クリーニングと日本社会(日本のクリーニングは今でもバブル)

クリーニングと日本社会

日本は世界一のクリーニング大国

 

 日本のクリーニング需要は世界でもナンバー・1という。日本経済はバブル崩壊後、衰退していると言われているのだが、それでも世界一、日本人はクリーニングをたくさん出してくれるのである。大変ありがたい話であり、私たちはその恩恵にすがっているともいえるのだが、この様な需要はどこから生まれるのだろうか?なぜ、クリーニングはそんなに出していただけるのだろうか?今回 はその辺を考えてみたい。

 

世界一のクリーニング需要

 日本のクリーニング総支出は4000億円強、一世帯当たりのクリーニング料金支出は、年間約9000円程度、これは、世界でもナンバー・1の数値である。もっとも、クリーニング消費量のピークは平成5年頃で、この頃は20000円近くあり、約15年間でクリーニング支出は半減したことになる。需要ダウンには契機の影響や、消費傾向の変化、クールビズ等の流行などの理由があるが、それでも世界一の地位は揺るぎない。日本は世界一のクリーニング大国なのである。

 例えば、お隣の韓国では、人口が日本の二分の一弱というところだが、クリーニング総支出は800億しかない。比較すれば日本の半分以下で、クリーニングに関しては全く日本の方が多いことになる。経済発展が著しく、既に日本を越えたと言われる韓国も、ことクリーニングに関しては、日本の足元にも及ばないのだ。

 これにはいろいろな理由がある。まず日本人は諸外国と比較して、大変清潔好きな国民であることが挙げられる。ほとんどの家庭に洗濯機が配備され、毎日洗濯が行われている。家庭用洗濯機は世界一の高性能を誇り、他の国にはない機能がいっぱい付いている(「ドライマーク」などという、誠にありがたくない機能まで付いている)。基本的に「ものを洗う」という気持ちが他の国の人よりも強いことが、クリーニングをより多く利用する原動力になっているようにも感じられる。

 また、沖縄を除く日本の全地域では、水道水が洗濯に適した軟水であり、井戸水もたいていが軟水である。こういう国は他にはあまり見当たらない。水に恵まれていることも洗濯の条件としては大きい。

 

田中角栄の言葉

 ただ、そういうことだけが需要の原因ではない。日本特有の、もっと大きな理由があるのだ。

 かつて、「コンピューター付きブルドーザー」と言われ、故・田中角栄元総理大臣は、何かの機会にポロリともらしたという。

「もし、マルクスが生きていたら、日本が一番、彼の理想を実現した国だと言うと思う」

 カール・マルクスは19世紀、ドイツ生まれの経済学者、哲学者、革命家であり、資本主義の高度な発展によりやがては共産主義の時代が来る必然性を説いた人物である。資本家の搾取の時代が終焉を迎え、万人が平等な世界がやってくると予言したのである。

 日本は戦後、高度成長経済期に入ってめざましい発展を遂げた国である。しかし、そこで違うのは、「一億総中流」という言葉が示すとおり、階級がなく、ほとんどの人が中流意識を持つ社会だった。ほとんどの国民が発展を享受し、富はほぼ万人に与えられ、いわゆる贅沢品はどれもこれも「大衆化」され、多くの人々が受け入れることが出来たのである。

 マルクス主義に習い、それをまともに実践しようとした国家はほとんどが破綻するか、あるいは独裁国家となり、「万人が平等」などとはほど遠い世界となってしまった。ところが日本は、経済が高度成長を続ける中でも社会全体が比較的均衡を保ち、「社長から平社員までの給料差が世界一低い」という平等な世界が実現したのである。田中角栄の言葉は、まさに正解であると思う。

 クリーニングも、日本の経済発展とともに急成長した業種である。クリーニングもまたかつては「贅沢品」の一つであり、お金持ちの勝手口から、小僧が使用人に御用をうかがったものであった。ところが、昭和40年代に入ると、生産性の高い機械が次々と開発され、誰でも利用できる取次店が次々と開店し、アッパーグレイドばかりか一般庶民にも利用できるものとなった。小誌に連載いただいている住連木先生が、「日本は世界でいち早く、クリーニングの大衆化に成功した」と講演で語ったことがあるが、まさにその恩恵を私たちが受けていたのだった。日本は国民のほとんどがクリーニングの顧客である。他の国は、文明国であっても、そういうところはない。全くありがたい限りである。

 それを支えたのは日本の安定した雇用であると思う。世界に類を見ない国民保険、社会保険(ただし、当時)は、国民の生活を支え、安全を保証した。終身雇用という日本独特の制度もあり、だからこそ多くの方は安心して暮らし、結果的にクリーニング需要も増したのである。他の国では国民が等しくクリーニングを利用する国家というのは見当たらない。台湾などでは人口の30%しかクリーニングが利用されていないという。「平等社会」が、クリーニング需要の礎なのである。

 

バブルだったクリーニング業界

 しかし、そのクリーニングも平成5年をピークにどんどん需要がダウンしていった。需要の落ち込みとともに、工場や店舗も減り続けている。これには日本経済の落ち込みと、「バブル長者」などを生み出した格差社会も一因ではないかと思う。相変わらず世界一であることに間違いはないが、国内だけで見れば、あくまで統計上ではあるが、クリーニング総支出はピーク時の約半分となって しまった。

 この原因はどこにあるのだろうか?景気の悪化、所得の下落など、外部的な要因にすることもできるが、決してそれだけが理由ではないようにも感じられる。

 日本のクリーニング業界はひたすら巨大化、拡張化することによって需要を広げていった。他国に例を見ない店舗数、高い生産性は、我が国独特の文化でもある。しかし、その歴史的背景を見れば、クリーニング本来の品質、時代に即した技術については何ら語られていないように感じられる。全ク連においても技術的な開発はされているのだと思うが、残念ながらそれはシェアの低さや全ク連の閉鎖的な性格によって市民には伝わってはいない。

 日本のクリーニング業界は、ひたすら生産性を求めて突っ走ったのである。工場を作り、その周りに取次店をたくさん作り、私たちは需要を大きくした。増え続ける需要に応えるため、ただひたすら生産性を重視したのである。これはある意味日本のバブル経済と酷似している。クリーニングもまたバブルだったのだ。

 しかし、それには矛盾が生じ始めた。無理な生産性強化のためクレームが増加し、他国よりはるかに多いクリーニング需要の代償に、クレーム産業としても有名になってしまった。私たちは、浮かれすぎたのかも知れない。外国では、クリーニング店への注文がやたらうるさく、それゆえ欧米ではテーラーと一緒になっている店舗が多く、新興の台湾、中国では品質への要求が高い。日本だけが異常だったと言い換えられるかも知れない。クリーニングは最近まで、バブル状態が続いていたのだろう。

 今日怒っている諸問題は、バブルだったクリーニング業界の返答ではないだろうか?一向にまとまらない業界やもら津野なさに起因する諸問題は、その典型であると思う。クリーニングという商売は本来、何なのかを、今一度考えてみる必要があるだろう。

 

雇用をないがしろには出来ない

 そういうクリーニング業界の「時代の歪み」に関して、一番重要なのは雇用問題ではないだろうか。従業員の雇用については、会社である以上大変重要な問題だが、不思議とそれについて語られる場面が少ない。

 主たる原因は、いつもそうなのだが、全ク連が法定認可団体であるため、クリーニング業者がみんな個人店であると社会に認識され、雇用されている従業員に関心がいかないことにあると思われる。思わぬ盲点かも知れないが、だからといって雇用が安定しないのはおかしい。この様に不景気な世の中にあって、売上の心配をすることがあっても、「人が来ない」と言っている業種はあまり ないのではないか?そこにこの業界の根本的な矛盾があるように思われる。

 全協はかつて、全国クリーニング協議会厚生年金基金を設け、従業員への福利厚生を充実させようとした時代があった。今にして思えばこれは大変重要なことであったと思う。働いている従業員の生活が安定し充実してこそ、国民の生活も安定し、クリーニング需要は伸びるのである。田中角栄時代の社会を正当化するわけではないが、そこには大仰にいって人類の大きな理想があり、そこでクリーニング需要が発展したのかも知れない。「格差社会」などは大きな間違いである。ほとんどの国民がクリーニングを利用できる社会は理想の世界である。 クリーニング需要は、人類平等社会のバロメーターであると信じたい。

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日本のクリーニング需要が高いのは、この人のおかげ!?