供用円谷英二伝の発表</span></p>
<p>　近年、子供用の伝記シリーズに、エジソンや野口英世と並んで「円谷英二」の名が見られるようになった。子供はほとんどウルトラマンやゴジラを見るので、それを作った人物というのは常に話題となるのだろう。こういった子供用伝記の参考文献には過去の私の本、「翔びつづける紙飛行機」、「特撮の神様と呼ばれた男」が登場する。</p>
<p>　それはいいのだが、「特撮の神様・・・」から１８年、いつまでも古い情報が参考文献となるのは抵抗があるし、それぞれ出版社の倒産により絶版で、中古本を探して参考文献としているようだ。情報が古いと間違いもあり、それがそのまま使用されることがあり、頭を痛めていた。そこで、新しい情報も入れ、最新版を発表しようと考えた。</p>
<p><span style="color: #008000; font-size: medium;">○出版社との関係</span></p>
<p>　今回「大空への夢」を出版した大月書店編集部の方とは、実は２０１７年の秋頃にお会いしている。当方の講演会の会場にいて、後日、その講演に関する本の出版を提案いただいた。</p>
<p>　ところが、その頃私は前作「クリーニング業界の裏側」執筆中で、残念ながらその要請には応えられなかった。現在、「本を書きませんか」と勧められることは珍しい。大変なチャンスを涙をのんでお断りしたのだが、２０１８年春、円谷英二ミュージアムなどの建設が発表され、それならまた書いてみようかと大月書店に提案したのである。これが了承され、発表に至ることができた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">「大空への夢」に関して</span></p>
<p>　一人の人物の生涯を描くのだから、基本的にコンセプトは前作「特撮の神様・・・」と変わらない。人生を４つのパートに分けて論じるのも同じだが、今回はそれぞれに新しい情報を多く盛り込んだ他、心の動き、生き方などを中心に描いた。戦前作品の評価なども前作よりは詳しく述べている。また、最後に第五章として円谷英二がどのような人物であったかを詳しく説明している。</p>
<p>　円谷英二は有名な人物でありながら、その伝記がほとんど出ない理由の一つに、出身地である須賀川の知識や、本人と須賀川との交流などに関して情報を得るのが難しい事情があると思う。この人物の場合、そこの点がかなり重要なので、欠かせない要素になる。当方は関係者にインタビューを重ね、地の利を生かして情報を集めたので、そういった点も今回の書籍には反映されている。</p>
<p>　多くの試行錯誤、苦労を重ね、何度も挫折を経験しながら映像の世界を追い続けた円谷英二の生き様をぜひとも知っていただきたい。</p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/2ee1df621693eda713dcf125379c3336.jpg" rel="lightbox[875]"><img class="alignnone size-medium wp-image-877" alt="20190130民報" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/2ee1df621693eda713dcf125379c3336-256x300.jpg" width="256" height="300" /></a></p>
<p><a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/23fd77cd72e6192ccbc86f89877b55b7.jpg" rel="lightbox[875]"><img class="alignnone  wp-image-878" style="width: 266px;" alt="20190125民友1" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/23fd77cd72e6192ccbc86f89877b55b7-300x289.jpg" width="300" height="230" /></a></p>
<p><span style="font-size: x-small;">「大空の夢」出版に関わる講演を紹介した新聞記事</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>「円谷英二と故郷、須賀川」講演会</title>
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		<pubDate>Mon, 10 Apr 2017 01:40:05 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[「円谷英二と故郷、須賀川」講演会   　３月５日、須賀川市内で、私が「須賀川知る古会」主催の講演会に招かれ、「円谷英二と故郷、須賀川」の演題で講演会を行いました。「知る古会」は、先の枝正義郎氏（円谷英二の最初の師匠）のお [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">「円谷英二と故郷、須賀川」講演会</span></p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/48233d4a48285b3bfa3e7f8bd7f44404.jpg" rel="lightbox[856]"><img class="alignnone size-medium wp-image-858" alt="20170311講演" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/48233d4a48285b3bfa3e7f8bd7f44404-200x300.jpg" width="200" height="300" /></a></p>
<p>　３月５日、須賀川市内で、私が「須賀川知る古会」主催の講演会に招かれ、「円谷英二と故郷、須賀川」の演題で講演会を行いました。「知る古会」は、先の枝正義郎氏（円谷英二の最初の師匠）のお孫さんの講演会などを主催されていますが、その後の企画として私を呼んでいただきました。会場は須賀川市内の「交流館・ぼたん」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">円谷英二、上京のきっかけ</span></p>
<p>　円谷英二は１９０１年、須賀川市に生まれ、子供の頃から乗り物、とりわけ飛行機が大好きで、１５歳の時に飛行機学校を目指して上京しますが、その後、兵役で会津若松歩兵連隊に入隊し、除籍後に帰郷、一端は家業を継ぐ気持ちになります。しかし、東京で枝正義郎らから薫陶を受けた映画への憧れが忘れられず（と、一般にはいわれています）、再び突然上京します。自宅にはこのときの決心をしたためた、「出世するまで故郷には帰らない」という、野口英世ばりの手紙が残っています。</p>
<p>　再び上京した理由に関しては、親戚の方から、実家に軍隊上がりの厳しい親戚がいて、それがイヤだったという話も聞かされていますが、この当時、須賀川市に映画館が二つも相次いで開設されたことが大きいと思われます。二つの映画館は中央館と須賀川座。いずれも円谷家から歩いて数分の近距離です。</p>
<p>　遂に地元、須賀川市にも映画館ができた・・・。これが円谷英二を再び映画の世界に向かわせた最大の理由ではないかと思われます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">叔父一郎との交流</span></p>
<p>　円谷英二は母親セイが１４歳のときに生誕し、１６歳のときにその母親が亡くなります。そのため、実際には祖母にあたるナツを「おっかさん」と呼び、少年、青年時代を過ごします。そのナツの息子に当たるのが英二の５歳年上の一郎です。年齢が近いこともあり、兄と弟のような関係となってずっと交流が続きます。</p>
<p>　円谷英二の本名は「円谷英一」ですが、実家に戻った際、いったんは今後、家業を継ぐということになり、一郎の弟だから「英一」でなくて「英二」となったのです。これには、親戚筋に大変占いに詳しい方がいたことも関連しています。</p>
<p>　上京していた時期、英二は、ときどき「もう故郷に帰りたい」と嘆いている手紙が見つかっています。しかし、一郎は「そんなことではダメだ」と叱咤激励しています。手紙でも兄と名乗っており、この様な励ましがあったからこそ、「特撮の神様」が世に秀でたことを考えれば、叔父の一郎氏の功績も見逃せません。</p>
<p> 一郎氏や実家との交流の中では、戦後、公職追放指定などを危惧していた時期、「もう映画が作れないなら、そのときはキッパリやめようと思います」などという手紙も自宅に送っています。不安を抱えていたときの一番の精神のよりどころはやはり須賀川の実家にあったようです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">大昔の映画</span></p>
<p>　講演では英二氏の関わった古い時代の映画にも触れました。「新しき土」では、京都の自宅を出た原節子が歩いていると安芸の宮島にたどり着くという仰天場面で笑いが出ました。このように、戦前の映画などを紹介するのは意義のあることだと思います。この日集まった人たちは比較的５０歳以降の方々が多く、そういう層に向けた資料を用意していたので、問題なくできて良かったです。怪獣の話なのかと思って子供が来られたらどうしようと思ってビクビクしていました。なお、会場には古くからの友人も多く見受けられました。ありがたいことです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">円谷英二、須賀川上空を飛ぶ</span></p>
<p>　質問があり、「円谷英二は飛行機で須賀川にやってきたと聞いたが本当か？」というものでした。</p>
<p>　これは、戦時下で軍部の教育映画に携わっていた時代、所沢の飛行場から飛行機を借り、親戚の結婚式のお祝いのため、須賀川市を訪れたものです。このとき、円谷家の親戚は、屋根に上って迎えたといいます。</p>
<p>　幼い頃からお寺の境内にあった銀杏の木に登り、将来は飛行機乗りになると夢を語っていた円谷英二は、須賀川の上空にやってきて、どのように思ったのでしょうか？</p>
<p>　この時代の軍部教育映画作成に関しては、「ゴジラは円谷英二である」という書籍に詳しく書かれています。</p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/yubita.jpg" rel="lightbox[856]"><img class="alignnone  wp-image-860" style="width: 92px;" alt="yubita" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/yubita-204x300.jpg" width="204" height="133" /></a></p>
<p><span style="font-size: x-small;">教育映画作成の時期について詳しく書かれている書籍「ゴジラは円谷英二である」</span></p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">大空への夢　上映</span></p>
<p>　講演後、私が１９９８年に青年会議所で制作した１５分ほどの映画「大空への夢」を上映しました。私も見るのは久しぶりでした。これは、当時青年会議所で須賀川市に貢献した偉人達を映画化する試みの一つで、前年に制作された小林久敬の作品が素晴らしく、次は円谷英二で・・・と思い立ったものです。</p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0742.jpg" rel="lightbox[856]"><img class="alignnone size-medium wp-image-859" alt="DSC_0742" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0742-300x156.jpg" width="300" height="156" /></a></p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">市内のウルトラマン</span></p>
<p>　震災以降、須賀川市には街中にウルトラマンとか怪獣がたくさんいるようになりました。最初はウルトラマン、ウルトラセブン、ゴモラ、エレキングの４体だったのですが、その後、ベムスター、帰ってきたウルトラマンとか、円谷英二没後の作品に登場するキャラクターが立てられています。２０１７年５月オープンの新市庁舎玄関にはなんと巨大なウルトラの父が立ちます。その辺に関しても話をしました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">次回は中野昭慶氏</span></p>
<p>　この後、次回の講演会はなんと特技監督の大御所、中野昭慶監督をお呼びする予定だと聞いてビックリしました。中野監督は以前にも青年会議所の活動で須賀川にいらしたことがあります。このように、知る古会の活動内容もどんどん充実していくようです。こういった活動は郷土の偉人を将来に伝える上で本当に重要だと思いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">おしるこ！</span></p>
<p>　講演後、この会の恒例行事で、参加者におしるこが振る舞われました。素晴らしい会で、本当に良かったと思います。関係者の皆様に御礼申し上げます。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>円谷英二の師・枝正義郎を語る！(第３回街かど講演会開催)</title>
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		<pubDate>Wed, 19 Oct 2016 03:12:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[cercle]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[円谷英二関連]]></category>

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		<description><![CDATA[  突然の案内 　「須賀川知る古（しるこ）会」という団体から連絡が入り、１０月１６日に円谷英二氏の最初の師匠である枝正義郎氏のお孫さんが来て講演会をするから出席して欲しいといわれた。 　これには仰天した！枝正氏は確かに円 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/d2b503ed645239a963c0ee76172a2a79.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-830" alt="街かど講演会" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/d2b503ed645239a963c0ee76172a2a79-212x300.jpg" width="212" height="300" /></a></p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">突然の案内</span></p>
<p>　「須賀川知る古（しるこ）会」という団体から連絡が入り、１０月１６日に円谷英二氏の最初の師匠である枝正義郎氏のお孫さんが来て講演会をするから出席して欲しいといわれた。</p>
<p>　これには仰天した！枝正氏は確かに円谷英二の最初の師だが、もはや１００年近く昔の話であり、知る人ぞ知る存在なので、そんな方が来られても、マニアックすぎて誰もわからないのではないか、と思った。</p>
<p>　こういう会では、私が行かないわけにはいかない。おそらく参加者の中で、私が一番理解しているだろうからである。別に自慢しているわけではなく、こんな話、これだけ限定された地域で、他の人がそうそうわかるものでもないだろう。義務のような気持ちでお誘いを受けることにした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">前日のパーティー</span></p>
<p>　講演に先立ち、１５日夜に大束屋コーヒー店（円谷英二の生家）でウェルカムパーティーが行われることになった。</p>
<p>　「須賀川知る古（しるこ）会」という団体は初めて知ったが、ほとんどが女性であり、故郷・須賀川市の文化を大切にして、ときどき勉強会を行うという趣旨の団体だった。市長のお母様も参加していた。総勢４０名くらいがほとんど参加し、結構なにぎわいを見せた。</p>
<p>　講演される枝正義郎氏のお孫さんという方は、佛原和義氏という名前で、ニューヨーク在住だという。スラリとしたダンディーな印象の方で、イメージ的には「モスラ対ゴジラ」で佐原健二が演じた虎畑二郎みたいな感じだった（虎畑二郎は作品の中で悪役ですが、佛原氏は別に悪い人ではありません）。名字が違うのは、母方の祖父であるからだ。６７歳という年齢は全く感じられないカッコいい人だった。</p>
<p>　講演していただくことになったのは、この会のメンバーの友人が佛原氏の奥様の友人であり、そのつてでお願いしたことがわかった。このパーティーも結構ご馳走が出て盛り上がった。</p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0247.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-831" alt="DSC_0247" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0247-300x220.jpg" width="300" height="220" /></a></p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">枝正氏の人生</span></p>
<p>　１６日当日の講演は午後１時スタート。街中にある会場には約５０名の人々が集まった。</p>
<p>　佛原和義氏は多摩美の卒業、その後、アメリカに渡って米国の大学の彫刻科も卒業している。祖父である枝正義郎については、沸原氏の父親が亡くなった後、母親がポツリ、ポツリと話してくれたという。</p>
<p>　円谷英二の師、枝正氏は広島県に４人兄弟の二番目として生まれ、身長は１８０センチあり、なかなかの伊達男だった様だ。広島ではカメラマンをしていた。</p>
<p>　枝正氏は上京し、枝正氏は日活の前身といわれる吉沢商店に入社、映画の道を歩むことになる。枝正氏の修行中、奥様は士族の娘として習得したお花、和裁などを教え、家計を支えたという。奥様も、幸福な家庭を築くことができたようだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">枝正義郎の活躍</span></p>
<p>　ここから先は、話の都合上、講演で出なかった話題も交えて説明していきたい。</p>
<p>　日本映画界の草分けとして活躍した枝正氏は、徐々に頭角を現し、日本映画最初期に様々な作品を残していく。他社では「目玉の松っちゃん」と呼ばれた尾上松之助がすさまじい作品数を残しながらも、その粗製濫造ぶりにはいささか批判もあった折り、枝正氏は澤村四郎五郎（五代目）を主役に据えて良質な作品を作っていた。初期の特撮の名手としても知られており、忍者映画などで実力を発揮した。</p>
<p>　しかし、初期の日本映画は外国映画に大きく水を空けられており、「日本映画なんて見に行くのは子供や身分の低い人ばかり」といわれるほどだったという。そういう風潮を打破したかった枝正氏は、大正９年（１９１９年）、「哀の曲」を発表、オペラ歌手の川田貴美子を主演とし、外国映画に負けない作品を目指した。この作品で円谷英二氏はタイトル部分の撮影を担当、これが映画初参加となった。</p>
<p>　この後も様々な作品を世に送り出した枝正氏だが、昔のフィルムは可燃性で保存が難しく、ほとんど残っていない。枝正氏も、優れた技術を持ち、業界では名の知れた存在であったにもかかわらず、あまり作品に恵まれなかった点は残念である。本人も、所属していた天然色活動写真株式会社（天活）が倒産、国活に移籍するが、関東大震災で仕事がなくなり、京都の松竹下賀茂に移籍し、ここから何本か映画を撮っては別の会社に移籍するような状況になったという。「悲運の人、枝正義郎」と記した本もある。</p>
<p>　昭和９年（１９３４年）、枝正はとんでもない作品を世に出す。「大仏廻国」である。大仏が立ち上がって中京地域を観光するという奇想天外な作品だが、これは前年のアメリカ映画、「キングコング」の影響もあると思われる。</p>
<p>　昭和１９年９月６日、枝正は出勤しようと玄関に立った瞬間、脳溢血で倒れ、５５年間に渡る映画人生を終える。厳しい戦時下の中でも、葬儀にはたくさんの花が飾られ、壮大なものだったという。菊池寛、永田雅一ら当時の映画界の重鎮らも参列した（この部分は佛原氏が講演で話した）。日本映画創世記の技術者、製作者として、多くの人々の尊敬を集めていたことがわかるエピソードである。</p>
<p>　枝正は大戦中、娘を地元広島に疎開させていた。その後、娘さんは結婚し、佛原氏が生まれたのである。</p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0261.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-832" alt="DSC_0261" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0261-300x163.jpg" width="300" height="163" /></a></p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">貴重な映像「坂本龍馬」</span></p>
<p>　佛原氏はいくつかの写真をスライドにして披露した。</p>
<p>　まず、広島から京都に来た修学旅行生を、京都太秦の撮影所に招待した写真が紹介された。</p>
<p>　次に、大正１０年、ハリウッドに研修旅行し、帰国した写真が紹介された。これには円谷英二氏が写っている。わざわざ迎えに来たのだから、師匠に対する尊敬の念が強くうかがわれる。</p>
<p><a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0264.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-833" alt="DSC_0264" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0264-300x139.jpg" width="300" height="139" /></a></p>
<p>　この他、嵐勘十郎とのツーショット、忠犬ハチ公（生きているときの）を抱きかかえている写真なども紹介された。大変興味深いものだった。</p>
<p>　そして、枝正義郎監督の映画、「坂本龍馬」が上映された。といっても、フィルムは完全ではなく、３０分程度だった。それでも、雰囲気は感じられ、貴重な映像に会場の人々は見入っていた。</p>
<p>　いろいろな活動をされた枝正監督だが、映像が残っているのは大変喜ばしいことである。上映に際して、坂本龍馬に関しては、当時、決して幕末に活躍した人物であるという評価はなく、この映画によって初めてその活躍を表現されたということであった。初めて英雄として表現されたのである。いかにも枝正監督に相応しいエピソードである。</p>
<p> <a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0295.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-834" alt="DSC_0295" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0295-300x191.jpg" width="300" height="191" /></a></p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">英二への影響</span></p>
<p>　枝正義郎氏は、円谷英二氏を映画界に誘った人物として知られている。花見の喧嘩がもとで知り合い、円谷英二氏に再三会い、映画界入りを勧めている。この辺について佛原氏は、「（円谷英二に）才能の輝きを見たんだと思う」と分析している。</p>
<p>　実際、ここで英二氏は映画の技術を学んでいる。特に、枝正氏が特撮の名人として知られていたことが、英二氏の映画人生に大きな影響を与えたのではないかと思われる。まず技術的に、英二氏に与えた影響は大きい。</p>
<p>　しかし、それにも増して、精神的な部分が大きいと私は見ている。</p>
<p>　枝正は熱心に英二氏を映画会に誘った。それは、この人物の才能を見出したのだというが、当時の日本映画はチャンバラが主流で、子供が見るものという印象があった。冒頭に述べたように、外国映画に遠く及ばなかったのである。</p>
<p>　それを、日本も外国に匹敵するような映画を製作したいと考えていたのが枝正氏である。日露戦争に勝利し、列強に加えられても、芸術面でははるかに劣るといわれていたのでは面白いはずがない。負けていられるかという反骨の気概を英二氏に伝承させたといえるのかも知れない。</p>
<p>　円谷英二氏の文献を見ると、日本映画が外国映画に対してどうか、という点が多い、いつも、外国作品と比較し、追いつこうと思っていたのである。それゆえ、いろいろな技術を開発している。外国に負けたくないという気持ちがいつもあった映画人生だったといえるだろう。</p>
<p>　英二氏の外国へのライバル意識は異常であることもあった。ドイツとの合作映画「新しき土」では、ドイツ人スタッフとビールの飲み比べでも競い合っている。「ゴジラ」では、外国で評価されたことを何よりも喜んでいた。これは、やはり最初の師、枝正義郎氏の薫陶を受けたからであると思う。現状を打破しようというチャレンジ精神、外国には負けないぞという技術革新の向上心、自分の作品はきちんと作るという良質な製作をする生真面目さ。枝正氏なくして、「ゴジラ」も、「ウルトラマン」もなかったのである。もし枝正義郎がいなかったら、円谷英二は映画界入りすることもなかっただろうし、その精神を学ぶこともなかったのである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">貴重な記録</span></p>
<p><a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0304.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-835" alt="DSC_0304" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0304-210x300.jpg" width="210" height="300" /></a></p>
<p>　質問のところで、私は佛原氏に対し、「枝正氏との映画の接点はないか」と聞いた。これは、やや意地悪な質問で、枝正氏が亡くなって四年後に生まれた佛原氏に、接点はないかと言っても、それは無理な話である。</p>
<p>　しかし、さすが佛原氏はダンディーでニューヨーク在住であるだけに（あんまり関係ないかも知れないが）、ちゃんとそういう場合を考えていた。</p>
<p>　「それなら、こういう冊子がある」</p>
<p>　と、ファイルを取り出した。</p>
<p>　後でそれを見たが、枝正とともに活動した柴田勝という映画人が残した枝正の記録だった。枝正氏の生い立ちや、亡くなるときのこと以外は、枝正氏が関わった作品のフィルモグラフィーであり、各作品の詳細な記録は、もはやフィルムが存在しない現在、枝正氏の活動を伝える貴重な記録である。後年、枝正氏に関して書かれた書籍の多くは、おそらくこの記録を元に書かれているものだと推測される。これが須賀川に残されるのは大きいと思う。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">講演を終えて</span></p>
<p>　正直にいうと、私は街中にウルトラマンとかゴモラとかエレキングを飾り立てることにわずかばかり不満を感じていた。形ばかりで気持ちが伝わらないということだ。しかし、須賀川市にはこんな素晴らしい団体があり、こんな講演が開催される懐の深さがある。これには感激した。これでこそ、ゴモラもエレキングも生きるのだと思う。</p>
<p>　枝正義郎という名は、この須賀川市ではほとんど自分と円谷家の円谷誠氏くらいしか知らないのかと思っていた。大変嬉しく思い、実現した知る古会の皆様には感謝申し上げたい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: large;">枝正義郎に関する文献</span></p>
<p> 　円谷英二の最初の師、枝正義郎に関しては、２０１６年１０月１６日の街角講演会で、本人のお孫さんが知る古会にプレゼントした「映画とともに。枝正義郎の記録」（柴田勝著）に詳しい。しかし、これは私家版であり、手に入れることが難しい。</p>
<p>　一般の書籍には、この様なものがあるので紹介したい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">日本映画史１（佐藤忠男著・岩波書店）</span></p>
<p><a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0307b.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-836" alt="DSC_0307b" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0307b-224x300.jpg" width="224" height="300" /></a></p>
<p>　著名な映画評論家、佐藤忠男氏による映画史評論。１冊ですごい厚みがあるのに、全部で４巻になる大作。その１巻目に枝正義郎の「哀の曲」をかなり詳しく紹介している。この作品が枝正の代表作であり、日本映画史の中でも特筆すべき作品であると著者はみている。</p>
<p>　枝正義郎が活躍した時代背景と、関連のある映画人などにも詳しい解説が述べられている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">巣鴨撮影所物語（渡邉武雄著・西田書店）</span></p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">円谷英二と阪妻・そして内田吐夢（渡邉武雄著・西田書店）</span></p>
<p><a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0307a.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-837" alt="DSC_0307a" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0307a-206x300.jpg" width="206" height="300" /></a><a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0307.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-838" alt="DSC_0307" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0307-203x300.jpg" width="203" height="300" /></a></p>
<p>　巣鴨近郊に住み、周辺地域の映画史について独自の研究を行う著者の作品。後に有名になる映画人の若き日々について書かれており、興味深い。内田吐夢監督、円谷英二撮影の「延命院の傴僂男」などについての記載も詳しい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0000ff; font-size: large;">戦前日本・SF映画創世記（高橋真樹著・河出書房新社）</span></p>
<p><a href="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0307c.jpg" rel="lightbox[828]"><img class="alignnone size-medium wp-image-839" alt="DSC_0307c" src="http://www.cercle.co.jp/blogs/wp-content/uploads/DSC_0307c-206x300.jpg" width="206" height="300" /></a></p>
<p>　日本のSF作品は戦後の作品に限って紹介されるが、この書籍では戦前の作品を紹介している。現在ではフィルムも存在せず、製作者も亡くなっている作品を著者は情報を集め、一冊の本としたのだからそのご苦労には頭が下がる。勿論、大変興味深い内容となっている。</p>
<p>　枝正義郎についても、一つの章を設けて詳しく解説している。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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