「日本辺境論」に感じるクリーニングの世界

「日本辺境論」に感じる  クリーニング業者とは何者か?

 最近、ベストセラーとなっている書物に「日本辺境論」(内田樹著、新潮新書)がある。「日本人とは何者か?」という疑問に答える内容で、世界の中に置ける日本人の特徴、特色を作者の豊富な知識を駆使して記載している。哲学者や歴史上の人物がたくさん登場し、様々な文献からの引用も豊富でかなり難解な書籍だが、この様な本が現在、かなり売れているのである。この書籍が語るのは日本人論だが、そこにはクリーニング業界にも見かけられる状況・事象が存在する。果たして、我々クリーニング業者とは何者なのだろうか?

 

日本は、外国の世界地図を見る上では東の端にあり、「辺境」といってもおかしくない場所にある。主体性を持つ国家のようでありながらも、常に大国の影響を受け、それをアレンジしているようなところがある。例えば、私たちが使用する言葉、日本語は、中国から渡ってきた漢字(表意文字)にカタカナ、ひらがな(表音文字)を混ぜて使用されている言葉である。そういう日本人は、後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る・・・というのが、この書物の主張である。世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない、というのが日本の姿だというのである。異論もあるだろうが、ユニークな着想として注目すべきであり、新渡戸稲造、朝賀貫一、レヴィ・ストロース、カント、ハイデガーらの発想や着想を詳しく解説し、日本人論の本質に迫る。作者の豊富な知識から成り立つその流麗な文章は圧巻であり、難解な文章でありながらも読み出すと止まらなくなるような面白さがある。ベストセラーになるのもうなづけるというものである。

 

 

 さて、この本を読んでいると、作者が日本人の特徴として挙げているものが、何かクリーニング業界にも相通じるものがあるように感じられる。

 私の知り合いのある業者は、大変面白い特色がある。この方は、私の連れて行く飲食店以外には行かないのである。私は面白そうな店があると、興味本位で自分から入っていくが、この方は自分から率先していくということがない。

 そういうと、とても内気で気の弱い人物を想像すると思うが、実は大変社交的で、業界の様々な役員をしている。私の連れて行った店に大勢の業界関係者を引き連れ、景気よく飲み歩いている。他の人たちにいちいち「あの人が紹介してくれた」とは言わないから、ほとんどの人は彼が見つけた店だと思うだろう。飲み屋くらい自分で探してもいいと思うのだが、なぜかそれだけはしない。

 また、以前は新宿を中心に会議や宴会をしていたある業界団体は、最近はもっぱら全協のある大崎・五反田に来ている。会議費などがこちらの方が安いのが主たる理由だが、こちらの団体メンバーも、やはり自分から率先して行くことがなく、こちらで紹介したか、連れて行った店以外は利用しない。メンバーの酔った様子などを見ている限り、そんな内気な集団にはとても思えないのだが、なぜかその点だけは共通している。

 この様な特徴を見る限り、私の方が少数派であり、むしろ彼らのような特徴を持った人たちがクリーニング業者には多いのだと感じる。飲み屋ぐらい自分で見つけろといいたいが、みんなこうだから仕方がない。

 

 こういったクリーニング業者の体質が、私には「日本辺境論」で表現されている日本人像にかなり近しいものであるように感じられる。酒の飲み方などどうでも良いが、仕事ぶりや業務のあり方にもそれがあるのだ。ここではそれらを挙げてみたい。

 

依存体質

 俗に「大手」と呼ばれる日本のクリーニング業者は、業界入りする際、多くがどこかのノウハウを購入して参入している。スタートの時点で人のノウハウを教えてもらっているせいか、この業界の人々には何か、他人に頼って成り立っているような依存体質を感じる。現在でも業界には様々なノウハウが存在し、クリーニング業者がクリーニング業者を相手に商売している姿が見受けられる。機械業者や資材業者という存在は、本来私たちが「お客様」の立場なのに、しばしばクリーニング業者よりも上に立ち、経営指導まで行っている。一国一城の主として、独立した企業姿勢を持っているといえる業者がどれだけいるのだろうか?何かに頼り、何かに依存する体質が根強く残っている。

 

モノマネ主義

 依存体質とやや類似するが、この業界には誰かがやったことを臆面もなく真似る「モノマネ体質」が存在する。誰かが素晴らしい店舗をオープンした、などとなると、それと寸分もたがわぬ同じ店舗を作る人がいる。どこかの業者が何かで成功すると、それが理屈に合わなかったり、科学的根拠に著しく欠けるものであっても、理屈はともかくただ真似るのである。本来、人のモノマネをするのは恥ずかしい行為であると思う。「日本辺境論」にも、日本人の特性の一つとして新渡戸稲造が記した「武士道」が登場するが、この件についてはそれとは別に、我が業界の著しいプライドの欠如を感じる。

 

主役になるのを避けたがる

 クリーニング業者には、自分や自社を中心として歩んでいく姿勢に欠けるきらいがあるように感じる。それは、主役になるのを避け、脇役として存在していたいようないじけた発想にも思える。業界NO.1は白洋舎。この堂々たる社風は全業者が尊敬していると思うが、なぜかみんなこのNO.1に学ぼうとはせず、NO.2やNO.3を真似ようとする。その姿勢は、先頭に立つのをタブー視様にも思える。

 

ムラ社会にこもりがち

 クリーニング業者は、経営者なら当たり前のように入っているJC,ロータリー、ライオンズなどの組織に入っている人は少ない。商工会議所にすら未加入などという業者もいる。社会性に欠けるということだが、業界人だけの村社会に閉じこもり、一歩も外へは出ない人が多い。「島国根性」などの言葉で表される性格だが、この中で全協メンバーはまだかなり社会性のある部類であり、他の業者は小規模なら組合の中だけで動き、利害だけで結ばれた団体の中で行動しているような業者もいる。限られた世界でのみ生き、おいしいところだけは盗み取りしているようでもある。

 

 この様に特色を挙げると、悪いことばかりの様にも思えるが、これが多くの日本人に共通した特色であり、そういう性格を我々クリーニング業者も持っているということである。日本のクリーニング需要は世界で一番だそうだが、あるいは日本人の特色が顕著であるクリーニング業者が多いため、それが高い需要につながっているのかも知れない。

 しかし、「典型的な日本人」だからいいというわけではない。「悪癖」と見られる性格が顕著であれば、それが業界にとって好ましい状況であるわけはない。

 建築基準法問題については、行政を騙して虚偽報告をしていた様な業者 は論外だが、多くは、「多分大丈夫だろう」、「他もやっているからいいんだろう」という業界内のみの「常識」に依存した安直な発想から生まれたのではない か?現在の様な状況が果たして想定されていなかったのだろうか?

クリーニング業界内では「これでいい」と思っても、世間一般ではノーとなる事象はまだまだ存在する。今一度足下を見つめ直し、明日へ備える必要があるのではないか。

 「日本辺境論」を読み、クリーニング業界を見つめ直して感じるのは、この書物が語る典型的な日本人像にはない当業界の特色は、著しい社会性のなさにあると思う。我々クリーニング業者は、周囲のほとんどの人を顧客として存在している。顧客あっての商売だが、その顧客はすべて周辺社会の中に存在している。当業界おいては、誰もが社会の中の一因として存在し、特にクリーニングは社会の中であらゆる人々を顧客としている点も考慮されてもらいたいと思う。