徹底検証:大江健三郎「破壊者ウルトラマン」に関して

「破壊者ウルトラマン」について

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 ノーベル賞作家である大江健三郎氏は、昭和49年9月に岩波書店から出版された「状況へ」の中で、「破壊者ウルトラマン」と題する文章を発表、ウルトラマンや一連の特撮作品に対して批判的ととれる意見を述べている。

 後のノーベル賞作家は、特撮作品に対してどのように語ったのだろうか?また、どのような点を批判したのだろうか?

 

この作品「状況へ」は昭和49年発行、現在は絶版である。そこで大江健三郎ファンサイトに質問し、親切なファンの方に入手方法を教えてもらい、ネットの古本店から入手した。

届いた本は、新書サイズだと思っていた私を裏切る、今はない大きさ。そしてカバーを覆うのはハトロン紙(だったか?)。保存状態は良いものの、四面のふちがみな色褪せた経時劣化は、出版から30年近く過ぎた歴史を物語っていた。

大江氏の文章にはこうして絶版になっているものが多い。手に入れるのも一苦労である。

 

 大江健三郎氏の文章は、一つ一つが重い意味を持って連なっており、散文のようでいて微妙な連携を持っている。はなはだ難解な文章だが、重く複雑な意味を持ち、多くのファンがいるのも納得がいく。

 数多くの作品があるが、前述の通り絶版も多く、すべての作品がファンに愛されている、という感じではない。「破壊者ウルトラマン」は、私たちには興味深いけれど、大江ファンにはあまり重要なものではない様だ。

 

 文章のおおよその内容は・・・

 

1,怪獣映画は大人の想像力が子供の想像力にメッセージを送る作品である。戦後、子供たちの文化をこんなに占領したものはなかった。1970年代のマスメディアの最も大きい部分は、怪獣によって覆い尽くされている。

2,怪獣は現代の核兵器などの恐怖の具現化であり、実際にこういった恐怖は存在するものの、現実の世界には、それに立ち向かうウルトラマンやミラーマンは存在しない。30分番組の最後までヒーローの出てこないストーリーを考えてみるべきだろう。

3,人間は本来何かしら普通でないことを 期待する本能を持っており、それらについて、渡辺一夫、モンテーニュなどの文章を引き合いにしている。想像力の産物とはいえ、怪獣が登場して毎回地球を破 滅の危機に追いやる作品が子供の目に入っていく毎日であれば、次の世代には、怪獣映画の後遺症が現実化するだろう。

4,怪獣はなにがしか実在、あるいは実在 した生物を思わせる風貌を持つが、対するヒーローは銀色の、科学の権化のようなスタイルである。彼らは科学の威力を示唆するだけの存在であり、人間は常に 無力である。ヒーローは、たとえば「日本列島改造論」のような大規模な自然の破壊には目を向けず、ひたすら科学文明を謳歌する。怪獣映画にうつつを抜かす 子供たちが大人になっても、破壊された世界は変わらない。

5,怪獣はもちろんだが、ウルトラマンら も結局はその巨大な力で街を破壊している。そして、怪獣映画やテレビはその破壊された街の復興に関しては何ら言及しない。大規模な破壊の後、説明も何もな い場面転換でウルトラマン的超科学スターを聖化し続けているのである。それは、ヴェトナム戦争で「名誉ある撤退」をする兵士の画面にキッシンジャーやニク ソンの顔を大写しにする行為と重なり、子供たちの論理のリアリズムは、幼少期のうちにウルトラマンに破壊されたのである。

 

 一般的に有名なのは「5」の部分で、そこだけがクローズアップされるが、文体としては上記の様に内容が多いものである。大江氏は大文学者なので、意見するなどおこがましいが、とりあえず下記のようなことが私の感想である。

 

1について

 大江氏は、ウルトラマンなどのドラマを大人が何かしらのメッセージを持って世に問うた作品であると解釈している様だ。大人から子供に向けたメッセージを持って昔から存在しているというのである。

 しかし、現実には怪獣映画は円谷英二氏自身がそのジレンマに苦しんだことからわかるように、怪獣映画は、視聴率や興行成績という経済面で効果的であったから生み出された娯楽作品であって、世に メッセージを発する類のものではなかったはずである。メッセージ色が強い作品となれば真っ先に昭和29年の「ゴジラ」が思い浮かぶが、あれにしたところ で、ハッキリ言ってある大作が没になったところでのプロデューサーの穴埋め作戦であり、少なくとも発案の時点では、前年のアメリカ映画「原始怪獣現る」のパクリである。経済活動が主体である映画やテレビの世界では、大江氏のようにメッセージを残すことの方が重要であるというような表現芸術的側面はあまり存在しない。怪獣映画が海外でも受け、外貨獲得に貢献して次々と量産された事実がそれを物語っている。あれは紛れもない経済活動であり、製作を続けていた円谷英二もそれを好ましいとは感じていなかったのである。世の中のものがすべて何らかの意味づけがあるとしたらそれは間違いだ。大江氏は確かに大変な方だが、特撮に詳しい側からすれば、、大江氏の文章は何かしら無理にこじつけた、大衆受けを狙った(学生運動のもてはやされた、理屈が実行を凌駕する時代の)文章と感じる。

 「1970年代のマス・メディアの最も大きい部分が怪獣映画によってしめつくされていたという事実は、歴史からぬぐい去ることができぬろう。」

そうか?1970年代は怪獣の時代だっただろうか?しかも、マス・メディアの最も大きい部分が怪獣映画によって覆われていただろうか?これは不思議な話である。1970年代に小学、中学、高校、 大学と経験した自分には、マスメディアが怪獣だらけだったという印象はない(だったらうれしいという気もするが・・・)。そしてこう続く。

 「そしてほかならぬわれわれが、怪獣映画全盛に時代に生きた日本人として、この時代そのものの責任を分担せねばならぬように、怪獣映画についてもまたそれをみずから熱狂したものとしての責任をとらねばならぬはずである。」

 どひゃー!怪獣映画世代の人は責任をとらなくちゃならないのか!(それにしても何に責任とるの?)大江氏の話を真に受けるならば、私なぞかなり責任とってる方だと思うので、偉いということになるのかも知れない・・・ちょっと嬉しい。

 怪獣映画全盛の時代は厳密に言って70 年代とは違う。昭和41年(1966年)、東宝怪獣映画がテレビの世界にやってきた(と私は解釈した)「ウルトラQ」が始まり、怪獣ブームはやってきたの である。続く「ウルトラマン」は空前の視聴率を記録し、怪獣は子供たちの目に焼き付いた。しかし、怪獣ブームは去り、傑作「ウルトラセブン」も視聴率の上では健闘できなかった。1970年には御大円谷英二が他界し、70年代は別に時代が来たのである。まあ、強いていえば変身ブームかなあ?

 

2について・・・。

「この世界を覆っている巨大な核兵器の陰 への漠然たる恐怖を想像力の呼び水として怪獣映画が造られ見られている(中略)。まともな人間規模の力によってはしれに対抗することが絶対に不可能である 巨大核兵器。その存在への、日本人一般の無力感と、それは照合するに違いない。」

 日本の怪獣映画の歴史は、彼が言う核兵 器の恐怖が具現化した「ゴジラ」であることは間違いない。しかしそれに続く怪獣映画やテレビ番組が、ことごとく核兵器が元ネタであるということはない。この文章が世に出た昭和49年時点でも相当数の怪獣が映画やテレビに登場しているが、みんな核兵器や放射能が原因ではないはずだ。安直に怪獣=核という発想 は、あまりにも一般論過ぎて難しい文章を書く大江氏に似つかわしくないとも思える。

 

3について

 これは大江氏に限らず、多くの人によてこの様な意見が語られている。それらのおおよその趣旨は、今日の、世代を問わぬ人々の荒れ果てた有様は、怪獣映画の破壊の様な場面を少年時代から見続けてきた結果であるというものである。

 われわれはテレビが中継する自然、人為的を問わぬ何らかの災害を、いつも悲惨な光景として目を背けるばかりではなく、心の中に何かわずかばかりの期待感を持っている事がある。他人の災難を喜んでいるのは最悪だが、そういうものではなく、大きな建物の破壊シーンなどを見ているときにそれを感じることがある。

 円谷英二は大都市の破壊シーンなどを何度もリアルに表現したから、現実の場面でそれに近い映像を見るときに、我々は特撮映画を見る様な感覚を少しは持っているのかも知れない。

 しかし、それは円谷英二が子供に見せつけてやろうと思い、意図的に作り上げたものであるわけがない。技術的にぬきんでていたからそれをやったに過ぎない。人間に闘争本能がある様に、人々は格闘技や戦争映画をいつの時代も楽しみにしている。パニック映画も、結局は避けられないのである。円谷英二がやらなかったら、他の誰かがやっただろう。円谷英二製作のスペクタクル特撮シーンが、結局は人々に期待されて出来たものである感じる。

 しかも、円谷英二がそれを担当したのは ラッキーだったと言えると思う。円谷英二は、幼い頃祖母や周囲の家族によって暖かく育てられてきた。そういう愛情が、作品にも表れている様に感じられる。 英二は晩年に後進に対し、「汚いもの、残酷なものを映像にしてはいけない」と常々語っていたという。そういう英二作品だからこそ、いつまでも愛されているに違いない。もし英二がいなかったら、誰か別の技術者が何らかの特撮作品を作り上げていたに違いない。そしてそれは、今、私たちが見ているものよりははるかに残酷で、衝動的な好奇心のみを煽る映像に違いない。そういった事情を、大江氏はいささかも考慮してくれてはいない様である。

 

4について

 大江氏は、怪獣を実際の動物を巨大化したものと思っている様である。「怪獣たちは(中略)、ほとんど常に実在の動物(あるいは想像された前世紀の動物)を思わせるところを残しているのは、誰もが見知っていることであろう。」

 これは疑問の残る意見だが、これに対しヒーローは、

「かれらウルトラマン、ミラーマンたちこそは、ありとある科学の精とでもいうべき巨人たちとして想定されているのである。」との事である。

 要するに自然生物の延長線上にある怪獣を、科学によって作られたヒーローがやっつけるものと認識し、それが「日本列島改造論」などに代表される自然破壊を肯定するものと一致するのでは、との事である。

 怪獣は円谷英二関連にかかわらず、相対的には生物が巨大化したものが多いので、氏の言うことも事実かも知れない。ただ、怪獣の造形家、成田亨氏の主張では、単に自然生物が大きくなったものは作らないというポリシーがあったので、それは言えないのではないか?

 また、ヒーローを発達した科学の産物とみることの方がより矛盾を抱えている。ウルトラヒーロー(大江氏の話に登場するのはウルトラマンとミラーマンのみ)は、人類の高度に発達した科学が生み出したものではない。人間がとうてい考えの及ばない、神の様な存在といったらいいだろうか、それがウルトラマンではないか。

 大江氏がウルトラマンらを科学の産物と認識するのは、もっと古い世代のヒーロー、たとえば鉄腕アトムとか鉄人28号などを思い浮かべ、より優秀な特撮で描かれ、より子供に訴えるものの大きいウルトラマンをそれら前時代ヒーローと同一視しているのではないだろうか?だとすればとんだ思い違いである。

 

5について

 ウルトラマンは故意に街を破壊しているのではない。怪獣による被害を最小限に食い止めるために、必死の抵抗をしているのである。怪獣の出現場所を指定できるというものではなく、ウルトラマンは 常に怪獣の出現場所に出動しなければならない。それゆえ、街を破壊してしまうのは不可抗力であり、決して故意に行っているわけではない。それをヴェトナム 戦争にまで発展させる論理の展開は、それこそこじつけというものである。

 「もしリアリズムによる怪獣映画があり得るとすれば、それはまず科学の悪、科学のもたらした人間的悲惨をも担い込んでいるウルトラマンこそを描き出さずにはおかなかっただろう。」・・とある。

 大江氏の文章は「破壊者ウルトラマン」とあり、このタイトルを見てすぐに想像するのはハヤタ隊員が変身する初代ウルトラマンであるが、大江氏にとっての「ウルトラマン」は、ウルトラマンエースの事であるらしい。

 多くの人にとって、初代ウルトラマンは神格化された存在である。さらにはそのすぐ後の「ウルトラセブン」には、悩めるヒーローが存在する。

 「ウルトラセブン」こそが、大江氏の待ち望んでいた「科学の悪、科学のもたらした人間的悲惨を担い込んでいるウルトラマン」ではなかっただろうか?ぜひ大江氏には、「ウルトラセブン」を見て欲しかった。

 

 また、この文章に登場する、大江氏によって紹介される怪獣?のミナサマも怪しい。

「怪獣映画は1970年代のわれわれ自身 にとっていかなるメッセージをあらわしているだろうか。深くわれわれの内部にひそんだ無意識の暗号を、あるいはわれわれの個人を超えたこの社会全体の圧力 の情報を?アリブンタは、ドラゴリーは、カメレキングは、ガランは、泡怪人カニバブラーは、鳥人ギルガラス、そしてすでに古典となっているゴジラ、ラド ン、アンギラスは・・・。」

 前者4匹に関しては、これは「ウルトラマンエース」に登場する「超獣」である(怪獣ではない)。それぞれそんなにメジャーな怪物とは言い難く、またその後二匹に至っては「仮面ライダー」に登場する等身大の怪人である。それぞれ代表的な怪物ではない。大江先生は特別愛着があったのだろうか(そんなわけない)?

 これらの超獣、怪人に共通するのは、作品が発表された前年、前々年あたりのテレビで放送されたものばかりだということで、多分、怪獣大図鑑か子供雑誌のようなものをご覧になったのだろう。最後の3頭に関してはご自分の記憶という気もする。大作家にいきなりピックアップされたアリブンタやドラゴリーは、まるで怪獣の代表の様に扱われ、さぞや喜んでいることだろう。

 

 円谷特撮における派手な都市破壊シーンや、爆破シーンなどが全く無害というわけではない。9.11のテロにおいても、あれをテレビで見た多くの人々が、「映画の様だった。」と語っている。しかしそれは、3の項で書いたとおり、大衆が待ち望んでいるものを、円谷英二が第一人者だから撮影したものであり、円谷特撮が大衆を扇動したわけではない。

 大江氏の文章を読んでいると、大人は意 図して子供を特撮によって洗脳し、悪影響を与えている様にも感じるが、大衆の求めるものが、常に人畜無害なものではないということ、さらには無理に押さえ つければ、いずれば何らかの形で爆発してしまうということを考えて欲しいと思う。

 

 しかし、大江氏自身がもはや、この様な文章を書いたことを忘れている様な・・・気がする。