円谷英二を映画界に復帰させた二つの映画館

円谷英二を再び映画界に向かわせたのは・・・?

(須賀川市史より)

 

 須賀川市の金融機関などにいると、ロビーに須賀川市の歴史について書かれた書物などが置いてある。装丁も大変立派なもので、発行部数などから考えると、かなり高額な品でもあるだろう。そういった中から、興味深いものを発見したのでここに記載した。

 この本は市内の金融機関で見かけたものだが、先方の好意でコピーしてもらった。須賀川史をグラフィックに仕上げてあり、地元の自分には大変興味がある。この中で、「娯楽の殿堂映画館と円谷英二・・・映画の隆盛と衰 退」と題し、須賀川市での映画館の発達と衰退、そして円谷英二との関わりを取り上げているページがあった。

 その文面は、この様な内容である。

 


 

 

 庶民の娯楽は何よりも芝居と見せ物であった。 しかし江戸時代から明治後期にかけて、須賀川市内には常設の劇場などはなかった。明治末期に豊座と岩瀬座が建てられ、文明の利器の最先端であった活動写真 が見られるようになった。この二館は芝居・浪曲・政談演説会なども行われた、総合文化会館であった。

 大正8年(1919)、岩瀬地方初めての常設 映画館「中央館」が宮先町に誕生し、翌9年には須賀川座が本町に開館した。当時の映画は「活動写真」といわれた無声映画であった。役者(俳優)のセリフと 音楽は画面を見ながらの説明者(弁士)と楽士(主にバイオリン)が担当した。

 大正末期からは現代物を題材とした劇映画が盛んになり、昭和10年(1935)にはトーキーの技術もほぼ完成したという。第二次大戦の勃発とともに戦争賛美映画や国策映画の上映が強制され、劇映画などの発展は押さえられた。

 この頃、飛行機と映画製作に興味を持つ青年に、須賀川市中町出身で特撮の神様とまでいわれた円谷英二(1901-1970)がいた・・・(中略)

 戦後の娯楽は映画に独占されていたといっても 過言ではない。当地方でも前述の中央館や須賀川座に加え、昭和26年にピオニ映画劇場が、同33年に金美館(通称・須賀川東映)が開館した。各館とも土曜 日はオールナイトで、映画も二本立、三本立として一週間ごとに変わった。初寅毘沙門祭、須賀川秋祭りの時などはオールナイト、通し興業の大サービスと、各 館とも競い合っていた。(中略)

 しかし昭和40年代からのテレビの普及には勝てず、須賀川で最後まで頑張った中央館も平成10年3月、幕を引いた。

 


 

 

 現在は須賀川市に映画館が一つもなくなってしまったが、かつては一番多いときで4館も営業していたこともあった。この中に33年に開館した金美館という映画館が紹介されているが、私の記憶では一度だけ東映のマンガ映画を連れられて見に行った記憶がある。他の劇場とくらべ、かなり短期間のうちになくなってしまった映画館だった。

 文中にもあるように、最初に出来た映画館は中央館。ここは市内 の中心部に位置し、東宝映画と洋画を中心に上映していた。次には須賀川座という映画館が市内からやや南部の方に開館し、大映と松竹の映画がかかっていた。 昭和26年のピオニ映画劇場(ピオニは須賀川の花、牡丹の意)は東部方面にあり、東映や洋画を中心に上映された。これらの区分は必ずしも正確ではなく、例えば「大怪獣ガメラ」(昭和40年)はピオニ劇場で封切りになっている。各映画館の周りには飲食街が発展し、それらは映画館が閉館になってからも、わずかながら残っている。

 一番早く営業し、最後まで残ったのは中央館で、これは私の自宅から大変近かった上、東宝映画の上映館であったので、4歳の時、叔母に連れられてこの前を通ったとき、次週上映の「モスラ対ゴジラ」の看板を見て、特撮映画の世界に没入していったのである。

 文面では二つの祭りが取り上げられているが、こういうときにも映画館は特別企画を盛り込んだのだろう。

 

 この書籍によると、中央館の開館が大正8年、須賀川座の開館が 大正9年ということで、これは円谷英二が兵役を終えて帰郷する時期の直前ということになる。この当時、映画は国民の娯楽としてどんどん発展していたが、そ の波が英二の故郷、須賀川市にもやってきたまさにその時だったわけである。

 一度は家業に専念しようとした英二ではあるが、映画への夢をあきらめられず、再び家出同然で上京していったのであるが、そういった「映画への夢」は、オープンしたばかりの二つの映画館によって再燃したのではないか。

 須賀川へ戻った英二はそこで、開業したばかりの二つの映画館を発見する。当時、映画は伸び盛りの時期で、おそらくは活況を呈していたに違いない。懐かしい故郷で見た光景は、故郷の人々がかつて自分が製作に関わってい た映画作品に夢中になっている姿である。故郷の暖かい雰囲気に包まれて一度はこのまま須賀川で暮らそうと考えた英二ではあったが、おそらく、この二つの映 画館の誕生が、映画界復帰の原動力になったものと思われる。

 昭和32年頃、英二が映画雑誌に記した「日本の特殊技術」という文章の中に、「忍術映画が盛んだった大正12年以前と、震災を契機とする、その後の映画技術をくらべて回想すると、日本の映画技術は、それ以後昭和13年までの間約15年間は、内容の質的発展のめざましさにくらべて、技術的には低迷していた」という一文がある。大正12年とは英二が須賀川に帰郷していたまさにその時で、この時代の映画技術は忍者映画によって発達していたというのである。これは事実そうであったとも思われるが、自分が映画に関われないもどかしさがこの様な表現となったのかも知れない。

 いずれにしても、英二の帰郷を待っていたかのように開館した映画館が、英二映画界復帰の一因となっているかも知れないことは新しい発見だった。