須賀川はスポーツ界に警鐘を鳴らす街になってみてはどうか

須賀川はスポーツ界に警鐘を鳴らす街になってみてはどうか

 2019年1月11日、須賀川市中央に市民交流館TETTEがオープンする。70億円もの予算をかけた立派な施設の最上階には、須賀川市出身の「特撮の神様」、円谷英二のミュージアムが設営される。円谷英二が須賀川市で注目されるようになったのは1980年代以降である。地元須賀川青年会議所が中心となり、偉業を称える活動が活発化したからである。

 しかしその前まで、「円谷」といえば東京オリンピックのメダリスト、故円谷幸吉氏の方が有名だった。円谷英二が注目される今、あえて「もう一人の円谷」、円谷幸吉について考えてみたい。

 

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悲劇の人、円谷幸吉

 須賀川市の誇る二人の円谷といえば、特撮の神様・円谷英二と、東京オリンピックのメダリスト・円谷幸吉である。1964年の東京オリンピックでは、円谷幸吉は裸足の王者、アベベらと争い、見事銅メダルを獲得した。当時、円谷幸吉の銅メダル戴冠は大きな話題となり、東京オリンピック最大のハイライトともなった。地元須賀川市ではその功績を称え、毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が行われている。現在も「須賀川アリーナ」には「円谷幸吉メモリアルホール」が常設展示されている。

 この円谷幸吉は「悲劇の人」としても知られる。次回のメキシコオリンピックでは国民の期待を大きく背負って金メダルを期待され、大きなプレッシャーを受け腰痛にも悩まされ、婚約者とも関係者のメダルへの期待から破談へと追い込まれてしまう。大きな失意の中、メキシコオリンピックの開催年である1968年の1月8日、幸吉は自らの命を絶つ。「幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません・・・」。家族に向けられた遺書には、その悲痛で無念の想いが書き連ねられている。周囲の勝手な期待が本人には過重な負担となり、ついには自殺へと追い込んでしまった悲劇を須賀川市民なら忘れてはならない。円谷幸吉を語る場合、東京オリンピックのメダリストというより、悲劇の主人公である側面がより強いのではないか。円谷英二も、幸吉の死から約三ヶ月後の3月31日に放送されたウルトラセブン第26話「超兵器R1号」の中に、惑星間の兵器競争を批判する言葉として主人公、モロボシ・ダンに「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」なるセリフがあり、まさに円谷幸吉へのレクイエムというべき場面を監修している。

 東京で荼毘に付された幸吉は1月14日に遺骨となって父・幸七に抱かれ、須賀川駅に到着したという。駅では5000人もの市民を中心とした人々が出迎え、その死を悼んだ。大勢の人々の前で、幸吉の長男・敏雄が声を震わせ語った。「幸吉がたった今帰ってきました。皆さまのご期待に添えず、本当に申し訳ありません」。国家の威信や人々の期待が幸吉を死に追いやった。須賀川市民が忘れてはいけない、あまりにも悲しい出来事だ。

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 須賀川市にある円谷幸吉メモリアルホール。ピンク・ピクルスの音楽が流れている。

スポーツは本当に素晴らしいのか

 円谷幸吉の悲劇を鑑みれば、スポーツとは人々に幸福をもたらすものなのか、多くの人々が懸命に取り組むべきものなのか、疑問に思えてくる。

 最近、スポーツ関連のトラブルが頻繁に発生している。オリンピック4回連続金メダリストの選手がコーチのパワハラで問題になった。アマチュアボクシングでその世界のドンと呼ばれる人物の横暴さが話題となった。アメフトで背後からのタックルが物議を醸し、監督の指示が疑われた。女子体操でもコーチがパワハラをしているようだ。なぜか近年、スポーツの不祥事が続々と噴出している。

 国技・大相撲でもトラブルが度々世間を賑わす。何度も八百長疑惑が誌面を賑わせ、モンゴル力士のいさかいは大きな話題となった。国技でもこんなことが起こる。格闘技の場合、トラブルは暴力沙汰に発展するから始末が悪い。日本では特に人気のある高校野球も、甲子園に出場する球児達は高校生としての学力を持っているのだろうか?学業そっちのけで野球に没頭しているのではないか。各校もバリューを上げるため、プロのように日本中から選手を集め、私立校ばかりが出場し、地域性は皆無、プロ野球予備軍と化している。円谷幸吉の地元である須賀川でも、母校、須賀川第一中学校で柔道部の暴行事件があり、全国版のニュースになっている。

 現代社会において、かつてよくいわれた「健全な精神は健全な肉体に宿る」などという言葉は信憑性が失われている。肉体を鍛えることと、精神面での修養、成熟は関連性があると思えない。近年の不祥事を知る限り、むしろ「あまり過激にスポーツをすると根性が曲がる」とさえ思えてくる。また、これはスポーツをする人だけの話ではなく、その周囲にいる人々、利用する人々により問題があるだろう。スポーツマンは周囲の名誉欲、金銭欲、プライドのために利用される奴隷となっている場合がある。

 テレビのニュース番組には必ずスポーツのコーナーがあり、いろいろなスポーツにかなり長い時間が割かれている。本来は政治、経済などもっと時事的な話題を放送して欲しいのに、これでもかというくらいスポーツばかりが流される。スポーツマンの活躍や結果は、はっきりいって一般市民にはなんの影響も及ぼさない、どうでもいいことである。なぜこんなにスポーツばかりなのか。スポーツは社会問題から国民の目をそらすために利用され、政治腐敗をもみ消す手段に使われていると感じられる。各国がやたらとオリンピックを誘致したがる背景には、そんな理由があるのではないか。

円谷幸吉の場合も、周囲の人間が国威発揚や周囲の名誉欲のため人間の尊厳を踏みにじり、ささやかな幸福をも奪った悲劇ではないか。幸吉は国家の犠牲者であり、オリンピックに利用された被害者である。

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メモリアルホールに飾られた幸吉の銅メダル。命を削って獲得するものであれば、何とも切ない。

オリンピックの役目は終わっている

 およそ人間社会において、すべてのスポーツの中心はオリンピックといえるかも知れない。多くのスポーツが同時に行われ、規模も格段に大きい。多くのスポーツマンにとってオリンピックは大きな目標であり、世界を目指す憧れでもある。

 世界第一級のアスリートが競い合う姿は素晴らしいし、多くの感動を与えたのは紛れもない事実である。長い歴史の中でたくさんの英雄が生まれ、勝利者も敗者も称えられた。それ自体は大変結構なことだ。

 しかし、オリンピックにどれほどの存在価値があるだろうか?古代オリンピックを蘇らせたのは1896年、それ以来4年に一度行われ、現代に至っている。20世紀の間はずっと開催されたが、その間に大戦は二回発生、そのたびに中断された。近代オリンピックは古代と違い、戦争をやめさせるほどの力は持たなかった。そればかりか1936年のベルリン大会ではナチスドイツのプロパガンダの材料となり、国威発揚にいいように利用された。聖火リレーやオリンピック記録映画制作などドラマチックな演出もこの時代からという。1972年のミュンヘン大会ではテロが発生、1980年のモスクワ大会もソビエトのアフガン侵攻により西側諸国が不参加、オリンピックは明らかに政治色が前面に出た虚飾の祭典と化した。

 1984年のロスアンゼルス大会以降、オリンピックはショービジネス化され、プロの参加も認められ、スポンサーを募って利益を追う資本主義の場となった。金が儲かるならそこには賄賂、不正が横行し、オリンピック誘致を巡って各国は膨大な予算を計上、誘致合戦が繰り広げられた。選手達はメダルを競い、ドーピングも当たり前になった。IOCすら不正を追及されるようになった。

 もうオリンピックは純粋なスポーツマンの競技とはいえない。今後のオリンピックはドーピングがより巧妙になり、ゲノム編集で作られたサイボーグの祭典になるのではないか。国家や資本によってオリンピック専用のクリーチャーが作られ、人権を無視した争いが繰り広げられるだろう。古代オリンピックも末期は参加者達が勝利を焦って不正が横行、やがて廃れたという。人類は、体力は向上しても精神は全く進化しなかったようで、卑劣な不正がより巧妙になっただけだった。

 また、近代オリンピックが初めて開催された19世紀末と比べ、現在ははるかにメディアが発達し、あらゆるスポーツはテレビでもスマホでも見ることができる。交通もはるかに便利になり、ほとんどのスポーツで国際大会が行われている。現代に、あらゆるスポーツをまとめて行う必然性があるのだろうか?

 古代のオリンピックを復活させて100年余、オリンピックはおおむねその役割を終えたのではないか。これ以上開催しても何もいいことはないばかりか、問題ばかりがふくれあがってくる。最近では開催国が資金難で苦しむ事態も発生し、ますますこの祭典の形骸化が顕著になっている。現在建設中の2020年東京オリンピック競技場も、建設現場では失踪した外国人達が不法就労している。

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幸吉のサイン色紙。「忍耐」の文字が意味深だ。

須賀川市の役割

 まもなくTETTEが開場し、円谷英二にますますの注目が集まるだろう。「特撮の神様」の偉業は、須賀川市民にとって大いなる誇りであるが、もう一人の円谷、円谷幸吉を巡る問題についても多くの人々に知っていただきたい。須賀川市としても、TETTEがある程度落ち着いたら、円谷幸吉に関してももう一度光を当て、その問題などに焦点を当ててもらいたい。

 実際、むしろ現代においてこそ、円谷幸吉に学ぶ事象は多いのではないか。幸吉の問題は、現代につながる様々な問題を内包している。現代は若者の自殺が多く、いろいろな場面で起こるパワハラも大きな社会問題となっている。幸吉の悲劇に近い事象は現在に至るまで数多く引き起こされ続けている。幸吉の死の際、その実態や経緯をもっと探求していれば、後の数多い悲劇はかなり減少したのではないか。それを考えれば、一人のアスリートの死としか対処しなかったのは全く悔やまれる。どのような経緯で死に至ったのかを事細かに整理、研究し、後世の戒めとするべきだろう。

 幸吉自殺の直後は、オリンピックを避けた競技者の敗北として非難する向きもあったという。しかし時の文化人達は反論した。三島由紀夫は「傷つきやすい雄雄しい、美しい自尊心による自殺」といい、寺山修司は「自殺というよりは他殺であった」といい、川端康成は「千万言尽くせぬ哀切」と幸吉の死を悼んだ。

 一つの考えだが、円谷幸吉を生んだ須賀川市割は、幸吉の悲劇をより探求し、過激化するスポーツやオリンピックに疑問を投げかけ、場合によってはオリンピックに反対する街になってもいいのではないか。オリンピックは体を鍛えて健康にする目的ではなくなり、国家の威信、ナショナリズム高揚の場である。かつてのナチスのように全体主義的な風潮を煽り、国際協調や世界平和に貢献しているとはいい難い。オリンピックのようなイベントを開催することが正義であるかのような考えに多くの人々が流されている。あえてそうではないと全体主義に反論する地域があってもいいが、それには幸吉の出身地、須賀川が相応しいと思える。

 具体的には円谷幸吉の人生をさらに探求し、悲劇に至った経緯を研究し、こんなことがなくなるべく討議するべきだろう。さらに一般に起こったスポーツの裏の側面などを展示、それらについても考えるべきである。スポーツは素晴らしいと闇雲に礼賛するだけの単純な構図を破壊、その問題点を研究する機関の設置なども必要だ。実現すればスポーツ界自体も健全化するだろう。スポーツ関連の不祥事が頻発し、パワハラがどこにもある現在、そのニーズは非常に高いといえる。社会の不正や政治腐敗を隠蔽する手段とさえ思えるスポーツに、今こそ疑問を投げかけるべきだ。

 文明発達により生活が便利になった反面、公害や環境破壊が発生、地球温暖化が加速し、人類を脅かす脅威となった。商業の発達は人々に豊かな社会を提供したが、激しい競争や生産性の追求はブラック企業を登場させ、パワハラやセクハラで不快な社会となった。ものには限度がある。スポーツは本来人々の健康を増進する存在であり、国威高揚、国家のメンツ、あるいは商売の道具ではない。ゆがめられたスポーツの実態に一石を投ずる必要性は強いのではないか。今のところそんな街は存在しないが、TETTEで成功したら、次はぜひ検討してもらいたい。

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東京オリンピックでの同メタル獲得を報じる地元紙