福島民報版・円谷英二伝(7)再び映画界へ

7、再び映画界へ

 

 兵役が終了し、郷里で家業を手伝う英二であったが、次第に田舎の生活が退屈に感じられたことと、叔母の婿養子である一積(一積)の執拗ないじめに遭い、故郷での暮らしをやめ、再び上京しようかとも考えるようになった。

 東京での生活はめまぐるしく変化した。飛行学校への入学と閉鎖、おもちゃ会社での発明、そして、映画界での活躍・・・。厳しくとも夢に溢れた青年期を英二は過ごしていたのである。これだけ変化の激しい時代を経れば、故郷での暮らしが退屈になるのは必然的でもあった。

 上京して再び映画界へ戻ろうか・・・。しかし、自分に期待している家族もいる・・・。英二の決心は揺らいだ。家族とともに、郷里で安泰に暮らしていくか、それとも、厳しくても夢に溢れている世界へまた戻っていくか。英二にとって人生最大の決断を下さなければならない時がやってきた。

 「もう一度、やってみよう。」英二の決断は、再び映画界に戻ることであった。一度しかない人生を、もう一度映画の世界に賭けてみよう。ある日、実家で白河の知り合いの所に行く用事を頼まれた英二は、衝動的に列車に飛び乗り、東京を目指した。

 英二はこの時に重大な決心をした。これからの人生を映画一筋にすること、そして、成功するまでは決して故郷を振り返らない事である。飛行機、玩具など多彩な世界で能力を発揮した英二だったが、今後の事を考えれば、ここは映画一本で行くしかなかった。また、もし失敗して故郷に帰ろうものなら、それこそ恥さらしになってしまう。石にかじりついても、ここは頑張らなければならない。東京に着いた英二はすぐに実家に手紙をしたため、突然の別離をわびるとともに、「映画で成功するまでは死んでも故郷に帰りません。」と決意のほどを語った。

 だが、固い決意を持つ英二が見た「夢の都」東京は、大正12年9月に起こった関東大震災によって壊滅的な被害を受けていた瓦礫の山と化していた。上野駅に降り立った英二は、この惨状を見て唖然とした。「これからやっていけるのだろうか・・・。」若い英二は心細くな るばかりであった。」

 英二はまず知り合いを頼り、ともかくも東京でまだ活動している映画会社を探した。その結果、貴族の小笠原名峰という人物が運営する「小笠原プロダクション」を見つけ、そこで映画人生を再開した。

 小笠原プロダクションは、映画に興味を持った小笠原名峰が自分で映写機を購入し、貴族の知人を多く集め、自宅庭にスクリーンを張って海外作品などの上映会を催したり、自分でも映画を製作したりしたが、これは映画で生計を建てるというよりも、金持ちの道楽という印象であった。ほどなくして小笠原プロは活動を停止した。

 この頃、被害の大きい東京を後にして、映画人達は活動の拠点を京都に求めた。多くの映画会社やスタッフは京都に移り、京都が映画のメッカになっていたのである。英二は昔の同僚であるカメラマン、杉山公平に誘われ、京都に向かうことになった。

 故郷を取るか都会を取るか、あるいは実家を継ぐか新しい商売を取るか・・・。こういった決断を迫られる事は、現代人にも数多くあるだろう。英二もまた同様であった。両親不在とはいえ、家庭での深い愛情に育てられた英二にとって故郷との別離は、叔父のいじめという問題があったにしてもつらい出来事だったろう。あえて苦難の道を選んだ英二の決断だったが、この時の決意は凄まじく、以降、カメラマンとして成功するまでは実家にも帰らず、ほとんど連絡も取らず、同僚にも故郷のことを話さなかった。怪獣映画の代表者のように言われ、天才的な才能ばかりがクローズアップされる英二であるが、実は若い頃には大変な苦労もしているのである。

 

 

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 関東大震災を見 た英二のショックは相当なものであった。これからを不安に感じたものだったが、とりあえずは映画人を受け入れる就職先があったのは幸いだった。英二は後 年、この時のことを映画化しようとした。様々な人生を送る人々の人生が交錯するが、それが関東大震災によってすべて吹き飛ばされてしまうという内容であ る。このプロットは、昭和39年「士魂魔道・大竜巻」という作品に使用されている。

 

 

 関東大震災は東京に壊滅的な打撃を与えたが、伝統的な文化が交代し、新しい庶民文化の台頭を招くという文化転換 の役割も担った。それまで大衆文化の主流であった講談や寄席、芝居というものが後退し、映画は新しい文化としてそれまで異常に発展した。震災前に映画館は 112館あったが、これが4年後には178館に増えたのである。