大作戦争映画の名監督 松林監督にインタビュー(1998年)

大作戦争映画の名監督

松林監督にインタビュー (1998年)

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円谷英二氏の映画人生の中では、一般的に知られる怪獣・SF映画の他に、戦前から多くの作品に特殊技術を提供した戦争映画という分野がある。昭和29年の「ゴジラ」より10年以上前から関わっているわけであり、劇場用映画だけで考えると、怪獣物より本数も多い。

これら戦争映画の中で代表作は?と言えば、それぞれが描いた時代も違い(太平洋戦争を始め日露戦争、第一次大戦、阿片戦争もあるぞ。)、簡単に結論を出すことは難しいが、、太平洋戦争に限って言えば戦時中はやはり「ハワイ・マレー沖海戦」、戦後では「ハワイ・ミッドウェイ大海戦・太平洋の嵐」ではないかと思われる。前者は日本の国民がすべて見たといわれた映画であり、後者はその焼き直しともいえる真珠湾攻撃の、カラー版でありより洗練された特撮を堪能でき、内容の深さもピカイチである。アメリカ映画、「ミッドウェイ」では何とこの映画の特撮部分が使われている。

「ハワイ・マレー」の監督、山本嘉次郎氏はもうずっと前に亡くなったが、「太平洋の嵐」の松林宗恵(まつばやししゅうえい)監督は英二氏より20歳若く、ご健在である。そこで、松林監督に連絡を取ってお会いしようと思ったのである。

松林監督と円谷氏が組んだ作品は「太平洋の嵐」ばかりでなく、「潜水艦イ-57未だ降伏せず」、「太平洋の翼」等があるが、何と第三次世界大戦を描いた「世界大戦争」も代表作と言えるだろう。特に、円谷氏が 「誇って良い作品」として、この世界大戦争を挙げている。円谷氏以外のことでも、インドとパキスタンが核実験を行っている現在、この監督に是非お話はうかがいたい。連絡先を調べ、お会いすることにした。

 

ご自宅にお電話してみると、留守番電話で、「今ちょっと出ております。ピー音の後にメッセージをお願いします、合掌。」ときてビックリ。さすがは僧侶の出身ということで、留守番電話にまで「合掌」がついてくる。これは簡単にはいかない。

そこで、手紙を書いてお会いしたい旨を伝え、なお、その後電話をしてみた。電話に出た松林監督は「円谷さんの事ね。」と、申し出を快く承諾してくれて、私は6月13日、指定された場所へと向かった。

待合い場所は渋谷の東急文化会館の7階のゴールデンホールにある喫茶店という事だったが、私の年齢の倍以上の方にわざわざご足労願うのも悪いと思って、自宅へおうかがいするとも言ったのだが、その日はちょうど何かのパーティーがあって、渋谷に出てくる用事があるそうだ。

東急文化会館の7階へエレベーターで向かうと、7階でドアが開くといきなりウェディング・ドレスの花嫁が登場してきた!なんとここは結婚式場だったのだ。妙な所で落ち合うものだと思ったが、言われた喫茶店は確かに存在し、そこで待っていると、指定された午後3時ピッタリに松林監督は登場した。

松林監督は前に勝誓寺からもらった(松林監督も浄土真宗の出身)[midosan]という冊子で見た通りの、きれいに切りそろえられたヒゲに、スーツをビシッと着込んで登場した。その姿は「颯爽としている」 という表現がピッタリで、とても実際の年齢を感じさせないお姿だった。これは後述するが、円谷氏にも注意を促すほどの健康に注意される方であり、規則正しい生活を心がけているからこそこの様にご健康である様だ。

結婚式で騒然とした喫茶店の中、松林監督の配慮で奥の方へ席を移動し、インタビューはスタートした。

 

松林監督、円谷氏との出会い

松林監督は1920年7月7日、一応、一般に言われているところの円谷英二氏の誕生日と同じ日に島根県で生まれた。竜谷大学を卒業した後日本大学へまた入学、在学中の42年(昭和17年)秋に東宝に試験に合格し入社。志望の動機は、「映画が好きだったから。」だそうである。この様に、在学中に東宝の試験に合格するなどと言うことは当時でも非常に珍しかったそ うである。

時まさに戦時下で日本中が戦争のまっただ中にいたわけだが、入社したこの頃には東宝の「ハワイ・マレー沖海戦」が国民の間で大変な人気となり、大きな話題となっていた時期でもあった。

その頃について松林氏は「この頃、初めて円谷監督が特撮で注目され、大いにクローズアップされた。円谷氏は一気に有名になったが、ハワイ・マレー沖海戦は日本中の人が見た作品である。」と絶賛した。戦時中の作品として最大のヒット作となった「ハワイ・マレー沖海戦」であるが、当時入社した松林監督にとってもそれは衝撃的なことであったらしい。この作品によって「特撮」が大きくクローズアップされたわけだが、あくまでそれは映画界の中の話題であり、映画を見た多くの人にとって、その特撮が素晴らしいという事よりも、日本の戦果がいかに素晴らしいか、という事の表現が優れていた、という点でこの作品は重要だったのである。特撮が素晴らしい、と一般の人が評価するに至るには、この12年後の「ゴジラ」を待たなければならなかったのだ。

松林監督は今で言うAD(アシスタント・ディレク ター)となり、最初に付いた作品は「愛の世界」という題名だったそうだが、これには円谷氏の活躍する特撮場面はなく、昭和18年の「兵六夢物語」という鹿児島の民話を題材にした作品でまた円谷氏の腕を見たそうである。この中では、大きな怪物とエノケン扮する主人公の兵六が戦う場面があるが、ここで円谷氏の特撮が発揮され、松林監督言うところの「ゴジラのような怪物」と人間サイズの主人公の対比が見事に決まっていたそうだ。この様な映画で活躍する円谷氏については、「よく面倒を見てくれ、神様のような人だった」という。今まで他の方にもうかがっていたように、円谷氏の技術や後進に対する態度は、戦時中も同様 だった様だ。

 

ところで、ここで私は「雷撃隊出動」に見られるような映画人の、戦争に対する姿勢について質問してみた。戦時下ではいわゆる「国策映画」と言われるような、戦争に協力的な姿勢を軍によって強制されていたような報道がなされているが、実際のところはどうであったのかという事である。

これについて、松林監督は、「当時は軍の要請で製作を依頼されたような作品については、みんな一生懸命作った。こういった作品を制作できるのは喜びであり、私も、円谷さんも燃えるような思いで作った。円谷さんだって、誇りに思って作っていたはずだ。」という答えが返ってきた。

私はこういう答えを期待していたというわけではないが、おそらくはそうではないかという気はしていた。戦時下の中で、さも自分は実は戦争に反対していたという様な論調の人物はいるが、大国との闘いという緊迫した状況の中で、そんな余裕のある話が出来たとすればそれはウソだと思うし、そんなかっこいい話が現実にあるわけがない。この様な時代には、どんな若者も、情熱をもって、今自分が出来ることに打ち込んでいたというのが正解であると思える。松林氏もこの後戦地へ赴いたのであるし、前にインタビューした鷺巣 富雄氏も戦地へ行っているのだ。この様な時代に、個人個人の思想云々を言える物ではない。それは、結果として作品によって戦地に赴いた若者がいるはずだ、といった戦後の悔恨とは別物であり、戦時下の特殊な状況の中では極めて普通の感情だった様に思われる。

後に、日本映画界で最も「世界の平和」を訴える作品を監督した松林監督に、この様な「歴史上の真実」をうかがえた私は幸福なのかも知れないと思った。

 

東宝争議と新東宝

さて、終戦を迎えると、東宝ではストライキが始まり、「来なかったのは軍艦だけ」という言葉を残した有名な東宝争議へと突入する。時代の流れの中でストライキが起こり、長い共産党支配の状態が続くが、それにシビレを切らした俳優十人を中心とするメンバーが組合に反旗を翻して脱退、新東宝が形成されるのである。

この時について、松林監督は「私は真っ先に新東宝へ移った。」という。これについては、「戦時中の軍のミリタリズムにも辟易(へきえき)していたが、戦後労働組合の活動も全く同じだった。」との事だった。

実は、労働組合が各地で結成されることを望んだのは占領軍であった。軍国主義時代の日本で財閥、官僚、軍閥が日本全体を軍国主義へと進めていったのは、大衆が中心となった民主主義がなかったからだと思われ、労働組合が民主主義を推進していくと考えられたからだが、結果は共産主義の台頭を招き、特に東宝では自らが推進した労働組合を占領軍が鎮圧するという皮肉な結果になったのである。この時期、「大好きな映画が作れない。」という点では、円谷氏も松林監督も同じ考えであったに違いない。

先日の円谷あきら氏のお話では、「ストに業を煮やしてスト破りまでやった」円谷氏が新東宝へ行かなかったのは、東宝に恩人である森岩雄氏がいたからだったとの事だが、それは松林氏も全く同じ意見で、他に「円谷さんはすでに戦時中に特撮の中心人物であり、重役ともいえる存在であったから、ストに参加するような状況ではなかった。」という事だ。この辺の事情が、色々な人に聞いてわかってきた気がする。

この時、新東宝へ移った映画人は500人にのぼったという。すさまじい「民族大移動」だが、当初の新東宝は独立した存在というわけではなく、映画の配給は東宝に頼った映画製作集団といった趣のものであった。円谷氏もまた、最初期の新東宝の作品では特殊撮影で協力していたりするので、東宝との境目はかなり微妙だったようである。

一流のスタッフがごっそりと移動した新東宝は、当時の映画人からは「あこがれの撮影所」と呼ばれた。優秀なスタッフに恵まれた撮影所は当然ヒット作を飛ばし、当時の社長で、「配給の神様」と呼ばれた佐生正三郎を喜ばせ、昭和24年には東宝から独立して自主配給を宣言するまでに至った。

佐生正三郎の方針は、金と時間をかけスターが登場する映画を作れば、いずれは成功するであろうと言うものであったが、元々直営館などなく、配給先に弱かった新東宝は2年ほどで経営が悪化し、ここで後楽園資本が登場、後楽園社長の田辺宗衛が新東宝社長となった。

田辺社長は東宝と新東宝を一本化する意向であったという。ところが、進駐軍が帰国し日本の状況が変わると、待ってましたとばかり戦時中のような戦争映画が製作されるようになった。この中で先陣を切ったのは新東宝であり、「戦艦大和」、「叛乱」が大ヒットして経営が安定すると、当初の目標を忘れて自主配給に力を入れるようになった。ちなみに、この時期の新東宝特撮は円谷氏の弟子、上村貞夫氏が担当した。

 

人間魚雷回天

この様な時期、松林監督は「東京のえくぼ」で初監督をつとめ、2年後の昭和30年、戦争映画「人間魚雷回天」を監督する。

「人間魚雷回天」は、その名の通り自らが魚雷となって敵艦に体当たりするという悲壮な兵器である。戦争である以上、死は覚悟しなければならないが、この「兵器」に乗り込み、上からハッチが閉められた時点でもう中の乗組員は死んでいるのである。「海の特攻隊」なのだが、不思議と飛行機で相手に突入する神風特攻隊は何度も映画化されているが、この人間魚雷に関しては、この作品でしか映画には登場しない。飛行機のような派手さがない点や、題材として難しいという事もあるが、大きな要因となっているのは、この昭和30年に製作された「人間魚雷回天」があまりにも素晴らしく、後の追従を許さない事にあると思われる。

昭和30年、松林監督による初の戦争映画「人間魚雷回天」は、冒頭で今も南海の海中に沈む回天の残骸が映し出され、そこには「ワレマダ生存セリ」という言葉が切り刻まれている。この後、回天の練習風景が続くが、この様な練習の中でも死んでいったりする者もいる。悲壮な舞台だが、皆学徒出陣らしく、自分の大学を思い浮かべている。

やがて出撃の時が来て、勇壮、悲壮な行進曲の中、出陣して行くが、敵艦を発見し、壮絶な死を遂げる。3艦出撃したがひとつは故障のため海中で停止し、そこに冒頭のような文字を切り付けてこの映画は終わる。

松林監督が主張するところの「無常観」が早くもこの作品には出ていて、この作品を「戦後の戦争映画の最高傑作」という人も多い。また、特効する兵士を愛する恋人も現れ、しばしの休息を過ごすが、背景が突然江ノ島になったりと、やや幻想的な場面も登場し、一般の戦争映画とは一線を画している感がある。

この映画は敵艦へ突っ込む回天が、見事本懐を遂げる場面がクライマックスとなっているが、これについて、「円谷英二氏の弟子、上村貞夫君は、特撮の腕は円谷さんほどではないが、良くやってくれた。」との事。この映画では回天の練習風景、母艦の潜水艦が潜行する場面、敵艦への体当たりなどが特撮場面となっているが、潜水艦の場面はともかく、クライマックスの敵艦体当たりに関しては、回天の一撃で大きな戦艦が木っ端みじんに吹き飛ぶシーンとなっており、いくらなんでもこれは爆発が強烈過ぎる。こういうリアリティーの点で円谷特撮には及ばないものを見たが、「円谷さんほどではないが―――。」という松林監督の言葉にそれを感じることが出来る。

しかし、映画の終わった後に残る空虚さこそ、松林監督ならではの味わいであり、「戦争映画の最高傑作」という言葉が決して言い過ぎではない事がわかる。これについて松林監督は、「最高傑作と言われると抵抗があるが、この頃は真実を描くことが重要だった。」と語った。

この時期、新東宝は他社よりも積極的に戦争映画を発表したが、他にも「憲兵」、「日本敗れず」、「潜水艦ろ号未だ浮上せず」など、なかなか見せる作品が多い。

 

新東宝との別れ

経営者が代わって安定していたかに見えた新東宝だが、 次第にジリ貧となり、再び赤字に転落した。この辺について松林監督は、「東宝傘下の頃は良かったのだが、だんだん他の資本が入ってきた。」との事だった。 この赤字を救うため、当時辣腕興行者として名を成していた大蔵貢が社長へと就任する。

大蔵貢は、日本映画史を語る上では必ず「悪役」として 登場する人物である。「予算をかけて時間をかけ、スターを出せば映画はヒットする。」という信念を持っていた先々代の佐生正三郎とは180度違う映画観を 持ち、映画の予算を切りつめ、専属の安い俳優を使い、撮り直しなどもってのほか、という方針で映画作りが行われていった。また、「多くの大衆に基礎をおく 作品」という事で、後に言われるエログロという言葉通り、アクションやセックスが売り物の映画が粗製濫造されていった。

この様な撮影所の雰囲気の変化に耐えられなくなった松林監督は、東宝の藤本真澄氏の要請もあり、東宝へ戻ろうと考えていた。昭和31年の津島恵子、木村功出演の「天国はどこだ」という作品では、クライマックスでアクションシーンを入れろという、いかにも大蔵貢らしい指令が出た。「そんなつもりでこの映画を撮ったのではない。」と抗議した松林監督だが受け入れ られない。

松林監督は渋々承諾したが、勿論そんな場面を撮る気はなかった。そこで、オールラッシュの時、自分の撮った映像を見せ、「アクションシーンがないじゃないか。」と言われても、「いや、別に撮ってある。」と言い張ったのである。

やがて、映画が完成し、そんなアクションシーンなどない映像を見て、上層部は「何だ、言われたとおりになってないじゃないか!」と文句を言ったが、松林監督は「そんな約束してましたっけ。」と、とぼけたという。この様なわけで、松林監督は新東宝を離れていった。

 

「潜水艦イ-57降伏せず」

松林監督の東宝復帰第一作は「潜水艦イ-57降伏せ ず」である。この作品は、沖縄付近で戦っていたイ-57潜水艦が、有利に和平を進めるため、某国政治家を大西洋まで輸送するという、後の「フランケンシュ タイン対地底怪獣」(昭和40年)のモチーフとなったようなストーリーを持つ作品である。

この作品の特技監督は勿論英二氏。久々に会った二人はこの異色の戦争物を製作していくが、円谷氏はこのモノクロ映画で、合成の場面にはカラーフィルムを使用して撮影したという。これは、カラーフィルムをモノクロにしたときの特有の明るさを利用したのだが、今では考えられないような贅沢な「逆転の発想」だった。

いわゆる怪獣映画のように本編部分を松林監督、特撮部分を円谷監督が撮影していったのだが、編集の段階で、松林監督は円谷氏が撮影した特撮部分を3カットほど削除したそうである。「映画の構成の上ではやむを得なかった。」という松林監督だったが、円谷氏はこれには不愉快だったという。この事で、二人は仲が悪いのでは―――と周囲に勘ぐられたそうである。確かに、私が過去に見た文献の中にも「松林監督は円谷英二氏の特技監督という肩書きを嫌った。」といった書き方もされていたが、この日に初めてお会いした松林監督からは、円谷氏に対する尊敬の念が溢れんばかりであり、とてもそんな風には感じられなかった。これは、松林監督が言うように、周囲の邪推によるものだろう。

また、この映画では助監督に、後のクレイジーキャッツにシリーズなどで活躍する古澤憲吾氏がついたが、この、古澤氏は、東宝や円谷プロで活躍する晩年の英二氏にとってはもっとも「ソリの合わない」人物であったらしい。この話を松林氏に向けると、すぐに手をパタパタと振って、「いや-、合わない合わない。」としたぐらいだった。

この様に円谷氏を毛嫌いした理由について松林監督は、「特撮監督として周囲に認められていたので、面白くなかったんじゃないかな。」との事。古澤監督の作品は、円谷氏と組んだ作品も含め傑作が多く、優秀な監督という印象があるのだが、人間とは不思議なものである。古澤監督も昨年亡くなり、この辺のことについては本人に聞くすべもない。

 

「太平洋の嵐」

松林監督が担当した昭和35年公開の「ハワイ・ミッドウェイ大海戦・太平洋の嵐」は、数多い戦後の戦争映画の中でもおそらくはNO、1と言える作品であり、内容、予算、そして何より作品の出来映えの点でもこれを越える作品は未だに登場していないように思える。

映画は開戦前の時期から始まり、真珠湾攻撃、日本の快進撃に続き、ミッドウェイ海戦での敗北という流れになっており、時代の変遷から言えば昭和28年の「太平洋の鷲」(本多猪四郎監督)とほぼ同じである。但し、「太平洋の鷲」が山本五十六長官を中心として、ブーゲンビルで撃墜死されるまでを戦前のフィルムや米軍提供の実写フィルムなどでつなぎ合わせたような雑な構成なのに対し、「太平洋の嵐」は夏木陽介らが扮する現場のパイロットが中心となり、現場から伝わる臨場感のようなものが随所に感じられるドキュメンタリー・タッチになっており、演出の面で傑出している。また特撮も最高で、戦前の「ハワイ・マレー沖海戦」とほぼ同じ様なアングルで撮られる真珠湾攻撃を今度はカラー版でよりリアルに仕上げ、その特撮部分はこの10年以上後のアメリカ映画「ミッドウェイ」にも使用されたほどである。

この映画の中で話題になったのは、海中に沈んでいく軍艦の中で三船俊郎と田崎潤扮する上官がもう死んでいるにも関わらず「戦争が間違った方向に進んでいるような気がする。」と語り合っている場面である。この場面は、僧侶出身の松林監督ならではの演出と評判になっている。

 

さて、この作品が企画され、松林監督が監督として選ばれたとき、松林監督は、前の作品である「潜水艦イ号降伏せず」で、円谷氏が自分を嫌っているのではないかと心配し、「やっても良いが、円谷さんは私でいいと言うだろうか。」と一応お伺いを立てたという。勿論円谷氏もOKとなって、映画製作は始まった。

この映画の企画は、戦後の本格的戦争映画を、という事で、今までにない巨額の予算が用意され、東宝に特撮用の大型プールが製作された。後に幾多の特撮名場面を生み出すプールはこの時作られたのだが、撮影が始まるときは、円谷氏にぜひ見せてくれと頼んだという。

円谷氏に呼ばれた松林監督は、「プールに行ってみると、一面に太平洋艦隊が再現されていてビックリした。また、水面は水の様でいてそうではない。よく見ると、寒天だったよ。」との事だった。有名な寒天の海は、この大きなプールでもフル活用だったそうだが、「農大の学生がアルバイトでたくさん来ていて、船にそれぞれつながれたロープをADの号令で一斉に引っ張る。そうすると艦隊が一斉に太平洋を進んでいるように見えるんだ。カメラは横から前から後ろからと、様々なアングルから撮っていた。」という迫力ある撮影がされていたようだ。

それでも、この様なミニチュアが実際にちゃんと映っているのかどうかはこの時点では不安だったという。ところが「オールラッシュで見ると、きれいに決まっていて驚いたものだ。」という事だ。さらにこの映画では団伊久磨が音楽を担当しているが、「音楽を入れたとき、円谷特撮の力を思い知らされた。」そうだ。カメラアングルについては長年の経験を積んでいた円谷氏らしいエピソードであり、こういうカメラアングルの熟達したキャリアがあるからこそ特撮という世界で開花したのだと思う。

 

ところで、こういった映画では人間がドラマをする場面を本編といい、特撮班と別々に撮影して後で編集するのだが、円谷氏には人間ドラマの面、すなわち本編を撮影したいという希望もあったという。飛行場にある戦闘機に乗ったまま俳優が話をする場面で、「ここの部分は私に撮らせてくれ。」という申し出を受けて松林氏は部分的に撮影を円谷氏にゆだねる事になった。

結果は―――。あまり芳しいものではなかったらしい。 松林監督に言わせれば、「人間が生きていない。」という事だった。「特撮の神様」は、通常の撮影はあまり得意ではなかったという事か。円谷氏は全く人間ドラマを演出しなかったわけではなく、戦前に「小唄礫・鳥越お市」という人気芸者・市丸主演の映画で監督も務めているのだが、監督作品はそれ一作で後は行っていない。今で言うアイドル映画のような作品を監督させたのは周囲の配慮もあったのだろうが、やはり円谷氏は特撮の人だったのである。

 

この「太平洋の嵐」の中で、最も話題になったのはクライマックスで、、海中に沈んで、死んでいるはずの艦長らが語り合うシーンがあるが、ここは僧侶出身の松林監督らしい演出と評判になった。この映画が封切りされたとき、「特に宗教関係の人たちからこの作品についての賛辞をもらった。」との事だが、これは意表を突く演出であり、この前も、後も、こういった表現をする一がいない点を考えると、やはりこればかりは松林監督にしか出来ない表現であり、松林監督ならではの特色であるともいえる。

これについて松林監督が表現したのは「無常感」であり、松林監督に言わせれば、これこそが「日本の独特の美学」であり、「日本の文化の基礎」という事である。「この世のあらゆるものは生滅し、永遠に変わらないものはない」という無常感こそが最高である、というのは、松林監督だからこそ語れる言葉であるようにも感じられる。

 

「世界大戦争」

 翌昭和36年、松林監督はまた円谷氏と組んで今度は近未来SFというか、ジャンル分けするのはちょっと難しい、いや、そういう既成の枠にははまらない作品、「世界大戦争」を監督する。

円谷監督は得意とするジャンルを大ざっぱに分けてゴジラなどのSF映画と戦争映画の二つに大別されると思うが、第三次世界大戦を描いた本作品こそ、その二つの得意ジャンルが融合した分野であるともいえるし、 これこそが磨きに磨いた技術の到達すべき目標点であったようにも思える。英二氏が「誇って良い作品」といい、伝え聞く範囲では本人が最も気に入っている作品である。また、松林監督も「代表作である。」と明言した。そういう意味では、「無常感」を最上のものと考え、今をも、それを止めることが人類の最大の課題ともいえる「人類の最後」の瞬間を映像化しようとした松林監督と、様々な遍歴を経て特撮技術を磨き、その特撮が最後に表現しなければならない到達点ともいえる、人類がまだ見ぬ「世界の最後」を特撮で表現しようとした円谷監督の、技術、情熱、持てる力をすべて傾けた映像に賭けた人生のラストシーン、二人の結晶と表現できる作品と言えるかも知れない。

この映画は、かなり難しいテーマであるにも関わらず、日本の一般の庶民生活から始まっている。庶民の慎ましい生活が、ある日突然一般の人々には何ら関係のない一部の人間によって破滅へと追い込まれてしまう悲劇を強調して描かれている様にも感じられる演出だが、核兵器のスイッチを押す様な役割の配役は画面には登場せず、完全な「悪役」としての存在は映画の中にはない。この様な点も、核戦争を人類共通の悲劇としてとらえる松林監督の演出がある様にも感じられ、松林監督作品に共通して表現される「無常感」にもなっていると思える。この様な表現について松林監督は、「廃墟の後に残る無常感―――、戦争映画であっても、ゴジラが暴れていても、無の中に有が生まれ、また無に帰る点は同じだ。」と語っている。また、この作品のラストには、「この映画は架空の物語である。しかし、明日起こる現実かも知れない。」といったメッセージも託されている。

この作品の中では、随所に局地戦などでいくつも特撮場面があるが、クライマックスである核戦争による全世界の破滅が、最大の見せ場となっている。ロンドン、ニューヨーク、パリ、モスクワといった世界の大都市が、核兵器によって一瞬にして破壊される様が円谷特撮によって描かれるが、怪獣映画などに見られる精巧なミニチュアの破壊というよりも、核兵器の強力な破壊力によって閃光が放たれたと思うと一瞬にして都市が壊滅する様子を、よりリアルに表現しようという特撮陣の技術も感じられる。この「世界大戦争」を見たことのない人でも、一部の特撮場面が「ウルトラセブン」最終回に転用されているので、この作品による、「世界の破壊」の一部は見ている人が多いのではない かと思える。

世界が破滅へと向かうという深刻なテーマだが、ともすれば単調になっていしまう点を、様々なエピソードが最終的には一つにまとまり、見事な構成となっているのは監督の力であり、この映画に賭けた技術であるようにも思える。

さて、この作品は松林監督によると、「実際には森岩雄氏が作った作品である。」との事だった。表現の方法、作品のメッセージ性を考えれば、昭和29年の第一作「ゴジラ」に最も近いものといえるかも知れない。

この作品の使者が終わった時、円谷英二氏は松林監督のところへ歩み寄り、「私の夢が実現した。ありがとう!」と手を握って感謝の辞を述べたという。円谷監督は、この作品に表現されているような平和への祈りを 願っていたのだろうか?これについて、松林監督は「円谷監督は高度なものを持っていた。円谷監督の持つ人間観、人生感は同じだった。」との事である。

なお、この作品はミラノで行われた映画祭に日本代表として出品し、松林監督が出演した女優らとともにミラノまで出かけたそうである。松林監督は円谷氏にもぜひ同行してくれと言ったがそれは事情があって実現し なかったそうである。この作品はミラノで各国の大使にも見せられたが、松林監督はこの旅行でのおみやげはまず最初に円谷氏の事を考えていたとの事だ。この作品は、その日本ならではというメッセージとともに、松林監督、円谷監督両者の主張が共通し、お互いの信頼が強まった作品でもあった様だ。「一緒にいい仕事をさせてもらったという感激の気持ちでいっぱいだ。」と語る松林監督であった。

 

「太平洋の翼」

2年後の昭和38年、松林監督が挑んだ作品は「太平洋の翼」である。戦後の東宝には類似したタイトルの映画が3つあり、「太平洋の鷲」、「太平洋の嵐」、「太平洋の翼」と来るが、実質的な関連はこれらの作品はなく、本作は今までが開戦からの戦争の対局を表現していたのに対し、対戦末期、登場した新型戦闘機、紫電改の活躍を描いたものである。対戦末期、優秀な腕を見込まれた兵士達が太平洋上の各地から集められ、ここに新しい航空隊が誕生し、初戦では敵を打ちのめすものの、次第に連合軍の物量作戦に追いつめられ、戦死していくというもの。

紫電改による空中戦は、やはり長年この様な場面を研究していた円谷氏だけに見事なものだが、空中戦をメインとした映画は遂にこれが最後となってしまった。紫電改が戦局不利な、制空権をすでに奪われた戦場で、挽回のため必死の働きをする空中戦は、P-38ライトニング、P-51マスタング、コルセア、そしてB-29といった米軍機も登場して大変な迫力のある映像となっている。

また、飛行機ばかりではなく、先日の円谷あきら氏の話では、円谷監督は戦争映画をよりリアルの描くため、作品に登場する軍艦を次第に大きいものにしていったとのことだが、本作で登場する戦艦大和は実際の15分の1という大きさで、本当の造船所に発注し、山中湖に輸送して撮影したという。この巨大な大和をヘリコプターから撮影した場面は、本当に大和が進軍していくのをカラー映像でとらえたのではないかと思えるほど素晴らしく、「飛行機からのキャメラ・アングル」を日本で初めて実現し、未だそれを越える人物がいない円谷監督の白眉とも言える映像である。

この作品では、最前線から呼び寄せられる加山雄三、夏木裕介、佐藤弁の三人が主役級の扱いを受けているが、実際に一番活躍するのは芋を盗んだり、戦艦大和の艦長の近くに飛行機から靴を落としたり、大和の最後の出陣を見送りに行く丹下兵曹役の渥美清である。松林監督によると、この映画に出演している渥美清に関しては、「私はこの俳優が、もっと素晴らしい俳優、強いて挙げればフランキー・堺のような名優になれると思って起用したのだが、上層部からは、東宝カラーに合わない、という理由で結局取り上げられなかった。後に彼は、松竹で寅さんシリーズで全国的に有名になるのだが、それが、彼にとって幸せだったかどうかはわからない。」との事だった。松林監督は、渥美清を相当買っていて、この映画でも充分な活躍の場を与えられているが、後の「男はつらいよ」の様な、人情喜劇だけに収まるにはもったいないほどの俳優と考えていたようだ。興味深いエピソードだが、今はそれを本人に聞くすべもなくなってしまったのは残念としか言いようがない。

実際、渥美清は「男はつらいよ」の前にはテレビなどでも活躍しており、芸の幅は広かった様だが、あの大ヒットでほぼ「寅さん」一本という感じにもなり、イメージも固定されていった。我々は映像の中にしかその俳優の姿を見るしかすべはないが、その背景にはこの様な事もあるのである。

 

その後の松林監督

こういった円谷監督全盛期の作品の中で、量産されていた怪獣映画よりはむしろ予算もかけ、特撮も素晴らしい出来映えだった様に思える戦争映画の監督を務め、この分野に関しては円谷英二氏とコンビを組んで大作を監督した松林氏なのだが、この後は東宝映画の十八番とも言えるこの分野の作品をしばらく手がけていない。これだけの大作を複数監督したのだからこれはおかしいと思い、この辺の事情をうかがってみた。

松林監督はこれに関しては話したくない感じだったが、なんとか聞かせて欲しいとお願いしたところ、やや言い難そうに話してくれた。

松林監督によると、「私は戦争映画を作っていきながら、スクリーンを見ていると、たくさん人が死んでいる。私がどんなに純粋な気持ちで映画を作っても、所詮は興行になってしまう。これでは、亡くなった人間を見せ物にしている様でつらい。この様なわけで、自責の念を感じて降りた。」との事だった。

単純に考えれば、ヒットしているのだから、また同様の作品を作れば良いではないかとも感じるのだが、戦争に関わった人物の感情は、そんな簡単に簡単に割り切れるものではない様だ。これより前、新東宝では「明治天皇と日露大戦争」という映画が大ヒットし、前出の新東宝社長・大蔵貢氏は主演の嵐寛寿郎に、劇場で明治天皇の衣装で挨拶をしろといったが、嵐寛寿郎は、「天皇陛下をサンドイッチマンにするつもりか」と言って断ったという。そんなエピソードを思い起こさせるが、松林監督もかつては戦地に赴いた方であるから、こういう思いは痛切に感じたのではないかと思う。戦争を体験した人には、我々のような世代には計り知れない複雑な感情があるようにも感じた。ともかくもこれで松林監督は戦争映画の監督を降り、「キスカ」に始まる以後の作品は丸山誠治監督が務めることとなり、円谷氏との映画製作は終了した。

松林監督が東宝の戦争映画という分野で復活するのは、何と1980年代に入ってからだった。作品は「連合艦隊」。タイトル通り連合艦隊の活躍、歴史、その最後を描くが、日本の戦争をその大河的な流れとしてとらえる手法は松林監督自家薬籠中のものがあり、やはりこういう作品は松林監督でないと―――とも感じる。特撮についても、円谷監督が解決できなかった「波の特撮」を弟子である中野照慶が完成させており、彼にとっても代表作とも言えるものでもある。

 

円谷監督の思い出

映画界入りしたときから円谷氏の戦争映画などにおける特撮技術を知り、20歳年上の先輩として尊敬の目で見ていた松林監督だが、円谷氏は松林監督を「和尚さん」と呼び、お互いにその映画技術を認め合っていた様だ。

英二氏にとっては、どのような場面でも特撮によって描くことが映画人生の指名であり、宿命でもあった。時代の変遷の中で、怪獣映画の様な作品に大きくスポットを当てられる結果となったが、その生涯を通じて単一のテーマとして長く追求し、また、逆の言い方をすれば「つきまとわれた」のが戦争映画であった。同一のテーマを長年に渡って探求していくのであるから、当然作品の出来は後年になるほど良くなるし、こうなると本人にとっても「代表作」となってくる。

技術的にも頂点を極め、東宝も多くの予算を出した作品が、松林監督の作品ともなったわけだが、松林監督は英二氏に最高の尊敬をもっていると感じたし、それは、作品を見ればよくわかる。

松林監督は、英二のことを「私利私欲のない人、名誉欲、権力欲のない人」と言う。特撮で最高位を極め「特撮の神様」とまで言われた英二氏だが、それは決して「オレが、オレが、」という我を出して登り詰めた地位ではなく、長年の努力の賜であるようだ。そういった映画へのひたむきな努力が、松林監督の心を打ったのだと思う。「円谷監督は、高度なものを持った人だった。人間観、人生感は私と同じだった。」とも語っていただいた。

ところで、80歳近い年齢でも釈然とした姿勢で、驚くほど若々しい松林監督は、当然若い頃から健康にも十分配慮されていた様である。映画関係者に付き物の残業などはあまりやらなかったようだし、仕事を正確に、時間内にこなすという事を心がけていたのではないだろうか。ましてや、僧侶の出身であるから、体に悪い事をしていることもなかったのだろう。

この松林監督が、英二氏に説教をしたことがある。それは、映画の撮影が終わり、編集の作業に取りかかっている時だった。

「その頃は本編を担当した私と、特撮場面を担当した円谷さん、それに編集担当の岩下氏の3人でやっていたが、夜も更けてきたので、先に帰ることにした。私は明日のことを考え、あまり遅くまでは残らない主義だった。ところが、翌朝会社に来てみると、円谷氏と岩下氏はまだやっているんだ。」。

驚くようなパワーだが、さすがにこの時は松林監督は、「円谷さん、あなたは健康を考えたことがあるのか。」と説教したという。これに対し円谷氏は、「いや松林さん、これがオレの流儀なんだよ。」と弁解したのだそうだ。松林監督にしても、先輩の円谷氏にこれだけ言うには度胸が必要だったと思うが、こういう所にも、円谷氏に対する心遣いを感じるように思える。

 

松林監督の信念

この監督にお会いした時は、ちょっと前にインド、パキスタンの核実験が行われていた。世界平和を訴える「世界大戦争」の監督だから、聞きたいことは当然これだ。「監督は、現在のインド、パキスタンなどの核実験をどう思われますか?」と。

勿論、この質問は円谷英二氏について尋ねる本来の意義とは別格のものではあるが、円谷氏が代表作として挙げているのは「世界大戦争」であるし、当然円谷氏も同じ考えを持っているのだろうから、こういう質問をしてもおかしくはない。それに、今、この人類存亡の危機に関しては、少なくとも映画という分野においては、最も現実的な、絶望的な将来を描いたという大儀もあるから、質問は決して円谷氏に通じないものではないと思う。

松林監督はこれに対し、顔を曇らせ、「もう、どうしようもない。」と、まず言われた。

「50年以上、平和が続いて、世界中の人が利口になり、おおかたの人々が平和論を唱えているが、国と国との利害が一致しないと、いつでもこの様な状況になる。」と、現実に即した分析を語った後、「日本は資源がない、石油がない、アメリカという国にヘソを曲げたらどうなるかわからないし、中国も同様である。それらの国の国益に、日本は振り回されているのではないか。」、「原爆を作ったオッペンハイマーの罪は大きい。原爆がある以上は、こういう世界になるのは仕方がない。」とも語られた。

松林監督の持つ平和観とは、ただ闇雲に平和を待望する現代のような感覚ではなく、太平洋戦争を闘い抜いた、歴史を生き抜いてきた人生感が主柱にあるように感じた。かつてドフトエフスキーが「罪と罰」の中で書いた、「人間は平和の中にいると、平和であるのに耐えられなくなる。」といった人類原則的な本性を基本として物事を考えられる様な傾向があるようだが、それこそが本物であるとも思える。

松林監督はさらに、「戦争反対ということは誰にでも言える。人間の心の中にある闘争心を極限までコントロール出来るかどうかだ。」と付け加えられた。

円谷氏の映画は怪獣ものと戦争物が二大支柱というか、この二つが多くを占めているが、怪獣作品では次々と新しいアイディアを想像し、実践していったマクロ的な発送であったのに対して、戦争作品は常に徹底したリアリズムを追求するため、軍艦はだんだん大きくなり、予算もかかっていった。こういった後者の戦争作品においては、徹底して作品を追求し、その情熱は海外市場などを考慮に入れていた怪獣映画を上回っていると私には思えるのである。そして、そうした内部追求的な映画作りのパートナーであったのが、共に苦しい戦時中を闘った松林監督のような方なのである。

 

松林監督の映画観、無常感

円谷監督と一緒に仕事をした方に聞く話は、円谷監督はいい人だった、というものが多いが、松林監督も同様だった。「一緒にいい仕事をさせてもらったという感謝の気持ちでいっぱいだ。」、「円谷さんがいなかったら、作品は成り立たなかった。」と、本当に最大の賛辞を聞けたが、代表作を多く製作した昭和30年代を、「つつましやかで、言い時代だった。今のように傲慢でおごり高ぶった時代ではなかった。」と語った。そして、「今は、こんな時代に映画を作る気はしない。」とも。

最近、東京裁判を描いた「プライド」という映画が封切られたが、これについては賛辞を述べ、こういう映画を製作した東日本建設という会社の姿勢を讃えた。また、「昭和ヒト桁に正論をいうヒトが出てきて嬉しい。」と、堺屋太一、渡辺昇一らの作家を誉めた。

お話の中では、私が東北から来たことに言及され、「私が海軍で尊敬しているのは米内光政、井上誠治、山本五十六の三人である。これらのヒトは基本的に戦争には反対していたが、皆、共通して言えるのは君と同じように雪国の出身だった。戦争を推進したのは、薩長の連中だったのだ。」と、意外な戦史についても語ってくれ、また、「戦時中、私は南方にいたが、東大や早大の優秀な連中が、捕虜収容所にいたというだけで、戦後絞首刑にされたのだ。」と、戦後の隠された暗黒面についても話された。

こういう監督だから、私は、「戦時中、国策映画という部類の作品に携わった監督が、戦後、裏を返したような作品を製作しているが、これについてはどう思うか。」と質問したが、これについては、「そういう人は確かにいた。人間的には良い人なのに、映画になると思想的に全く反対のものを作った。私はそういう考えが信じられないし、ずるいと思う。」とも語った。映画の当事者である方に、私の長年の疑問を答えていただいて、この時ばかりは嬉しかった。

松林監督の作品は勿論、円谷氏の関わった映画に関しては、ゲスト的に特撮場面を協力したようなものはともかく、特撮部分を明らかに活躍の見える関わり方をしたものに関してはすべて、戦争を闘い抜く兵士を堂々と描き、最近の妙な時代にこびへつらったような作品とは違い、軍人を立派な人物として描いている。その上で、反戦の思想や無常感などを表現しているのだが、それこそは円谷氏の道であり、だからこそ松林監督と最高の作品を作っていくことが出来たのだと思う。

 

このお話の中で私が感じていたのは、なんだか父親と話しているような所があった事である。今世紀中の日本の動向を話題にするとき、ある年齢以上の人が話す内容はかなり同じ見解を持っている場合が多いが、不思議とそれがマスコミなどの活字になる場合は少ない。日本人が同じ意見を持ちながら、それが文章化されたり、発表されないというのも不思議だが、こういう所に戦後の「暗黙の言語統制」的なものを感じる。

これだけ「世界の平和」を描いた監督がこの様な発言をされたのはやや意外な感じもしたが、太平洋戦争を闘った日本人の思想体系として、決して平和を欲しなかったわけではなかったという代表的な考え方をうかがったようにも思えた。また、文中にもあるように、世渡りのうまい監督にはない実直な松林監督の姿を、特に印象深く感じた。

松林監督は、お話の最中にも、「新幹線の時間は大丈夫 か。」、「君はもっとビールを飲むか。」とお気遣いをしてくれ、おまけに喫茶店の代金を自分で払われてお帰りになった。私の方からお会いしたいと言ったのだから申し訳ないが、素晴らしい作品を残された監督は、普段の生活においてもやはり立派であり、これは見習わなければならないと思った。

最後に、「円谷さんのような素晴らしい人が生まれたところだから、須賀川はきっと良い所なのだろう。円谷さんは地元の誇りであるとともに、日本の文化史の中でも重要であるのだから、ぜひ、立派な記念館を作って欲しい。」と言われ、私は背筋がピン、と伸びた。こういう事を凄い映画を作られた監督がおっしゃるのだから、やはり我々は頑張らないといけないと感じた次第である。