鷺巣富雄さんとの交流
特撮の神様、円谷英二の人生を語る上で、絶対に外せない人物が何人もいるが、その中でもピー・プロダクション社長、鷺巣富雄氏は大変重要な存在といえるだろう。円谷英二の人生も波瀾万丈だったが、鷺巣氏もそれに負けないくらいいろいろなことがあり、語り尽くせないくらいの実績を持つ人である。
そして、私はその鷺巣氏といろいろ接点を持つ事ができた。後で詳しく述べるが、鷺巣氏は素晴らしい沢山のキャリアを持っているにもかかわらず、大変親切に接してくれ、今でも本当に感謝している。その辺の事も記しておきたい。
鷺巣富雄という人物
鷺巣富雄は1921年、東京港区の裕福な商家に生まれ、1939年に東宝に入社する。東宝では大石郁雄ひきいる線画室に入り、線画(アニメ)を学ぶことになるが、特殊技術課の円谷英二と接点が多くなり、特撮のことなども学んだという。
しかし時は戦時。鷺巣も戦争末期には兵役に取られたが、映画出身ということで、これから特攻する若い兵士の写真(遺影)を撮る仕事を後に俳優となる三船敏郎などと行ったという。(そのときのことを須賀川でお聞きしたが、涙ながらに語るのを見て驚いた。本人にはつらい体験だったのだろう。わずか十五で特攻する兵士もいたという)
戦後、東宝を離れた鷺巣は漫画家に転じ、手塚治虫らと肩を並べるような漫画家として活躍する。家庭にテレビが普及する昭和30年代には自らの会社、「ピー・プロダクション」を設立、テレビアニメ番組、「零戦はやと」、「ハリスの旋風」などを製作し、虫プロ「鉄腕アトム」のテレビアニメ下請けなども請け負った。そして、映画では大映の大作「釈迦」、松竹の「吸血鬼ゴケミドロ」などの特撮を担当、テレビでは「マグマ大使」、「怪獣王子」、「スペクトルマン」、「怪傑ライオン丸」など大ヒットした特撮番組を担当している。漫画、アニメ、特撮映画、テレビ番組制作にまたがって活躍した人物は当時でも珍しく、鷺巣氏はまさに日本映像史における稀有なマルチクリエイターだった。
円谷英二との交流
鷺巣は戦後も円谷との交流があり、円谷の最も苦しい時代、「ゴジラ」で成功するまでの昭和20年代を見届けている。「不本意な仕事もいろいろやったようだよ」と顔をしかめながら語ったこともあった。
昭和35年、アメリカ人俳優のカーク・ダグラスが日本でアニメ映画の会社を立ち上げたいという希望があった。これに乗った円谷はアニメといえば、ということで鷺巣に話を持ちかけ、二人の名前から「TSプロ」という会社を立ち上げようとした。これは設立に至らなかったが、このあと鷺巣のピー・プロダクションが誕生し、後の円谷プロダクション設立にもつながる。
昭和45年、円谷英二は死去したが、鷺巣はその後も活躍、作品を量産した。第二次怪獣ブームと言われる時期には、スポ根もの大作「巨人の星」の裏番組で始まった「宇宙猿人ゴリ」の特撮を担当、視聴率で巨人の星を上回る快挙も見せた。多くの作品を残した鷺巣富雄は2004年、惜しまれながらこの世を去った。(以上敬称略)
私と鷺巣さんの交流
1990年代、私は青年会議所の活動などを通じて、円谷英二の事を出来るだけ知りたいと思っていろいろな人たちにお会いした。その中で、円谷監督と近しい関係にあった鷺巣富雄さんに気づき、連絡してみたところ、お会いする事になった。荻窪のご自宅に伺って以降、交流は続いた。
いろいろなお話を聞き、初めて聞くような話が多くて驚いたが、昭和41年、ウルトラマンが放送される事になったとき、その二週間前にマグマ大使が放送されている。こういうことから、鷺巣さんは円谷監督に対してライバル意識を持っていたのではないかと質問したところ、「とんでもない、私は円谷監督の弟子です」と言われ驚いた。対立はテレビの問題であり、本人達はそんな事は全然なかったのだった。
鷺巣さん須賀川に来る
そのうちに交流は深まり、今度は鷺巣さんの方から私のいる須賀川に来ることになった。私は大束屋の円谷誠さんを訪ね、いろいろ円谷監督のことを話し合ったが、鷺巣さんにはもう一つの目的があった。鷺巣さんが東宝に入ったとき、大変お世話になった先輩がいたという。その人は円谷監督の親戚で、須賀川出身だということだった。昔のことなので名前も忘れていたが、なんとか探してみたいとのことだった。
そのうち、昔の写真を見ていた鷺巣さんが、「あ、この人だ」といった。自分と一緒に写っていたのは影山重雄という人だった。影山氏は新人の鷺巣さんを丁寧に扱い、いろいろ面倒を見たようだ。私は鷺巣さんを影山氏の実家に連れて行き、鷺巣さんと一緒に仏壇に手を合わせた。鷺巣さんは大変満足だったようだ。後に書かれた著作にも影山氏のことが出ている。
後でわかったのだが、この影山重雄氏は戦後まもなくの映画界で結構活躍した人だった。戦後日本特撮史の空白を埋めるような人物だったともいえるだろう。昭和20年代の新東宝や大映の映画に、結構「特殊撮影 影山重雄」というクレジットが目立つ。この時期には特撮担当者の名前が紹介されることは珍しく、それだけの価値を持っていたのだろう。大ヒットした「青い山脈」などもだが、私の考えるベストは昭和28年、大映の「怪談佐賀屋敷」である。映画も大ヒット、「ゴジラ」の一年前にこんなヒット作の特撮を担当し、多いにアピールしている。
すごいプレゼント
こういうことを恩義に感じられたのだと思うが、鷺巣さんはこの後、マグマ大使やスペクトルマンに登場した怪獣のソフビを「お子さんにあげて下さい」と、たくさん贈ってくれた。当時幼稚園くらいだった息子は一部を無邪気に空けてしまったが、とんでもない!こんな貴重品を子供にあげるわけにはいかない。私は御礼の手紙を送り、「これだけの貴重な品を子供にはやれない。私が大事に保存します」と綴ったら、なんと、「それではこちらをお子さんにあげて下さい」と、
また同じくらいソフビが贈られてきた!
鷺巣さんはこんなにいい人なのだ。私は2007年、いただいた品を「開運、なんでも鑑定団」に出したことがある。感心したのは、番組で鷺巣さんの生涯などを細かく紹介してくれたことだ。これだけの方だから、大変見応えのあるものになった。
鷺巣さんから送っていただいたソフビ人形など
円谷英二はマグマ大使に肩入れしている?
須賀川青年会議所では円谷英二のふるさとということで町おこしを画策する活動を始めた。しかし、伝記そのものがないので、私はそこから始めた。いろいろな方にインタビューしたが、円谷監督の三男、当時株式会社円谷映像社長の円谷粲氏にインタビューしたとき、
「オヤジさん(円谷監督のこと)はウルトラマンよりもマグマ大使の方に肩入れしていたと思うよ」という言葉を聞いた。
え、それはないだろう。円谷プロではウルトラマンを放送しているのに、そのライバルのような「マグマ大使」に肩入れしているなんてことがあるわけがない。よく聞くと、円谷監督はウルトラマンの撮影中、スタジオを抜け出して「ちょっと鷺巣君のところを見てくるよ」と出かけてしまうことが多かったようだ。愛弟子が心配で見に行っていたんだろうか、確かに鷺巣さんも円谷さんが良く訪ねてきたといっていた。ウルトラマンのスタッフが嫉妬するくらい、マグマ大使の撮影を気にかけていたということで、この話を鷺巣さんにしたら、大変感激してくれた。いや、こんないい話をしないわけにはいかない。喜んでもらえて良かった。
お互い円谷英二伝を書く
2001年は円谷英二没後100周年にあたる年だった。私はこの頃二度目の円谷英二伝を上梓したいと思っていたが、幸いアートンという会社が私を訪ねてきてくれた。1990年代後半に円谷英二ゆかりの犬塚稔氏、松平宗恵氏、有川貞昌氏、満田穧氏、円谷粲氏、円谷イヨ子氏らにインタビューを重ねていた私は満を持して書き始めたが、そんなときに鷺巣さんから、「出版社から円谷英二伝」を書くように言われたので協力してくれと連絡が来た。
これは困った。同じ時期に同じ内容の本を書くことになった。当然、私の本には鷺巣さんから聞いたお話も沢山盛り込まれることになる。
私は鷺巣さんに手紙を書き、「実は私も円谷英二伝を書いている」と打ち明けた。鷺巣さんはすぐに連絡をくれ、「そういうことなら、お互い頑張りましょう」との返事をもらった。心の広い人だ。もちろん私も鷺巣さんに協力し、地元の方言などのアドバイス、地元地域の地理などについて説明した。円谷監督を昔から知る犬塚稔氏の連絡先も伝えた。
私の本「特撮の神様と呼ばれた男」は2001年6月30日に出たが、鷺巣さんの「夢は大空を駆け巡る 恩師・円谷英二伝」はそれより5ヶ月遅れて出版された。そのときにいただいた手紙は次のようなものだった。
左が鷺巣さんの書いた「夢は大空を駆け巡る」、右が私の書いた「特撮の神様と呼ばれた男」
鷺巣富雄さんの手紙
前略
「夢は大空を駆ける、恩師円谷英二伝」が発行されましたのでお送り申し上げます。
満一年間、この書のために資料集めといろいろ各地に出かけたり、写真(珍しい)を手に入れたりお借りしたりイラスト集め(参考として)に奔走したりして、やっと仕上がった本を眺めますと、校正を取ったにも拘わらず直っていなかったりと頭を抱える箇所もいくつかあります。
さて、これでどれ位の反応がありますかどうか?
十二月六日の夕方より赤坂ニュープリンスホテルにおいて「円谷英二を偲ぶ会」に出席しましたが随分懐かしい人々に逢えました。
お嬢ちゃんや坊やたちに当日の引き出物の中から二、三の品をお送りいたします。この中にはどら焼き3ヶも入っておりますが、これは食べずに記念品として扱って下さい。
あとは、小学館の円谷一さんが編集した本の復刻本が入っておりましたがたぶんこの本は鈴木さんがお持ちだと思ってはずしました。
以上生誕百年祭に関する出版物としては私の本がどん尻になってしまいました。
表紙のイラストも別のイラストレーターに依頼しまして待ちましたが遂に間に合わず票と表4のイラストも結局自分で描く羽目になってしまいまして、本文中のイラスト60全校もすべてワンマン執筆になりました。イラストと写真は三分の一をカットしました。
以上、鈴木さんにお訊きした逸話その他直しきれず校正をとり乍ら完全に治っていない部分もまだまだあります。
こんど来春にでも須賀川にお邪魔いたしました折りにでも詳しくお話し申し上げます。
見本に五冊届いた中から取り急ぎお送り申し上げます。
私の周囲でこの十二月に入ってから五、六人の友人たちがバタバタと亡くなる方があり映画関係では名プロデューサーの伊藤武郎氏(ああ野麦峠、真空地帯など)や中沢敬作(天王の世紀)、「円谷英二偲ぶ会」の翌日には小松崎茂氏が亡くなり十日の告別式に参列しましたところ前日に逢った円谷関係の人とも逢ったりして本当に仲間知人の逝去が重なります。
取り急ぎ御礼方々本と円谷会の記念品をお送り申し上げます。お子さんたちと奥様によろしくお伝え下さい。
草々
十二月十二日
鈴木和幸様 うしおそうじ
この後鷺巣さんは体調を崩し、もらった手紙はこれが最後となった。円谷英二を偲ぶ会のようなところに出席しても、その引き出物を私に贈ってくれるくらい親切な方だった。
私が鷺巣さんにしたことは、大変世話になった影山重雄さんのことで実家に連れて行ったりしたのと、円谷粲氏の言葉で円谷監督がウルトラマン撮影時でも鷺巣さんのことを気にかけているという情報だけだったが、それだけで、こんなにいろいろしてくれる人なんだから、ものすごくいい人なのだ。
鷺巣さんのご子息はミュージシャンの鷺巣詩郎さんだが、何度かいただいた手紙の中には鷺巣さんが雑誌に載ったものを切り抜いて私に送っていただいたものもあった。これだけ愛情深い方なんだから、息子さんのこともそれだけ気にかけていたのだろうと思う。
2004年のお葬式には私も出席し、最後に鷺巣詩郎さんにお声がけして今までのこともお話ししようと思ったが、マグマ大使の登場人物の俳優さん達とかがいて、あまりの迫力に気後れしてしまい、何も話せなかったことは悔やまれる。
鷺巣さんのお葬式
鷺巣富雄さんは、巨大な業績を残した人だった。しかし私にとって忘れられないのは、その業績以上に、人に対する温かさである。
本当に、得難い方だったと思う。






