「ノンマルトの使者」の監督 満田かずほ氏にインタビュー(1996年)

「ノンマルトの使者」の監督

満田かずほ氏にインタビュー (1996年)

 

5月8、9日に行われた国際短編映画祭では、今年で10回目を迎える短編映画祭で初めて特撮作品(ウルトラセブン第42話・ノンマルトの使者)を上映し、上映後に満田氏がステージで対談を行い、特撮作品などについて説明された。

満田氏はウルトラQの頃から助監督として活躍され、初監督はウルトラQ第21話の「宇宙指令M774」。ウルトラQで2本、ウルトラマンでは4本の監督を行い、ウルトラセブンでは14話もの監督をしてメイン監督になった。

円谷プロにうかがって打ち合わせをしたときに始まって「ノンマルトの使者」のフィルムをお借りした時、また、映画祭前後のお話などから、断片的にお聞きしたお話をつなぎ合わせて構成した。

 

ウルトラセブンについて

まず、ウルトラセブンのメイン監督ということで、ウルトラマンと比較し、セブンは全体に大人っぽくなり、実験的な映像というか雰囲気を感じるが、こうしたものはウルトラマンで実相寺監督が撮った作品による影響が強いのではないだろうかという私の自説?をお話ししたのだが、「そんなことはない。実相寺監督に影響を受けたことはない。」ときっぱりと否定されてしまった。「ウルトラセブンの時は、ウルトラマンがヒーロー対怪獣という図式が出来上がっていたので、侵略というテーマを打ち出し、全作とは違った様にしようといろいろ考えてあのような作品になったのだ。」という事だった。また、「ウルトラセブンの頃になると、作品に遊びの部分がなくなって、内容がシリアスになった。」というお話もあった。

また、作品としてウルトラセブンは今回の「ノンマルトの使者」に代表されるように、実は人間が侵略していたのだという複雑なテーマを持つ事から、脚本家が侵略というテーマをいろいろな角度から、例えばよく言われるように、脚本家の出身地が沖縄などであることから何らかのメッセージを作品に盛り込んでいったのでは、という質問に対しては、「よくそんなことが言われるが、そういう事はない。」とこれも否定された。「やはりウルトラマンよりも変化を持たそうとし、いろんな工夫をした結果がそうだったという事ではないか。ウルトラマンが怪獣を全面に出していたのに対し、今度は宇宙人を出し、それでも怪獣を出そうということにもなり、より欲張りな内容になったと思う。」との事だった。ウルトラシリーズの最高傑作と言われるウルトラセブンは、この様なスタッフのどん欲な姿勢によって成り立っていったという事だろうか。

このころ活躍した脚本家の故・金城哲夫氏に関しては、「一緒によく仕事をしたものだ。取材に行こうというと、山を歩いて、この山を越えて怪獣が現れたら、まず一人が交番に走って連絡して―――。などと歩きながらシナリオを考えたものだ。」と当時のエピソードを紹介された。満田氏によると、金城氏は後にいろいろな本で言われているよりはだいぶ明るい性格のよう で、アイディアが次々とわいてくる人物だったようだ。

 

30年後も色あせないヒーロー

満田氏が監督をしていたウルトラマンやウルトラセブンは、今も度々テレビで再放送され、レンタルビデオ店に置いていない店はないくらいである。私たちの頃と同じように、今も小さな子供達はウルトラマン、セブンが大好きである。30年間の間にはおびただしいヒーローや子供番組が制作されては消えていった。30年も前に作られたマンやセブンは未だに色褪せていないが、この様なヒーローが未だに人気があることについてうかがってみた。

 「今思うと、やはり、きちっと作っておいて良かったと思う。」というお話に始まったこの話題は、「当時はテレビの放送だったから、撮り直しと行っても1、2回が常識だったが、スタッフは妥協せず製作に当たった。」と、かなり念入りに製作された事を述懐される。「そして、この様にきちんと作ることに常に目を光らせていたのが円谷英二だった。」と当時の円谷氏の監修としての立場をお話しされた。「明日までの納品なのに、使者が始まったのが午前2時になってしまうことがあった。その様な時でも、円谷氏のダメ、撮り直し!の声が飛ぶときがあった。」という事で、作品へのかなり厳しい姿勢があったようだ。「だからこそ、31年すぎても今作ったものに引けを取らないんだ。」という事でなるほどと思った。

また、ウルトラセブンについては25年から30年後という設定になっており、そういう点も今の子供達が抵抗なく見ていられる要因にもなっているのだろう。「街の風景も、実際の建物だけでは未来の街にならない ので合成を使って製作した。」という事である。ただ、この様な設定の中でも、想像できない未来もあるわけで、「プッシュ式の電話が登場することはわからなかった。だから、ウルトラ警備隊の電話はダイヤル式なのだ。」と、なるほどと言えるお話もうかがった。現実と変わらない世界の中で、ただ電話だけがダイヤル式なのは奇妙だが、ここまで未来世界を予見できたこと自体がすばらしいし、「今の子供達には、ダイヤル式の電話がかえって新鮮に見えるときもあるんだ。」とも。

現在放送中の「ウルトラマン・ダイナ」でも、ヒットしているとは言え視聴率が6%程度であるが、ウルトラシリーズ最高視聴率は満田監督が手がけたウルトラマン第37話「小さな英雄」である。満田さんの話では視聴率42・8%で、すさまじいものだが、「当時は今のようにビデオなどが時代ではないから、毎週日曜の午後7時半以降は大変だった。日曜日に家族で出かける家庭では、道路が渋滞でウルトラマンが見れなかったと子供が泣き、どんな話だったのかと円谷プロに電話がいっぱいかかってきたものだ。」というわけ で、私たちの世代には日曜7時はもはや聖域であり、必ずテレビの前に座っていなければならなかった。こうなると社会現象と言うより宗教みたいなものだが、それほどの人気があったのである。

 

当時の撮影に関して

 それから満田監督に関して一度はおうかがいしたかったのは、ウルトラマン第10話、「謎の恐竜基地」で、えりまき怪獣ジラースがウルトラマンとの格闘の冒頭で早々にえりまきをはがされてしまい、モロに「ゴジラ」になってしまうこと。そして、ウルトラマンの格闘の中ではかなり一方的に怪獣がやっつけられてしまい、ウルトラマンが「ウフフ」と笑っている点などで、何か東宝との確執でもあったのか、と思われる部分もあったのだが、これに関しては、「当時私はかけだしの監督で、怪獣を製作するほどの予算がもらえなかった。そこで東宝にお願いしてぬいぐるみを借りてきたが、傷をつけたり切ったりしてはいけない、と条件を付けられ、えりまき怪獣にしたんだ。」という事であった。またその闘いに関しては、「西部劇や時代劇のエッセンスを取り込んだ。」のだそうである。脚本家の複雑なストーリー同様、深い意味があるわけではないとの事だったが、映画から怪獣世界に入った我々の世代には、「ウルトラマン対ゴジラ」の闘いにはワクワクしたものだ。

 

円谷英二に関して

当市出身の円谷英二監督に関しては、先ほどの話にあるとおり、これらの作品の中で監修として妥協せず、かなり厳しい目を持っていたようだが、英二氏に関して、「当時は円谷プロの作品では監修として存在し、同時進行で東宝の映画も手がけていたのだが、「フランケンシュタイン対地底怪獣」という映画の中で、地底怪獣が馬小屋を襲って馬を食べてしまおうとする場面で、円谷監督は馬の模型を作って動かしていた。それを見ていた私は、「そんなことをしないで、馬小屋に行って実際の馬をちょっと暴れさせて撮影すればいいじゃないですか。」と言うと、「そんな事をして面白いかね。」と言われた。円谷監督は結果がどうのと言うのではなく、やることが面白い、というタイプで、 自分で楽しんでいる所があった。」という貴重なエピソードをお聞かせいただいた。私もあの作品に関しては、かなりリアリティーがあって面白い映画だと思っていたのだが、あの馬の場面はちょっといただけないとは感じていたが、その様なわけがあったとは知らなかった。現状の特撮には満足せず、常に前進していくことを心がけていた方だったが、こういう実験的な性格を持ち合わせていたようだ。

最近のコンピューター・グラフィックスについては、「デジタル映像(CG)の時代だが、基本的なものはナマのものである。円谷英二がいたら、果たしてCGを使っただろうか?」と言うことであった。

また、昭和20年代には飛行機で須賀川市に来たことがあるのだそうだ。日本飛行学校に入学するために上京したのだし、戦時中は「飛行機はなぜ飛ぶか」、「飛行理論」などのマニュアル映画を製作したぐらいの方だから飛行機操作はお手の物だものだが、実際に自分で操縦して故郷に錦を飾っていたとは知らなかった。円谷家では屋根に登って手を振ったそうである。福島空港に先駆けること40年前、すでに須賀川の上空を飛んだ円谷英二は、上空から見た須賀川をどの様に思ったのだろうか?

円谷英二監督のエピソードは多いが、特に金銭感覚がなく、欲しいものがあると高くてもすぐに買ってしまうというものがある。満田監督の話ではウルトラセブンの回では人気のある「ウルトラ警備隊西へ」の前後編、神戸ロケを行ったのだが、そこへ円谷監督が陣中見舞いに訪れ、「これでうまいものでも食ってくれ。」と5000円を置いていったそうである。ところが、スタッフは30名以上いて、全員で食事するにはほとんど行き渡らない金額である。これにはスタッフも唖然としたそうだ。

もっとも、こういうエピソードは後に天才といわれるような人物には付き物であり、やはり英二氏は偉大だったようだ。「いろいろなアングルから物事を考える人であり、カメラに付いている棒のようなものをアングルというのだが、これを考案したのも円谷氏。」との事だった。後の研究で、当時流行した怪獣ブームの際に、円谷プロや東宝に便乗して他の会社もたくさん怪獣・特撮映画を製作したが、それらにも円谷氏は協力し、技術的な面の指導やや機材までも貸してやったそうだが、「どんな人が来ても、なんでも教えてやっていた。自分が開発したどんな難しい技術でも、すぐに教えてやった。」と、さすが、と思わせるお話も聞いた。当時最高の技術を持ちながら、そういう事をお金に結びつける様な商売人ではなかったのである。ああ、頭が下がる。

 

円谷英二記念館構想に関して

須賀川青年会議所が推進する円谷英二記念館構想に関してご意見をうかがったが、これについては「単にモノが並んでいる展示館というのではなく、特撮体験コーナーがあると良い。」ということで、「例えば須賀川市の街並みのミニチュアが組んであり、そこに客が入って撮影できるようなものがあると良いと思う。こういう事を子供たちが体験し、そこで第二、第三の円谷英二が誕生するような施設があると良いね。」と夢あふれる企画を語っていただいた。確かにこれは素晴らしいアイディアであるが、これは円谷プロのご協力が必要な話だろう。

 

 満田氏は最近出版されているウルトラマン関係の出版物にも対談が掲載されたり、円谷プロの渉外としての活動が最近目立っているが、これからのご活躍に期待したい。