ドイツ、コンサートの旅

ドイツ訪問日記

(2012年3月19日~24日)

 

3月19日

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 いよいよドイツへの旅の出発である。といっても本日は翌日の飛行機のため、成田泊。現在成田のホテルにいる。

 明日のフライトは午前11時15分で、早朝出れば決して間に合わない時間ではない。しかし、今回は娘(中二)を連れて行くし、私の体調もいまいち。それに、震災以降の高速道路は利用客増と震災復旧工事により突然混雑したりして当てにならない。そういうわけで、前日からの出発となった。

 高速もだいぶ整備され、ネットでは4時間で到着すると出ている。途中で二カ所も高速の入り口を間違え、余分な運転もしたが、それでも約4時間でホテルに着いた。私の車のナビは古く、新しい道路がわからない。ほとんど意味を成さなかったが、 稲敷インターを降りてからは一般道なので、そこから活用した。しかし、道のりはナビが間違えているんじゃないかと思えるくらいの田舎道田んぼが連なり、故郷の天栄村とか長沼町を思い浮かべる風景。娘は成田空港を東京だと思っていたとのことで、こんなに田舎だとは思わなかったとビックリしていた。

 やっとたどり着いたホテルは、はるか昔、一度か二度利用したところだった。外観は大変立派で、娘も喜んでいた。

 しかし、サービスは最悪。ディナーバイキングにレストランに行くと、同じ席に変な外人が座ってきた。従業員が間違えたらしい。部屋に入り、どこでもするようにLANコネクターを探すが、どうしても見つからない。フロントに電話したら、何とベッドの脇の電話の下にあった!机まで約3メートル!そんなに長いケーブルは持っていない(ちなみに1m)。わかった!フロントで用意してるんだ、と思い、また電話したが、「1mのしかございません」だと。ほとんどジョークみたいだ。

 もっとも、このプラン、ツインで一泊5400円!その上海外に出かけるので駐車場は15日間無料という激安だ。この安さでは仕方がないのかも知れないが、この不便さを知っていたら予約しなかったと思う。

 文句を言っても仕方がないが、実はこれも原発事故の影響が影を落としている。原発事故によって海外からの観光客は激減した。成田空港周辺のホテルには倒産するところも出てきている。客を集めようと価格を下げ、結果としてサービスの質も落ち る。原発事故って本当に恐ろしい。何もかもがダメになってしまう。福島だけでなく、周辺地域にすべて降りかかる。

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(ベッドの上でインターネット)

 

3月20日

 

 本日は成田空港よりチューリッヒ空港へ向かい出発した。スイス航空の飛行機は満席だったが、ジャンボではなくエアバスで、窓側の二つ並んだ席を娘と二人で座り、その点では若干楽だった。それにしても12時間以上の長旅・・・。かなり疲れてしまった。各席にはそれぞれ前席の後ろにモニターがあり、映画やゲームを楽しめるようにはなっていたが、いずれもドイツのものが多く、楽しめなかった。唯一、テトリスだけができて、久々にそればかりやっていた。

 チューリッヒ空港に着くとヴァイオリニスト、ノエ・乾が待っていた。この人は先週、南相馬と猪苗代でコンサートをやったばかりである。懐妊した奥さんまでいて驚いた。ともかくも久々に会えて嬉しかった。彼らにコンスタンツまで送ってもらった。

 コンスタンツへは40分ほどで着いた。みんな高速道路(アウトバーン)をすっ飛ばすのでこれにも驚かされた。天候は晴れ、気分のいい天候で、時折見える洋風の家屋以外は、日本の風景とそう変わらなかった。

 まもなく国境が見える。スイスからドイツへは一応車がゆっくりになるものの、警察によって止められる車はほんのわずか、スイスイ通れる。そして、国境から300メートルほどの所にこぢんまりとした今日の宿、ホテル・コンスタンティアがあった。

 フロントも、本当に小さな喫茶店みたいなもの。部屋は日本と比べかなり広いが、ベッドの幅は狭く、バスタブがなく、シャワーだけだった。しかし、机はすごく広く、これは使い勝手がいい。机の椅子に座って窓から外を見ると、さっき通ってきた国境がすぐ近くにあった。

 1時間ほど娘とホテル周辺を散策した。古い町並みが広がり、娘は大満足。これでこそ外国へ来た意味があるというものだ。ボーデン湖にはたどり着けなかったが、いろんな風景を見て楽しかった。ホテル近くに小さなスーパーを見つけ、入ってみると、ここでは買い物かごがなく、みんな自分が買うものを不便そうに手で持ってレジまで運んでいた。このレジの下に有料の袋があったので、いろいろ抱えて帰ることはなかった。それにしてもパン、バター、チーズ、ソーセージなどは非常に安い。ドイツは物価は高いのかと思ったが、決してそうではない。

 夜はノエ夫妻にレストランに連れて行ってもらった。ここに友達だという中年女性も加わった。世界11カ国語を話せるのだという。すごい才人だ。楽しもうと思ったが、食事の席で酒が回り始めると、長旅の疲れと時差ボケが出始めた。ノエ夫婦もそれを察して、午後9時頃には家に帰った。

 しかし、ドイツはビックリするくらい暖かい。日本から来るとその気温の違いは歴然だ。 緯度は日本よりもはるかに北にあるのに、こんなに暖かいのだ。これについてはノエ氏が「メキシコからの暖かい偏西風によるもの」と説明してくれたが、ドイツが環境問題に厳しく、地球温暖化には特に気を配っているのがわかる気がした。

 私の商売であるクリーニングにおいては、日本では「ソルカンドライ」なるドライクリー ニングの溶剤が徐々に増えている。しかし、これは地球温暖化係数が二酸化炭素の910倍もあるという温室効果ガスで、ここドイツではクリーニングどころかどこでも使用禁止である。日本のクリーニング業者の中には、そんなものを「素晴らしい溶剤」などと宣伝している奴もいる。環境問題に関しては、その差は歴然としている。

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(コンスタンツの風景。これぞヨーロッパ)

 

3月21日

 

 この日はこの旅の目的であるコンサートの日。ホテルの朝食はこぢんまりとした食堂だったが、チーズ、ハム、パンなどがふんだんにあり、こちらの食生活も充実しているものだと思った。バイキングだが、若い女性二人がコーヒーや食材を運んでいた。

 午前中、音楽事務所の山崎さんに連れられて市内を散策する。古い町並みの中心に大きな教会があり、中を見学する観光客も多かった。とにかく、歩いているだけで絵になるのはすごい。途中で、今日の初演の作曲者、清水先生が教鞭を執る新潟大学の学生達のグループと何度か会う。向こうも西洋の町並みに興味津々といったところだった。

 湖の近くまで来ると、本日のコンサート会場である「和議の館」が目の前に迫った。ここは1414年、コンスタンツ宗教会議が行われた場所である。世界史の教科書で習った様なところだが、600年も前に歴史的な会議が行われた場所が、今もこうして存在するのだ。建物はほぼ木造で、保存にもかなり力が入っているのだと思った。

 中に入ると、すでにゲネプロが行われていた。各楽器のマスターが集まり、なにやらもめ事が起こっているようだ。

 それにしても、大きなコンサートホールを予想していたが、天井は低く、コンサート会場という印象は薄い。両脇には宗教画がずらりと飾られ、歴史的な印象はあるものの、古くて太い何本かの柱が視界を遮る様にも思える。椅子も臨時のものでしかない。こんなもんか、と思ったが、ヨーロッパの楽団員にいわせれば、そもそも日本には優秀なコンサートホールが多すぎるのだという。日本は箱もの行政だから、コンサートホールばかりいっぱい出来るのかも知れない。まあ、もともとは600年以上前の建物であり、その時代にはオーケストラなど存在せず、ここでコンサートが行われることなど誰も考えていなかったのだから仕方ない。その後、「和議の館」にふさわしく、もめごとが収まった楽団は、本日のオープニングナンバーであるブラームスの「悲劇的序曲」を演奏、私たちはまるまる全部聞いた。

 昼はノエ夫妻と合流し、ボーデン湖の畔のレストランで食事。観光客が大勢集まり、かなりのにぎわいだった。今日も天候は快晴。こんなに気温が高いのは珍しいという。震災以降、こんなのんびりしたのは初めてだと思う。観光してるな、というムードだった。食後、娘はノエ氏の奥様にアイスクリームを買ってもらっていた。

 街を歩いていたが、娘はとにかくおみやげを買いたいとあちこちの店に入っていく。相当プレッシャーがかかっているようだ。スーパーのような所へ入り、チョコレートなどをたくさん買った。帰りに溶けないか心配だ。

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コンサート

 

6時45分にホテルのフロントに集合ということになった。コンサート開始は8時だが、その前に作曲家のインタビューがあるとのことだった。私たちは清水先生の教え子である新潟大学の学生達と一緒に徒歩で「和議の館」まで向かった。ノエ夫妻も一緒だった。

 会場では、既に清水先生と、アナウンサーのような饒舌な話し方をする人物が二人で座り、何かを話していた。先生はドイツ語ではなく英語で曲の説明を行った。アナウンサー?は最後の曲になるブラームスの3番シンフォニーについてまで解説し た。本日のプログラムはブラームスの悲劇的序曲、そして世界初演となるレクイエム・フォー・フクシマ、最後にブラームス三番という、オール悲しい曲(ブラームス三番は三、四楽章が短調)だった。

 やがて話が終わると、演奏まではやや時間があり、ノエ氏に促されて会場後ろのカフェに行った。ビールを勧められたが、私は演奏中にトイレに行きたくなるのが心配で遠慮していてものの、「いいじゃありませんか」というノエ氏に押されて結局飲んだ。こちらでは鑑賞前にこうして飲むのかと思った。ビール以外には、ワインを飲んでいる客も多かった。

 学校の授業開始を思わせるような鐘が鳴り、コンサートの開始を知らせる。一発では席に着かず、もう一度鳴った。400~500席位の会場はほぼ満員。関心の高さをうかがわせた。それにしても、客は高齢者が多い。咳払いが異常に多いが、フルトヴェングラーのライブ録音にも咳払いが多いのは、こういう高齢者の影響だろうか?

 楽員が揃ったところで指揮者が後ろから登場、一曲目の悲劇的序曲を開始する。日本の様に、指揮者が登場すると一斉に拍手が起こるのではなく、かなりスローペースである。それは、演奏が終了した後も同じだった。

 そしていよいよ、今回の訪欧の目的である「レクイエム・フォー・フクシマ」。楽員の椅子の位置が若干変わり、後ろには約25名の合唱団が登場し、前にはソプラノ、メゾソプラノの二人が現れる。曲が曲だけに雰囲気はかなり重苦しい。

 冒頭、灰色の長い髪の男性が詩を読み上げる。この詩は小沢陽さん作!声の専門家らしく、堂々と通る声だ。身振り手振りを交えてのドラマチックな話し方はなかなかの迫力だ。話し終わると、ステージ後ろに去っていった。

 曲が静かに始まる。不協和音が断続的に流れていく。一曲目のブラームスとは違い、同じ演奏家がやっているのかと思わせるくらいのノン・メロディーである。どの楽器からも「音楽」らしき音が流れてこない。中二の娘はビックリしたのではないだ ろうか?現代曲をきくのは初めてだったのかも知れない。

 通常のオーケストラに、竪琴、大太鼓、東洋の鐘などが加わっている。大太鼓は直径2メートルはあろうかと思われるほどの大きさだ。それが強打され、弦楽器などと解け合うと、まさにあの巨大地震や大津波の場面を彷彿とさせる。合唱団も、歌というよりは念仏の様なうなり声である。この震災の再現と、不協和音が絶えず交錯し、一片の救いもないような曲調だ。二人のソリストの歌声も、悲鳴に近い 叫びである。運命の恐ろしさ、絶望とかが表現されているのだろうか?不協和音には絶望した人々の気持ちや心理状態があらわれているようで、聞きようによっては死者の行進のようにも感じられる。後半になると東洋風の鐘が鳴り、犠牲者を慰めている様な印象も感じる。

 最後にソプラノとメゾソプラノの二人が同じメロディーを交互に歌い、事態が終演へと向かっているようなムードになり、静かに曲が終了する。指揮者がこちらを向いたことで、曲が終わったのがわかった。すごい迫力が伝わってくる演奏ではあった。

 日本の震災を題材として扱った曲だが、ヨーロッパで初演されたこと、楽団が南西ドイツ管弦楽団であること、それに、会場がコンスタンツ宗教会議が行われた場所であることからも、キリスト教的な印象を受け、独唱者によって歌われた歌詞にもそれが現れていた。被災者でもある私にはその点に若干の違和感を感じたが、ヨーロッパから福島に向けられたレクイエム、と考えればいいのだろうか?

 この後、休憩となり、またカフェへ行く。話題は当然、世界初演となった「レクイエム・ フォー・フクシマ」。難解な現代曲だけに、反応は様々だったが、本日の客の入りと、方々で泣いている客がいたとのことで、関係者はおおむね満足しているようにも感じられた。これだけでも40分の大曲で、かなり集中して聞いていたのに、この後にまたブラームス三番が続く。休憩時間は長かったが、みんな飲んでいて、鐘の音が鳴ってもなかなか席に帰らず、結局三回も鳴り、ステージの上ではヴァイオリンやチェロの奏者が足を振るわせ、なかなか席に着かない客にイライラしているようにも思えた。ただ、複雑な大曲を聴いた後なので、感想も含め、カフェに長っ尻になる気持ちがわからないでもなかった。

 やがてブラームス三番が始まる。これは個人的に好きな曲で、フルトヴェングラーにも名盤が残っている。演奏はイン・テンポで、リズムの動きなどがあまりなかったものの、本場で聞くその立派なシンフォニーの響きに感銘した。終わった後、ノエ氏に「もっとドラマチックにやれば良かったんですけどね」と言われ、同感だった。ノエ氏もロマン派のような感性を持つミュージシャンなのだろう。そこがいいんだけれど。アダージョの第二楽章のとき、会場近くのコンスタンツ駅を出た電車が走っていく音が聞こえた。曲の終了後、拍手で指揮者が何度か呼び出されたが、アンコールはなかった。

 終わった後はカフェが作曲家や演奏家、関係者の打ち上げ会場となった。みんなお疲れ様というところだが、でっかいチェロやコントラバスをケースにしまい、それを背負ってさっさと帰る楽員も見受けられた。ヨーロッパは個人主義なのだろう。私はホルン奏者と話し込み、例によってフルトヴェングラーだのチェリビダッケだのを持ち出した。「演奏家」と「鑑賞家」では感覚が違う。実際に演奏するプロの意見は貴重だった。ホルン奏者は、フルトヴェングラーがベルリンフィルを離れている間と、そのときにチェリビダッケが代役を勤めていたことなどを話し た。

 この後、一行はイタリアンレストランに向かう。狭い店の中に関係者が大量に入り込んだのでぎゅうぎゅうだった。中央では、ソリスト二人が演奏中とは違う、陽気な表情を見せていた。特にソプラノ歌手はラテン系の人らしく、思い切り明るかった。私たちは明日のスケジュールを考慮し、中座した。ノエ氏夫妻が途中まで送ってくれた。10時を過ぎたコンスタンツの町並みはやたらと静かで、映画の中にいるようだった。

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(会場風景。600年前から存在する建物だ)

 

3月22日

 

 本日はコンスタンツから電車で国境を越え、チューリッヒ空港へ行き、そこから飛行機でミュンヘンへとやってきた。

 電車は時刻通りやってきて、私たちを約一時間で空港まで連れて行った。牧場の広がる窓の風景がやたらのんびりしていて、娘相手に「ハイジー!」などと叫んでふざけていた。ちょっと出費して購入した一等車はガラガラ。何をしても許される雰囲気だった。

 乗ったのは一等車だが、二等車はなんと自転車で入ることもできる。学生などのためなのだろうか?高校時代、須賀川市と郡山市に別々の自転車を所有していた私にはうらやましい話だった。

 チューリッヒ空港は結構大きいのだが、到着したときにはノエ氏に迎えられ、あんまりそれがわからなかった。空港内の移動だけで相当歩いた気がする。

 小型機の割に4発のジェット機(100人乗りくらいか)に乗ると、一時間くらいでミュンヘン空港に着く。そこからは、教えられたとおりに市内へ向かおうとした。ルフトハンザ・エアポートバスというのを探したが見つからない。うろうろしていたら、他のバスの初老の運転手が「Can I help you?」。大変親切に教えてくれ、その通りにしたらちゃんと指定のバスに乗ることが出来た。そこから40分、ミュンヘン市内に着き、ここからホテル探しになると思ったが、ここでまたバスの運転手が親切に教えてくれ、すぐにホテルは見つかった。なんだ、ミュンヘンのバス運転手はいい人ばかりじゃないか。ガイドブックに「ミュンヘンの人々は人情がある」とあったが本当だ。

 バスが着いた場所はミュンヘン中央駅の前。目の前には古いホテルが林立している。今日の宿はその中の一つだった。ロビーのムードも良かった。

 だが、部屋に着くと落胆した。あまりにも狭い。これでツインかよ!というレベルだ。コンスタンツもそうだったがこちらのベッドの幅は日本と比べて非常に狭く、幅80センチくらいだ。それをシングルルームに無理矢理二つ詰め込んだ様な体裁。 部屋はなぜか暑いので窓を開けると電車の音や人の話し声(ここは日本でいう二階)が聞こえ、かなりうるさいし、快適とは思えない状況だ。

 娘は昨日、慣れない靴でコンスタンツの石畳を延々歩いたので靴擦れを起こし、あんまり歩かせたくない感じ。そこで、仕方ないから一番近いレストランを選んだ。近くまで行ったら中近東風・・。そこは、ペルシャ・レストランだった。

 それでも、料理はなかなかうまかった。娘も喜んでいた。食事が終わると、娘は時差ボケがあるというので昼寝。私はとりあえず買い物に出かけ、その後やっぱり昼寝した。

 こういうところで食事すると、それなりの値段がする。ドイツは外食すると高い。そういうものなんだろう。

 夜になり、単なる移動日にはしたくないので、とりあえず近隣のビヤホールに出かけた。私は普段ビールを飲まないが、それでもミュンヘンに来てビヤホールに行かないのでは、画竜点睛を欠くことになってしまうだろう。

 ミュンヘン中央駅前のところにある店に行った。本場のビヤホールは雰囲気も良く、ビールの他に名物白ソーセージも食べられて良かった。娘が頼んだのが何と緑茶!ビヤホールで日本茶を頼む人も少ないと思うが、よくぞ置いてあったものだ。体格のいい、ひげのウェイターが体を小さくして緑茶のティーバックの入った紅茶カップを運んできた。それでもムード満点。私も日本では飲まないビールを何杯も おかわりしていた。

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3月23日

 

 この日は、2008年で私の会社で招聘したピアニスト、アリス・沙良・オットさんのお母さんがホテルに迎えに来てくれ、ミュンヘン市内観光を案内してくれた。ホテルからタクシーに乗り、市内中心部へ向かう。この街も周りを城壁に囲まれ、その中が中心となっているが、街の中がみんな中世風の建物ばかり。市庁舎など、えっこれが現代の市庁舎なの?と言わんばかりに歴史的建造物そのものである。 11時になると、等身大の人形が出てきて鐘の音で踊っている。大勢の観光客が集まり、かなりの盛況だった。

 この古い町並みは、景観条例によって外壁だけは変えることができず、中身だけを改装するのだという。ちょうど工事している建物があり、オットさんが詳しく説明してくれた。なるほどこれなら町並みは昔のままである。街の中心にある巨大な教会、レジデンツ、歌劇場など有名建築物を次々と見学した。

 娘は、「ドイツにはコンビニと自販機がない」ことに気づいた。なるほどこちらに到着してから一度もコンビニも自販機も目に入らない。日本では当たり前の風景が、こちらにはない。ホテルなどで店員が何か食べながら仕事をしているのも娘には気になった様だ。

 しかし、それでいて人間が親切なんだからそれはそれでいいじゃないか、とも思った。業務に厳しい要求をされる日本の方が、世界では異例。ストレスがたまらないような世界の方が気楽で過ごしやすいし、なんといっても常に文化を感じさせる環境が素晴らしい。

 続いて美術館(ノイエ・ピナコテーク)へと行く。多くの絵が飾られているが、やはり有名な絵は最後の方に登場、セザンヌ、モネ、クリムト、そしてゴッホなどの名画が展示されている。私は絵の方はからきしわからないが、「ひまわり」などは、 近くで見ると油絵の力強いタッチが立体的に見られ、すごい迫力があった。こんなに立体感があるものなのだ。

 昼食はこのホテルで食べたが、パスタやリゾットなどのイタリア料理だった。ドイツでは伝統的なドイツ料理以外にはイタリア料理店が目立ち、他の店はほとんどない。昨日行ったペルシャ料理は移民してきた人の店だったが、日本のように多彩な文化を取り入れるというのではなく、自らの文化を大切にしていながらも、イタリア料理には愛着があるようだ。ひょっとすると、ドイツ南部はイタリアから近いからかもしれない。コンスタンツにいたときも、ノエ氏が車の中で、「このまま、ミラノまで行っちゃいましょうか」などと冗談を言っていた。

 この後、CDショップにも行く。この店は掘り出し物が多い有名店とのことだったが、意外にもそれほど大きな店ではなかった。こちらでは音楽はコンサートなど実演が中心で、自宅でCDで音楽を聴く習慣はあまりないのだという。様々な音楽家の発祥の地であるドイツでこれは意外だった。しかし、それだけコンサートなどが盛んに行われているのだろう。常に実演に接する環境があるのは素晴らしい。

 日本はハコモノ行政なので、どんなところに行っても素晴らしいコンサートホールがある。しかし、大勢の優秀な音楽家を抱えるドイツがそれほどでもないのには驚いた。ドイツ人も、「日本ほどやたらと優秀な会場が多いところはない」と行っているそうだ。それでいて、ドイツではいつもコンサートが聴けるのである。

 ここミュンヘンの地で活躍し、地元ミュンヘン・フィルを育てたチェリビダッケは、レコードをくだらないものとけなした。コンサートには及ぶべくもないというのだが、それがわかる気がした。

 午後からはフリードリッヒ一世がミュンヘン郊外に建てたニンフェンブルグ城を観光。避暑地なのに、こんな豪華な城を建てられたことに驚く。オットさんのガイドを聞いていたら、どこかで聞いたことがあるようなフレーズがいくつも飛び出した。 ああ、これはテレビ番組の「世界不思議発見」で見た光景だ。それだけ有名なものである。

それにしても、こんな贅沢をして、フランスのように革命が起こり、フリードリッヒ二世などは糾弾されなかったのか聞いてみたが、この王様は民衆に人気があり、それはなかったとのことだった。

 夕食はオットさん夫妻に招かれて歌劇場近くのレストランに行き、伝統的なドイツ料理をごちそうになった。ここではこのたびのドイツ訪問の二番目のハイライトがある。

 ドイツではビールは16歳から飲めるし、親が同伴だと14歳から飲めるのである。娘は18日に14歳になったばかり。ギリギリセーフでビールを飲むことができる。さあ、ビールがやってきた。乾杯をしたが、娘は泡をなめただけで終了、苦くてダメだったみたいだ。二十歳を待たずして娘と酒を飲みチャンスだったのだが、それは一瞬だった。

 ここではオット夫妻と日本やドイツの情勢について語った。日本では国民が既存の政党に期待せず、新しい政治家が「ハシズム」などと呼ばれて台頭していることを説明すると、それはまずいことだ、という認識を示した。なんといってもドイツはナチスの歴史があり、それと近いことは敬遠したいのだと思う。

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3月24日

 

 本日でドイツ旅行も終了、しかし、飛行機の時間が午後7時50分ということで余裕があり、ドイツ博物館へと向かう。大きな荷物はホテルに一時預かりしてもらった。

 ドイツ博物館はミュンヘン郊外にあり、壮大な建物だが展示はドイツ語が多く、よくわからなかった。それでも、船や飛行機の展示は迫力があり、ユンカースやメッサーシュミットなどを見た。ブラウン博士の開発したV2号も実物大模型があり、北朝鮮のミサイルのことなども思い出した。

 ドイツ博物館といえば、ここでフルトヴェングラーが演奏会を何度も開いている。特に、1952年に行われたコンサートで演奏されたブラームスの交響曲第二番は、3つくらいあるこの指揮者の同曲録音でも代表作といえる演奏だ。私は学生時代にこのレコードを聞いて大変感動した覚えがある。それがここで演奏されたのか、と思うと感激もひとしお。前年の1951年にもシューマンの1番、ブルックナーの4番をここで演奏し、それぞれ録音が残され、やはりこの指揮者というよりも、この曲の代表盤的な扱いを受けている。フルトヴェングラーが演奏会を開 いたというだけで重みが違う。

 この後、オットさんご夫妻にミュンヘン空港まで送ってもらい、長い旅が終了する。

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(ミュンヘン博物館正門前と、メッサーシュミット)

 この度ではどうしても外国に行きたいという娘(中二の次女)を連れてきたが、始めて見るヨーロッパについて、素晴らしい風景には感動したものの、日本と比較しての「不便さ」には驚いていた。ドイツにはコンビニと自販機がない。自販機は景観条例とかだが、コンビニは日本とは違う労働のあり方だろう。ホテルでの従業員の対応なども、「顧客第一」の徹底する日本から比較すると、不真面目に見えたらしい。今回はウィークデーだけの日程だったが、もし日曜があったら、もっとビックリするのではないか(店が休みになるので)。

 それでもドイツの経済は安定している。国民がぐうたらで生活に困窮しているという様子はない。日本の原発事故を受け、世界に先駆けて将来的な原発の放棄を打ち出したが、そういう余裕もあるのだろう。

 日本ではコンビニでもアルバイトがおでんの営業をし、100円ショップでもパートさんが売れ残りをさばこうとする。繁華街では、居酒屋でバイトする学生が客引きをしている。労働は美徳、という精神が生きている。

 しかし、それでも人々の生活は豊かだろうか。ドイツ人と比べてはるかにがんばっているのに、あんまりいい話は聞かない。なんだか損してるみたいな気分だ。労働対価が見合わない。悪くいえば、バカにされているみたい。

 やたら働いても、全然お金にならない。他の国にはないがんばりをしても、暮らしは豊かにならない。そう考えたらやってられないはずだ。単純に比較はできないけれど、過去の文化を大切にして、かつ、のびのびと暮らしているドイツの人達はいいんじゃないかと思う。その辺のところを娘に理解させるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 帰りの飛行機の中で、娘と話をした。

ミュンヘンではオットさんの案内により、ゴッホの「ひまわり」を鑑賞した。あの有名なゴッホを目の前で拝見できたのは大変嬉しかったが、ゴッホといえば、生前は全く認められず、死後に超有名人になった人物。そこで、娘に質問をした。

生きている間に贅沢をして、何不自由なく暮らしたけれど、死後は誰からも忘れられて何も残らない人生と、生きている間は苦労に次ぐ苦労をして、少しも報われず死んでいったけれど、その後、世界中の誰もが知る尊敬される人生と、どっちがいいか?というものだ。

 娘はしばらく考えていたが、結局結論は出なかった。これは難しい問題だったと思う。特に、若い世代はこれからの人生に期待を持っている。ずっと失敗だらけだとしたら失望するばかりだ。しかし、名声も欲しい。現実にはその両立は難しいのかも知れない。世代によっても考え方が違うだろう。

 結局のところ、運命は自分ではわからない。しかし、懸命な努力が何らかの報いを与えてくれるものだろう。人生は、平均すれば70年か80年くらいの旅路、贅沢をしても知れたもの、それなら、後世の人に何らかの貢献をして、名前は残さなくてもいいから、それなりの人生を送りたいものだ。もっとも、これは50を過ぎた私個人の感情であり、若い世代はそうではないと思うが・・・。

ヨーロッパは古いものを大切にし、景観すら変えてはいけないという条例が多い。これに対し日本は次々と変わっていく。日本にも景観条例はあるが、欧州とは比較にならない。何百年も変わらない景観は、人間の尊厳をも維持するようにも思える。当たり前のように変わっていく日本には、その変化が果たして人々を幸せにしているのか、人間の幸福を前提としているのか、ということを聞いてみたい。

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