痛風

通風

 

 平成6年の秋、それは突然やってきた。

 朝目覚めたら、足を捻挫(ねんざ)したような痛みを感じた。バンテリンを付けて出勤したが、会社でもなかなか痛みが止まらない。

 捻挫がだんだん痛くなるなんて変だ。そのうちに、立って歩けないほどになってきた。私は妻を呼び、そのまま整形外科に連れて行ってもらった。

 「まずこれは通風だなあ。」そういう病名を聞いて驚いた。そういうものとは縁遠いと思っていたからだ。しかし医者に聞いて、これは最近は年齢に関係なく、特にスポーツマンなどにも出るとわかった。ヤクルトの古田選手も痛風だそうだ。

 それに、あのアントニオ猪木も痛風である。激痛の中、それだけちょっと嬉しかった。

 この時、足の先に注射を直接打ち込む事で、この痛みは和らいだ。普通だったらそんな注射はいやだが、とにかくそのくらい痛いのだ。ブツッと刺されて、まあその時は終わった。

 

 痛風は、昔は贅沢病などと呼ばれていた時期もあり、栄養のとりすぎで起こる病気だ。最 近では、スポーツ選手などが激しい運動の後に暴飲暴食し、痛風を引き起こす場合も多い。血液中に尿酸の結晶が出来て、それが足の先などにたまって激痛を引 き起こす。体験したからわかるが、捻挫を10倍痛くしたような状態である。モツ煮、焼き鳥など内臓系の肉やビールをたくさん飲む人が危ない。

 

 この時期私は最初の本、「翔びつづける紙飛行機」を出版した後だった。最初の本は、後 の「特撮の神様と呼ばれた男」のように十分な知識を得た後ではなかったので、異聞のイマジネーションによる部分が多く、毎晩ビールを飲みながらの作業だっ た。バドワイザーの缶を一晩に5,6本、多いときは10本も飲んでトイレと往復しながら書いていたものだ。さらにはモツ煮込みなんて大好物。自分で作るく らいだったから、後で考えれば痛風になる資格十分というわけだった。

 また学生時代、学生プロレスをしていた関係で無理に体重を増やそうとし、暴食したのも後で反動を招く種になった。

 

 結局この年はこの後もう一度発作があって、2回で終わったものだった。この後、食事にも注意していたのでしばらくは発作がくることはなかった。

 

 次に来たのは平成11年(1999年)である。まずは二月に台湾でお葬式があり、急遽 出かけたのだが、場所が台南なので台北で一泊しての旅となった。その頃台湾では急激にシェアを伸ばす日本のアサヒドライに対抗するため、国家事業として生 産した「台湾生ビール」が注目を浴びており、ホテルで飲んでみたがこれがうまい!調子に乗ってバンバン飲んだら異国で発作が起きたのであった(勿論一緒に 食べた料理なども一因である)。お葬式には足を引きずりながら参列した。

同年、また同業者のお葬式で秋田県大館市に行った私は、そこの事業所に 赴任していた高校時代のバンドのメンバー、酒井に会い、懐かしさもあってガンガン飲みまくったのである。また、その土地は比内鳥という名物があり、動物性 油脂たっぷりの食事を採りすぎて、帰ってから久々の激痛に襲われたのだった。平成11年のその頃、私はここ10年で一番ウェイトがない時期であり、痛風と は縁遠いと思っていたのだが、やせたらやせたなりに発作はより起こりやすくなるのであった。これは知らなかった。

 

 そして平成14年、父親が亡くなり、その「お別れの会(葬儀は無宗教で執り行った)」 の後、やはりまたわざわざ来てくれた酒井と飲んで発作が来てしまった。通算五分の二の確率で発作には酒井がつきまとうが、これは別に酒井が悪いのではな く、懐かしい親友なのでこっちも油断して深酒してしまうからである。また、どうもお葬式とも関連があるようだ。

 

 痛風は治らない。同世代で結構これで苦しんでいる人も多いらしい。粗食にしろと言われても、粗食するのが現在では難しいと思う。この痛みは、なった人でないとわからない。