福島民報版・円谷英二伝(4)映画界への誘い

4、映画界への誘い

 

 英二を映画界入りさせた枝正義郎は、日本映画技術者の草分け的な存在であると同時に、日本映画を発展させていこうとする改革者でもあった。

 1910年代、英二が映画界入りした時期は、映画にはまだ音がなく、活弁士が活躍している時代だった。映画館は日本映画の所と外国映画専門の所に分けられ、チャンバラ映画が幅を利かせていた。日本映画は子供が見るもの、外国映画は高級なものという認識があり、まだまだ日本映画のレベルは低かったのである。

 この当時、「目玉の松ちゃん」と呼ばれ、日本映画界最初の大スターとなった尾上松之助が大活躍をした。チャンバラ映画の走りである。この頃の映画会社は作品に対し、芸術性などはなから要求していなかった。映画はまさに粗製濫造されており、尾上松の助の映画は年間に最大80本作られていた。5日に1本という信じられないスピードである。また、フィルムも国際標準で1秒に16コマと決まっているのに、高価なフィルムを節約するため1秒8コマでの撮影も行われ、作品の質など全く考えられてはいなかったのである。

枝正はこういった現状に満足せず、志を同じくする映画人を集め、日本映画の改革に乗り出したのであった。映画を改革していくためには、才能溢れる若い力を集めたい・・・。枝正が英二を映画界に誘ったのはこの様な理由からだった。

 枝正は若い英二に映画の技法に関して手取り足取り教え、早く英二が一人前の映画人になれるよう教育した。また、 一方で映画界の現状を説き、映画技術の向上が重要であることを英二に語り聞かせた。丁寧な枝正の指導のもと、英二は技術を習得する一方で、映画に賭ける枝正のイデオロギーをもたたき込まれることになったのである。単純なチャンバラ映画ばかりではなく、文化的に発展しつつあった外国映画をたくさん見て、英二は次第に映画の世界に染まっていった。

 枝正の所属する天然色活動写真株式会社、略して天活も、当時はベンチャー産業であった映画界において、ユニークなアイディアを次々と打ち出す冒険心溢れた会社であった。その名の通り、最初期のカラー映画を提供した事は当時としては画期的だった(ただし、技術的に無理があってすぐに白黒に転換した)。また、日本で初めてアニメを製作したり、映画製作ばかりでなく、海外の優れた作品を配給するなど、当時の凡庸な日本映画に一石を投じた感があった。この様な環境の中、英二は映画の可能性に目覚め、飛行機学校の閉鎖による失意から立ち直る兆しが見えてきた。

 枝正はここで、「哀の曲」という映画を製作した。日本と台湾を舞台にした悲恋物語だが、舞台を写しているだけのような当時の映画界において、カメラアングルにこだわり、またカット割りも多く行って、海外作品に迫るような作品にしようと努力したものである。英二はこの作品で初めてカメラを操作し、タイトル部分の撮影を行った。

 師匠・枝正が野心をぶつけて製作した「哀の曲」だが、斬新な作品を受け入れるだけの土壌が当時の観客にはなかっ た。残念ながらさほどのヒットにはならず、枝正は再修行のためアメリカへ渡ってしまった。また、この様な興行的失敗があった天活もまた、この翌年には破綻してしまい、国際活映(国活)という会社に吸収されてしまった。

 十代の英二にとって飛行機学校閉鎖のショックは大きかったが、すぐにその受け皿として映画という世界が現れた事が、彼の人生を大きく変えていくことになる。ここで重要なのは、英二を映画界に誘った枝正と、その会社である天活が、現状に満足せず常に前進していく発想を持つパイオニアであった事である。枝正は映像技術とともに、その進歩的な開拓者精神を英二にたたき込んだのであった。英二は最後までこの気持ちを忘れずに映画界で活躍したのである。