須賀川「第二の特撮人」
影山 重雄 ― 忘れられた特撮黎明期の技術者 ―
特撮の神様・円谷英二が須賀川市の出身であることは広く知られている。しかし、須賀川にはもう一人、戦前・戦後の日本映画で特撮技術を支えた人物が存在していた。それが影山重雄である。
■ 出自と映画界入り
影山重雄は須賀川市で「影山作画社」に生まれた。影山作画社は、当時の映画館が常設していた上映作品の看板やポスター類を描く、映画興行には欠かせない仕事を担っていた。当時の映画館は映画館ごとに看板を手書きで描く作業が行われていた。
影山は親戚にあたる円谷英二を頼り、戦前に円谷が勤務していた東宝へ入社した。このことにより、須賀川には“二つのルート”から映画・特撮界へ進んだ人物が存在していたことになる。
■ 特殊技術者としての活動
戦後、影山は映画のクレジットへ「特殊技術」「特殊撮影」名義で参加するようになった。
1949年の大ヒット作、原節子主演の『青い山脈』では特殊技術として名前が残っており、この作品には後にピープロの社長となる鷺巣富雄もノンクレジットで協力していた。
のちに影山は大映で多くの作品を手がけ、『丹下左膳』『続 丹下左膳』『大仏開眼』などに特殊撮影名義でクレジットされている。中でも特筆すべきは昭和28年(1953年)公開の『怪談佐賀屋敷』である。
佐賀藩の化け猫騒動を題材にした同作では、戦前にアイドル的な人気を誇った入り江たか子が化け猫を演じ、大ヒットを記録した。影山はこの作品でふんだんに特撮技術を駆使し、戦後特撮の初期成功例の一つを築いた。今日までこの題材を扱った作品は多いが、間違いなくこの作品がナンバーワンであるといえる。
注目すべきは、この1953年という年が、円谷英二が東宝で『ゴジラ』(1954年)を発表する直前であるという点である。すなわち影山は、円谷に先んじて戦後特撮で大きな成功を収めた人物であった。
■ 地域に残る記憶と、鷺巣富雄との縁
2023年には、須賀川市の団体「須賀川知る古会」が『怪談佐賀屋敷』の上映会を開催している。戦後初期の特撮としての価値に加え、須賀川ゆかりの技術者の作品という意味でも再評価の動きがみられる。
影山は東宝時代、後に『マグマ大使』『スペクトルマン』『怪傑ライオン丸』などを生み出すピープロの社長・鷺巣富雄が入社してきた際、親切に面倒を見たという。鷺巣はその恩を深く感謝しており、のちに著書『夢は大空を駆け巡る 恩師・円谷英二伝』にも影山との思い出が記されている。
1990年代、筆者(鈴木和幸)が鷺巣を須賀川の円谷英二生家・大束屋へ案内した際、古い写真の中に影山の顔を見つけた鷺巣は、「あ、この人だ!」と喜んだ。戦中・戦後の混乱の中で忘れていた人名が、写真によって一気に蘇った瞬間であった。
■ 忘れられた技術者を再び須賀川へ
影山重雄は、現在ではほとんど語られることのない人物となっている。しかし、須賀川出身であること、戦前から戦後にかけて映画特撮の黎明期を支えたこと、そして円谷英二と深いつながりを持っていたことを考えれば、須賀川市において「第二の特撮人」として顕彰されるべき存在である。
影山重雄を紹介することは、須賀川の映像文化史をより豊かにするだけでなく、特撮史の空白を埋める意義を有している。本HPが、忘れられた技術者の姿を再び地域と映画史の中に取り戻す一助となれば幸いである。
影山氏についての記載がある書「夢は大空を駆け巡る」(鷺巣富雄著)

