円谷英二と故郷・須賀川(円谷イヨ子さんにインタビュー)

円谷英二と故郷・須賀川

円谷イヨ子さんにインタビュー

 

 

明治34年に須賀川に生まれた英二は、15歳で上京、兵役などの影響で20歳で帰省した後、再び映画界に戻っている。同郷人として、須賀川市との関係は知りたいし、故郷との結びつきがどの様なものであったのかはぜひ知りたいところである。英二氏は須賀川をどのように思っていたのだろうか。

円谷家の方に聞くと、須賀川市在住の円谷イヨ子さんという方が従兄弟(いとこ)に当たり、円谷英二氏の事に関して大変詳しいという。そこで、この円谷イヨ子さんに連絡を取り、お話をうかがって来た。

 

円谷家の成り立ち

円谷イヨ子さんは須賀川市の高台にある八幡山(奇しくもゴジラが初めて登場した大戸島の山の名前である)という所に住んでいた。アポを取って訪ねると、快くお話を受けてくれ、円谷イヨ子さんの家でインタビューが始まった。

須賀川市に円谷(つぶらや)という名字の家は多いが、円谷英二が生まれた円谷家は、英二の祖母ナツの二代前、円谷勇七が須賀川町の仲町(現在の須賀川市中町)に家を構え、商売を始めたのが最初という事だ。この一代だけで商売は隆盛を極め、蔵がいくつも建つような繁栄ぶりだったという。「勇七」という名前はそれから後二代襲名され、二代後の勇七が、英二の祖母となる妻、ナツを迎える。

勇七とナツの間には明治21年に長女、セイが誕生するが、この3年後に須賀川市では大変な災害が起こる。

明治24年、街の商店街のランプの不始末を発端とした大火事が発生し、須賀川の街中が一夜にして焼けてしまったのである。街の中心部にあった円谷家も被害はひどく、たくさんあった蔵も一つを残してすべて焼けてしまったそうだ。

当時は保険や政府補償など皆無の時代で、この被害によって須賀川市は壊滅的な被害を受け、商業の街としての地位をとなりの郡山に譲ることになる。円谷家もかなりのダメージを受けたが、勇七、ナツの努力もあって持ち直し、家業の糀業を再興する。

勇七、ナツの夫婦は結局長女セイ、次女ヨシ、三女ツル、長男一郎の4人の子供をもうける。長女セイが英二の母となるが、イヨ子さんは一郎の子として生まれ、子供のいなかった次女ヨシの養女となる。すなわち、英二とは従兄弟(いとこ)の関係なのだが、少女セイが早くなくなったため、実質的に英二は祖母ナツが母代わりとなり、その後も「英二おじさん」と呼んでいたそうだ。英二も祖母であるナツを「おっかさん」と呼んでいる。

 

英二氏の思い出

 

イヨ子さんが子供の頃、まず円谷英二氏に関して記憶にあるのは、たまに帰郷して映画の話をすることであった。特に、昭和10年、連合艦隊の練習艦「浅間」に乗って香港、フィリピン、タイ、シンガポール、ハワイ、ニュージーランドを撮影旅行したときには英二氏もこの大旅行について延々話をしていたそうだ。英二氏はこの様に、たまに帰省しては映画界の話などをして故郷の人々を喜ばせていたという。

 

英二、業界復帰の真相

ところで、英二氏は大正12年、22歳の時に、一度兵役などの関係で帰省し、家業を手伝うが、しばらくして再び上京し、映画界へ復帰する。こういった時期に、どの様な精神的葛藤があったのかは実に興味深いところだが、これについて、大変面白い話をしてくれた。勿論、この時点でイヨ子さんは生まれていないので、英二氏が後に教えてくれた話という事になるが、こういう事を後で親類に言って聞かせるのは、やはり英二氏の人生にとって極めて重要な分岐点だったのだ。

英二氏は枝正義郎に誘われて映画界入りするものの、兵役に取られて会津若松歩兵連隊に所属し、その後実家へ帰っている。一般的には映画を諦めきれずに復帰するという事なのだが、この当たりについて聞くと、「ナツの4人の子供(セイ、ヨシ、ツル、一郎)の内、家を出て嫁に行ったのは三女のツルだけで、後は婿を迎え家業を手伝った。」という事だった。英二の母、長女セイは亡くなってしまったため父の勇も家を離れたが、次女ヨシは軍隊上がりの婿、一積(かずみ)を迎え、家業に精を出していたという。

ところが、この一積(かずみ)という人物がなかなか厳しい人で、映画界から来た英二を馬鹿にしていたという。当時は映画人の社会的位置も低く、「河原乞食」扱いされていた事もあったそうだ。軍隊上がりの厳格な一積にとっては、映画上がりでいつも部屋に閉じこもっている英二は鼻持ちならない存在に思えたらしく、いつも怒ってばかりいたという。「昔の厳しい人から見たら、英二おじさんはなまけものに見えたと思う。」との事だった。

こういうあまりの厳しさに嫌気がさし、ある日、英二氏は家から頼まれた「白河の弁護士にイモガラを届けてこい」という用事の途中で、イモガラを釈迦堂川に投げ捨て、そのまま東京へ向かって行ったという。「その時の事をいつも英二おじさんは、いつか、見返してやる!、と言っていたものです。」という事だった。

英二氏の二度目の映画界入りの真相は、映画を諦めきれず、というよりも、叔父のあまりのイジメが原因だったとは意外だった。

 

英一から英二へ―――――改名の謎は今ここに!

ところで、こうやって叔父にいじめられる英二をいつもかばっていたのは、実の祖母であるナツであり、叔母に当たるヨシだった。この二人はいつも、「英二は33歳になったら必ず出世する。」という謎めいた言葉を言って英二を慰めたという。

実は叔母ヨシは、どの様な流儀なのかは知らないが、人を占ったりする易者のような事に興味を持ち、本人も修行したり(滝に打たれている写真が残っている)して研鑽を積んでいたのである。円谷家の親族や知り合いの中には、このヨシの勧めによって改名している人も多い(といっても手紙などに書く字を本来のものと変えているだけで、発音は変わらないが)。英二氏の夫人、マサノさんも、現在確認できる手紙の中では「真砂子」と表記されていたので、おかしい、と思っていたが、この様な事情があったわけだ。

そういった中で、「33で必ず出世する」という言葉になったのだが、これは事実だったのだろうか?

昔で言う33は、1歳引いて考えなければならない。英二32歳の時は、昭和8年、「キングコング」上映の年であり、英二が映画人生を決めたと俗に言われている時でもある。特殊撮影の方向を目指す方針が固まった時期であり、この時に出世したというわけではないが、翌年には東宝の前身であるJOに入社した事でもあり、後に特撮で世界に名をなした事を考えれば、あながち当たっていると言えないことはないようだ。

また、人の名前の画数を見る事も多かったようで、そこからいろいろなアドヴァイスも生まれているようである。

円谷英一が「英二」と名乗るようになるのは、この辺の時期である公算が強い。そして、この時期に思い切って叔母ヨシに改名を勧められた可能性は極めて高いと言える。

よくある姓名判断の本などを参考にすると、「円谷英一」を「円谷英二」にすると、画数で言うところの運勢は格段に良くなる。一郎と一緒に仕事をするんだから、英二と名乗っては―――と言われても不思議ではない。「英一」を「英二」としたのは、叔母ヨシだったのである。

 

英二、故郷の空を飛ぶ

今回の訪問で一番聞きたかったのは、昭和10年代に、英二氏が飛行機に乗って須賀川上空に現れたという話である。終生飛行機に憧れた英二氏は、勇躍須賀川の上空を飛んだとき、どの様な気持ちだったのだろうか。

これについてイヨ子さんは、「昭和17年、親族の結婚式の時、英二おじさんは飛行機に乗って須賀川にやってきて、通信筒を投下しました。それには、タエ子、結婚おめでとう、と書いてありました。」と語った。 当時の通信で使用され、飛行機から投下して連絡を伝えた通信筒を利用して、おめでとうのメッセージを伝えるというニクい演出を行ったわけだが、飛行機に乗ることが夢のような時代に、これはきっと当時の須賀川市民(町民?)も相当驚いたことだろう。

当時の英二は「ハワイ・マレー沖海戦」を前に、ようやく特撮の腕を発揮できる戦争映画という分野での活躍が目立っていたが、同時に海軍、陸軍から新兵の教育用映画の製作も多く依頼され、特に得意の分野である飛行機に関しては「飛行理論」、「飛行機はなぜ飛ぶか」といった作品を製作していた。当時の軍では映画によってマニュアルを伝えていたわけだが、飛行機の映画を製作する中で、ちょっと飛行機を貸してもらい、故郷の空へ飛び立っていったのだろう。複葉機とのことだったから、93式中間練習機あたりだったのだろう。

子供の頃から飛行機にあこがれ、空ばかり見つめていたという英二にとって、ついに憧れの故郷の空を飛んだときの気持ちは、どの様なものだったのだろうか?感激で胸一杯だったのではないだろうか?

 

故郷との交流

 円谷英二は、飛び出すようにして須賀川を去り、映画界へ再び身を投じたわけなので、須賀川にはあまり興味はなく、帰省することもほとんどなかった…、とするのが今までの見解だった。田舎が嫌いというわけでもないだろうが、人間のタイプとして、あまり故郷を大切にするような印象がないのでは…と思っていたのである。

 ところが、イヨ子さんの話では、「とんでもない。」である。故郷との交流は相当あった様で、特に、京都から東京へ移ってからは頻繁に帰省もしていたようだ。「ふるさとを愛する人だった。」

 小学校の同級会には必ず顔を出し、毎年料亭「みはらし」で行われるのを楽しみにしていたそうだ。仲の良かった山野辺氏が体調を崩したときには須賀川まで見舞いに来て、「また来る楽しみがなくなるから元気でいてくれ。」と言っている。

 こういった故郷との交流は、円谷英二だけの個人的なものではなく、仕事の仲間内でも須賀川のことは出ていたようである。何人かの仕事仲間には「須賀川には牡丹園がある。一度見に来ては…。」と話された経験があるという事だし、祖母であるナツのお葬式には、カメラマンとしてのデビュー時からの知り合いである俳優・長谷川和夫から花輪が届いたそうだ。東京や京都で出会った業界人にも、須賀川のPR(?)は忘れていなかったようだ。

 一方、特殊撮影に関する技術を、一般の人に紹介する機会もあったようだ。イヨ子さんの話では、「ある時、コップに水を入れ、そこにインクを少し垂らして、渦巻き状になっていくのを私に見せ、これが特撮というものだ、と言われた。」との事で、特殊撮影を仕事の上での事として一般に公開しなかったわけではなく、親しい人にはこの様にして紹介もしていたのである。須賀川市の羽田和功さんも、祖父を訪ねてきた英二氏が自宅でコップに牛乳を入れ、キノコ雲の特撮を説明しているのを見ており、この様なコップでの特撮はたまに行われていたらしい。

 また、「外国では特撮にたくさんお金を使うが、日本はアイディアで勝負だ。」と、円谷監督の心の根底に流れる様な特撮技術論をイヨ子さんに語っていたそうである。各国の特撮技術を国別に比較するのは英二氏がしばしば論じる手法であり、金がなくても頭で負けないというのは、円谷氏の自信とも取れる言葉である。こう言った技術的な分野にまで話が及ぶのは、それだけ英二氏が故郷の人々とのつながりを重視していたからではないだろうか?

 須賀川から「ぜひ特撮の撮影風景を…。」と見学を希望する人も多かったらしい。そんな時、英二氏はいつも歓迎し、食事もおごってくれたという。見学者は東宝でも「英二氏の招待だから。」と歓迎され、須賀川から行った人々も英二氏の地位の高さには驚いていたという。

 イヨ子さんは戦後の一時期、理容師の勉強をするために上京し、円谷氏の家に住み込んでいたのだが、そういった時期に昭和29年、あの「ゴジラ」が完成され、イヨ子さんは円谷氏と一緒に映画館へ行ったことがあるそうである。「特撮の神様」と「ゴジラ」封切りを見る特撮ファン感涙の栄誉を得たわけだが、このときの印象は、八幡山からヌウッと顔を出すゴジラの場面で、客席がどよめいた時、英二氏はウンウンとうなずいて満足そうな笑顔を浮かべたという。自分の技術が多くの観客を驚かせたことに、円谷氏は大いに喜んだに違いない。

 他の当時の映画関係者にも、円谷氏とゴジラ封切りを見に行ったという話はいくつか伝わっており、英二氏としてもこの映画人生のターニングポイントと言える作品を、何度も映画館へ通って見ていたのではないかと思える。

 

マサノ夫人の内助の功

 円谷英二氏の奥様であるマサノ夫人はどの様な人だったのだろうか?これについては今まであまり語られることはなかったが、イヨ子さんは円谷氏ともだが、マサノ夫人との接触も非常に多かったという。また、マサノ夫人から聞いた英二氏の話も非常に多い。

 英二氏がマサノ夫人と出会い、結婚したのは、ロケの現場にマサノ夫人が何度か見学に来て、それを英二氏が見そめた、という話を英二氏の三男であるあきら氏に聞いたが、ロケに忙しい英二氏は、結婚してもなかなかマサノ夫人と過ごすというわけでもなく、マサノ夫人を幻滅させたらしい。結婚直後、実家から餅が送られて来たことがあったが、英二氏はとっととロケに出かけてしまい、涙をこぼしながら一人で餅を食べたこともあったという。徹底した映画人であったわけだから、家庭を見る事もなかったのだろう。

 

 円谷あきら氏の話では、京都の時代には、給料日になると、その日のうちに使ってしまうので、奥さんも一緒に会社に行って、給料を受け取った英二氏を連れてきたそうだが、とにかく悪く言えばお金にルーズな英二氏の奥さんとしては大変な苦労があったに違いない。英二氏は賭事は一切やらない性格だったが、酒は相当飲んだし、女性の方も興味がないというわけではなかったが、それでもついていった奥様の苦労と努力は尊敬に値する者である。逆に言えば、この奥さんがいなかったら「特撮の神様」は存在しなかったと言っても間違いないだろう。

 戦時中、物資窮乏の時代には、英二氏は食べる物がなくなって困っている部下に、自分の家から炭や米を持ってきて与えたという。ところが、実は英二氏は家には炭や米がいくらでもあると思って与えていたが、実はそれは、自分の着物を売り売りマサノ夫人が買ってきた物であったという。

 また、英二氏は仕事に集中すると、いつも帰りが遅くなったが、どんなに帰りが遅くとも、マサノ夫人は英二氏の好物であるお茶漬けを作って待っていたという。相当な気配りに支えられていたわけだ。

 この奥様に対し、英二氏は最後の最後に「恩返し」をした。なくなる1年前、ついに伊豆に別荘を購入し、奥さんと過ごしたのである。別荘が完成した時に、夜、英二氏は別荘の照明を全部つけて明るくし、庭に出て、別荘の全景を奥様に見せて、「いいだろう、いいだろう。」と語ったという。こういった表現は、映像をカメラのアングルからとらえる英二氏らしいものだが、とても良い話なので、もし将来「円谷英二物語」の様な映画が作られたときには、ぜひ映像化して欲しい気がする。

 この奥様のお話を、一番聞く事が出来たのはこのイヨ子さんだったのだ。英二氏が亡くなった後もいろいろな話を聞けたと思うが、こうやって語り継いでもらえるのはありがたい限りである。

 

 

あとがき

 お話はこれで終わったが、今回のインタビューは英二氏の思わぬ「故郷想い」なところを知って、同郷人として大変嬉しく感じた。映画に関するプロ意識を強く感じ、その文化的方向性は明らかに都会に向いており、飛び出すように故郷を後にして、しばらくは故郷の話などしなかった…といった今までの調査では、須賀川のことなど好きではなかったのでは…と思っていたからである。

 ところが、映画人として名が通り、それなりの地位も得た頃からは英二氏も「望郷」という気持ちが芽生えたようだ。故郷の人たちとの思わぬ交流は、大変参考になったし、そこには故郷への愛情も感じた。

 円谷英二氏に付いて語る場合、どうしても特撮の技術とかそのおびただしい作品群に話が飛んでしまい、人間:円谷英二を研究することはなかなか難しいのが現状ではあるが、今回のお話ではこれまでで最も人間としての優しさや故郷思いの気持ちを感じて、聞いていてとても気分が良かった。偉人として実績をもっていても、おごり高ぶるような事もなく、故郷の人を優しく迎えてくるところに英二氏本来の人柄があるのではないか。また、さんざん苦労をかけた奥様に最後に別荘を買ってあげるところなどは感動的である。

 そして、最後まで憧れていた飛行機に関しては、自ら操縦して須賀川の空にやってくるという話も具体的にわかった。

 飛行機に乗って、故郷の空へ帰ってきた英二氏、故郷の青い空を見ながら、いつかはこの空へと憧れていた英二氏が、その故郷の空を飛行機で飛んだ時にはどんな気持ちだったのだろうか?英二氏の人生の中では、この部分が非常に大切であるように思える。憧れの故郷の空へ、飛行機で帰ってきたからの英二氏は、映画界で押しも押されぬ特撮の第一人者となるのである。