福島民報版・円谷英二伝(2)英二生誕・飛行機への興味

2、英二の生誕・飛行機への興味

 

 1901年、明治34年の事、20世紀を迎えたばかりの世界は、パリ万国博覧会に代表されるように、新しい発明や発見にあふれ、活力にみなぎった時代だった。この様な時代に円谷英二(本名英一)は、福島県須賀川町の中央部で麹業を営む円谷家に生を受けた。

 当時の須賀川市は中央の大通りを中心に商業が盛んであり、そのほぼ中央部に位置する円谷家(屋号は大束屋)においても、家業をもり立てる男子の誕生は喜ばしいことであった。

 当時の円谷家は英二の祖父に当たる円谷勇七と、その妻ナツを中心に成り立っていた。ナツは長女セイが13歳のときに婿養子の白石勇を迎え、その翌年、英二が誕生したのである。(本名は英一であるが、英二となった背景は後述する)。

 男子誕生の喜びに包まれた円谷家ではあったが、悲しみはわずか3年後に訪れた。母親セイは次男を出産するが死産 となり、自分も産後の肥立ちが悪く病死してしまったのである。また、婿養子であった父親もその後家を離れてしまう事になった。結局英二は祖母のナツに育てられることになり、ナツを生涯「おっかさん」と呼んで慕う様になった。また、両親のいない英二ではあったが家には五歳年上の叔父、一郎がおり、これも生涯に渡って兄のように慕うことになる。

 ものごころつかない幼い英二の周囲では、いろいろな変化が起こった。家族の愛情に恵まれていながら両親がいないという複雑な家庭環境は、英二の人生に微妙な影響を与えていく事になる。

1906年、英二は須賀川町立尋常小学校に入学した。小学校は英二の自宅から200メートルほどの所にあり、商店街の子供達と楽しく学校に通っていた。

英二はここでみるみる成績が良くなり、ナツや他の家族を大いに喜ばせた。当時の通信簿は10段階評定だが、そのほとんどを9か10で占めていたのである。

英二は学校の授業の中でも、とりわけ図画で才能を発揮した。図画の時間が来るのを楽しみにもしていた。これは母方の祖先に江戸時代の版画家、亜欧堂伝善がいて、この様な著名な画家・版画家の血筋も,英二の人生に大きな影響を与えていると思える。

 天真爛漫な幼少時代を送る英二に、小学三年生の時、大きなニュースがやってきた。代々木練兵場において、徳川好敏大尉という人物が研究を重ね、日本で最初の飛行機による動力飛行に成功したのである。1903年にライト兄弟が世界最初の飛行に成功した8年後の事であった。

 人間が空を飛べる時代がやってきた・・・。幼い英二はこの出来事に心を奪われた。頭の中が飛行機一色になり、常にそのことばかり考えているようになったのである。英二は近所のお寺にある大きな銀杏の木に登り、空を眺めては飛行機に乗って世界中を旅する夢を描いていた。

 英二の生まれた19世紀から20世紀の初頭という時期は、エジソンを代表とする発明家達の活躍により、文明社会が急速に発達した時代であった。自動車、映画、飛行機といった、今日の生活には欠かせないものが数多く登場し、人類の発展に貢献した。それらは当時の新聞にも紹介され,人々を驚かせた。次々と世の中に登場する新発明、どんどん進化していく世の中・・・。今とは違い、子供が明るい未来に憧れる幸福な時代であった。将来に大きな希望が持てる世の中であった。文明の発展は人間を幸福にするものと信じられていたのである。英二は、少年時代をこの様な夢溢れる環境の中で過ごしていき、将来の自分が飛行機乗りや、発明家になることを夢見ていたのである。