円谷英二氏の三男 円谷あきら氏にインタビュー(1997年)

円谷英二氏の三男

円谷あきら氏にインタビュー(1997年)
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故・円谷英二氏はマサノ夫人との間に三人の息子があった。長男・一(はじめ)氏はウルトラマンの頃からメイン監督として活躍し、昭和45年の英二物故以降は円谷プロ二代目社長として活躍したが、昭和48年、英二の死からわずか3年で後を追うように亡くなった。これを受けた次男・皐(のぼる)氏はこの後活躍し、昭和62年から始まった須賀川市の円谷英二氏に関する活動では、いろいろなご協力をいただいた。自らマスコミに登場して円谷プロの様々な活動を支えたが、平成7年6月、帰らぬ人となってしまった。

さて、残った三男のあきら氏はどうしているのだろうか?次男・皐氏と年齢で約10歳後に生まれたあきら氏は、まだ50歳くらいのはずである。「ウルトラセブン」では、ほとんどのドラマで助監督としてクレジットされているが、須賀川青年会議所の活動が始まってからはあまりその名を聞いていない。

須賀川市の活動にも理解を示していただいた次男の皐氏亡き後、英二氏の最も近い肉親と言える存在はこのあきら氏に他ならない。そこで、須賀川短編映画祭でご協力いただいた円谷プロダクション専務取締役の満田氏に打ち合わせの際、あきら氏についてうかがったところ、「麻布で円谷映像という会社の社長をやっている。」との事だった。是非お会いしたい旨をお話ししたら、満田氏はその後わざわざ連絡していただいてくれた。この様にして、5月14日、アポが取れた私は円谷映像を訪れることになった。

最初に円谷プロへ行って短編映画祭で借りた「ノンマルトの使者」のフィルムを返してから行こうと思っていたのだが、満田さんからは「場所が非常に行きにくい所(時間がかかるの意)だから、最初にあきら氏にお会いしてから円谷プロに来た方がいい。」と言われ、麻布へと向かった。確かにわかりにくいところである。電車がなく、バスで行く他はない。我々地方人は、JRだろうと私鉄だろうと線路があればたいていの所へは行けるが、バスになるとちょっと抵抗があって困る。都会の人はバスの乗り降りが早く、整然としているので自分はそのスピードについて行けないのでは、あるいは目的地を聞き逃してしまうのでは、と不安になるのだ。それでも、それしか方法がなければ乗っていくしかない。事前に円谷映像から送っていただいたFAXを参考にして目的地に到着した。

円谷あきら氏は円谷英二氏の三男であるが、円谷プロで活躍した後、現在は自ら株式会社円谷映像を設立し、社長として活躍している。この辺の詳しい経緯は尋ねなかったが、社屋はビルの3階から6階までを使用しており、特撮ルームもある。6階がフロントということで入っていったら「エコエコアザラク」、「学校の怪談」などのポスターが見えて驚いた。多くの番組、しかも話題作を製作しているようで、知らなかった私は驚いてしまった。だいぶ活躍しているようだ。円谷映像を訪ねると長昌夫さんにいったら、「最近の活躍は立派ですね。」とメールで返事が来たが、本当にいろんな映像を手がけているものだ。

午後2時の約束だったが。あきら氏は打ち合わせが長引いていたとの事で45分頃現れた。印象は次男の皐(のぼる)さんを長身にしてダンディーにした感じの人だった。「やあ、良く来たね」。という感じで、忙しい人にも関わらず明るく迎えてくれたのが嬉しかった。また、経営という感覚で言うと、創業社長という雰囲気を感じた。御紹介いただいたのは円谷プロの満田氏だったが、満田氏にしても、お会いしたいという一言をこうやって連絡を取って実現させてくれるわけだし、また、この円谷あきら氏にしてもお忙しい中時間を割いて会ってくれるわけだから、円谷プロ関連の方にはなんとなく「親切」とか「思いやり」いうものを感じる。これは、決して父親の同郷とか奥様の同郷というだけでは起こらない感情だと思う。

さて、前述の通り、現在のところ、私たちの課題にする円谷英二氏に最も近しい存在であるのが、実の息子であり、目の前にいる円谷あきら氏である。あきら氏は昭和19年、次男の皐氏の9年後に生まれ、作品のクレジットとしては、ウルトラセブンの助監督としてクレジットが見られる。これに関しては、「いや、ウルトラマンの頃から助監督はやっているのだが、その頃は助監督と言ってもサード(3番目の意)くらいで、番組にはクレジットされなかったんだ。」とのことだった。英二氏他界後はファイアーマン、トリプルファイター、アイゼンボーグ、猿の軍団、ウルトラマンレオ等の製作に関連し、多くの円谷作品に関わり、円谷氏を父親として見る位置にいたあきら氏に対してこちらの趣旨を説明し、「今まで色々な人にお会いして円谷氏の事をお聞きしたのだが、いい人だ、お世話になった、凄い技術だ、といった礼賛の声ばかりで、このままでは円谷氏は神様のような存在として記念館を作らなければならない。特撮の神様であるのには違いないが、ひとつ、人間的な側面をお聞かせ願いたい。」とお願いした。こういった趣旨をあきら氏はすぐに理解していただき、かなりざっくばらんなお話をしていただいたので、これまでのインタビューの中では非常に円谷英二氏の人間的な面が強調され、非常に興味深いものとなり、新発見も数多くあった。

 

円谷英二、結婚秘話

何といってもこれである。昨年10月に犬塚稔氏にお会いしたとき、犬塚氏は独身時代から結婚する時期の同僚であるにも関わらず、結婚に関する話題は聞き取れなかった。「気がついたら、結婚していたという感じだった。」というのが結婚に関する発言であった。もはや、この話題に関してはあきら氏以外には真相を知る人物はいないのである。どのようにして奥様と知り合い、結婚されたかという事に関しては、「当時、母親(故・マサノ夫人)は全国各地を家族全員でトンネルを掘って回る土木業者の娘だった。当時はその様なトンネル掘りの職人がいる時代だった。たまたま京都に来たとき、撮影を見に行ってオヤジさん(円谷英二氏)に見初められたんだ。」との事だった。当時は、その様な一種の特殊技能とも言える土木業者がいたわけだが、全国をめぐっているうちに円谷氏と知り合ったのである。

あきら氏のお話で色々なことがわかってくるが、「当時、木製のクレーンを製作して撮影を行っていたんだが、そのクレーンが壊れ、オヤジさんは落ちて怪我をした。その見舞いに来たおかげで、仲が親密になったんだ。」との事。

嗚呼、こういったラブ・ロマンスが円谷氏にもあったのだ!初めて聞いて、なるほどと思ったのだが、当時の円谷氏は仕事に熱中し、自分が落ちたクレーンに代表されるように、カメラマンとしてあらゆる技術開発に余念がなく、自費を出費してまで映像の研究に専念するあまり、借金がかなりあったのだという。「結婚してから、だまされたと思った。」と奥様は言っていたというが、それは深刻な話題というのでなく、息子に話す許容範囲のグチとも言うべきもので会ったのだろうと思う。

しかしながら、このマサノ夫人は、全国の飯場を渡り歩く特殊な家庭に育ったのであるから、飯場の人たちのたしなみとして、花札、麻雀、などのバクチを知っていた。こういう賭事はすべて母親から習ったというあきら氏だが、英二氏は一切賭事はやらなかったという。実は、昨年犬塚氏に聞いた限りでは、英二氏は賭麻雀をやっている現場を警察に押さえられて、警察に預かられているのを犬塚氏が引き取りに行ったことがあるという。これは、奥様に習ったために麻雀に手を出したと思えるようだが、実は独身時代とのことで、映画仲間に連れられて麻雀に加わってしまったとき、偶然にも警察に捕まってしまったのだろう。こういう事もあって英二氏はその後生涯賭事をやらなかったというが、この夫婦はお互いに、マサノ夫人は借金が多いので驚いたのだろうが、英二氏も奥様が賭事を何でも知ってるので驚いたのではあるまいか。ただし、奥様は環境がギャンブルを教えた、というだけで、自らが好きだったというわけではなかった様だ。

考えて見れば、夫婦お互いが相乗効果で良くなったのだから、幸せな家庭だったのだと思う。

この話題に関しては、結婚に関する逸話の他に、いろいろなアングルから撮影を行うことを考えていた英二氏が、J0へ行ってから、周囲の理解を得て鉄製のクレーンを製作したという話を聞いていたが、それ以前にも、木製のものを製作して撮影していたことがわかった。映像へのあくなき追求はさすがである。

 

英二のスト破り

さて、あきら氏に私や須賀川JCのこれまでの活動を示し、拙著を進呈したりしたが、先日の小森監督のインタビューの件に触れ、東宝争議の事についてお話ししてもらった。「東宝争議は大変なストライキだったが、オヤジさん(あきら氏は一貫して円谷英二氏の事をこう呼んでいた)はスト破りをやってまわりに叩かれ、大変だった。」との事である。スト破りとは、ストライキの最中に結束を破り、仕事をすることである。仕事一途の円谷氏にストライキは似合わないと思うが、「へいを乗り越え、仕事場に行った。」ということだった。「共産党は嫌いだ。」とも言っていたというが、これはおそらく、当時の東宝のスタッフが東宝争議におけるあまりの共産党の支配にはウンザリしていたという事だと想像される(後の文献などを見る上では。)。俳優や監督は他社へ移ったり、新東宝を設立したりしたわけだが、英二氏が東宝へ残ったのはなぜだろうか?先日の小森氏は「特撮に関連するスタッフは、ストライキの直接の当事者ではなく、関連がなかったからだ。」との事だったが、あきら氏は、「それは東宝に森岩雄さんがいたからだよ。」との事だった。森岩雄氏は東宝の社長であり、英二氏の特撮には深い理解を示した人物だった。この様な人物の存在が英二氏を東宝に留める結果になったのだが、愛弟子達の相次ぐ移籍、退社は、英二氏にとってつらい出来事だったに違いない。

私は円谷英二氏の人生を研究する上で、ドイツの大指揮者、ウィルヘルム・フルトヴェングラーの姿といつもオーバーラップする部分がある。フルトヴェングラーは1922年からベルリン・フィルの正指揮者として不動の地位を築いていたが、ナチの占領下におかれたドイツに最後まで留まっていたことで、戦後は裁判にかけられたりした。しかしながらそれは、残されたドイツの観衆を考えてのことであり、また、苦しむドイツの同胞を見捨てることが出来なかったのである。ドイツに残りながらもナチに抵抗した点にも感銘を受けるが、英二氏も感覚としてはほとんど同じ気持ちだったのではないか。真の芸術家ほど、政治家のプロパガンダや政局の流れに翻弄されてしまうような気がする。

 

英二氏の浪費癖

 浪費癖というと語弊があるが、とにかく英二氏はお金に関して無頓着だった様だ。こういう分野に関しては、それこそ実の息子であるあきら氏がその辺の事情を最もよく話してくれるだろう。他の方では、恐れ多くてそんな話は出来ないのではないだろうか。

結婚した頃、奥さんのマサノ夫人は「騙された」と後で息子さん達に語ったのは、英二氏が映画の研究の余念がなく、自分で新しい技術や機械を開発していたからに他ならないが、昨年お会いした犬塚氏宅にも「たぶん、まだ私に借金をして、それを返せないいいわけを書きつづった手紙があるはずだよ。」と言っていたとおり、周囲の人からの借金も多かったようだ。しかしながら、それは技術開発、日本映画界の発展という崇高?な目的のためばかりではなく、いろんな意味もあったようだ。

あきら氏がお母さんのマサノ夫人から聞いた話として教えていただいた事によると、「松竹や日活にいた京都の時代、会社から給料をもらう給料日になると、(マサノ夫人は)決まって会社の外で待っていたそうだ。それは、会社から自宅までの間に歓楽街があり、放っておくと自宅に帰るまでに給料がスッカラカンになることがあったからだ。」そうだ。

ひえー。円谷英二は神様だったが、そんなこともあったのか!なんだかこの話を聞いて、特撮の神様が随分と身近な人物に感じられるように思えた。英二氏の趣味はギター、三味線、大正琴との事だが、考えてみるとこれらは芸者との関連も感じるようにも思えるが―――。

ただ、英二氏の技術革新への取り組みは決して忘れられるものではない。日本版ミッチェル(外国製のキャメラを日本版で製作しようとした)、オリジナルのオプチカル・プリンター(画面を合成させる機械)、アニメーションの取り込みを行う機械などは、自分で考えて、知り合いの東野精機という会社に製作させていたのだという。オリジナルの機械を製作する試みは大変だったと思うが、本人にとっては技術を進歩させたい一心だったのだと思う。

しかし、英二氏の浪費はこればかりではない。「新しもの好き」という性格もあるのである。「とにかく、電化製品などで新しいものが出ると必ず買っていた。その頃の家庭は必ずしも裕福というわけではなかったときもあったのだが、新しいものが出ると買っていた。」という事で、テレビも発売と同時に購入したほどだったという。

こういうお話を聞くと、やはり天才の行動は違う!と感心させられる反面、家族は大変だったろうな、とも思える。

しかしながら、これは別項で述べようと思っているのだが、「当時、非常に高価とも思える様なおもちゃでもすぐ買ってきた。昔、マテル社のプラモデルなどは猛烈に高価でそう簡単に買えるものではなかったが、オヤジさんはすぐに買ってきてくれた。」との事だった。後の項で述べるが、子供への愛情という点に関しても、金に糸目はつけなかったのだ。さすがは偉人である。

 

キリスト教への入信

円谷氏を語る上で重要なことに、彼がクリスチャンであるという事実がある。須賀川の円谷家ではキリスト教になるようないわれは全くないから、奥様の影響でキリスト教になったのだと思うのだが、実際にはいつ頃なったのだろうか。奥様が元々キリスト教徒で、結婚と同時に改宗?したのではないかと考えていたのだが、昨年の犬塚氏の話では「キリスト教だなんて言ったことは聞いたことがない。」とのことだった。円谷氏を語る上で、この部分も謎になっている。

これについては、「確か母がキリスト教になったのは戦時中のことで、オヤジさんは昭和30年代じゃあないかなあ。」という事だった。では、「ゴジラ」はキリスト教入信前に製作されたという事になる。

こういった「改宗」の背景にあるのは、マサノ夫人がご兄弟から勧められた事が最大の要因であり、東京で一国一城の主となった英二氏が実家の規則には縛られなくなった(注:須賀川の冠婚葬祭等に関係する決まり事は福島県一厳しい。私は会津の出の女房にいつも言われる)事もあるが、ただ、キリスト教が映画人生にそれほど大きな影響を与えたとは考えにくい様にも感じる。

ともかく、奥様は戦時中の昭和10年代、親族の影響でキリスト教徒になり、それからずっと過ぎて昭和30年代、英二氏もキリスト教になったというのが真相のようだ。

このキリスト教に関しては、洗礼を受けたのも晩年のことで、英二氏の映画などに影響を与えたとは思えない様だ。昨年、怪獣の造形で知られる人が出した書物(といっても本人のインタビューを誰かがそのまま文章にした様な文調のもの)の中で、昭和29年の「ゴジラ」の撮影中、日曜日になると撮影がいつまでも始まらないから変だと思っていたら、円谷英二はクリスチャンだから教会へ行っていた―――等という記述が見られたが、それも事実ではなかったというわけである。

 

円谷英二氏の「愛」とは

お話の中で、あきら氏は円谷プロから離れた立場であり、また実際に円谷英二の実子であるという事から、今までお会いしたどの方よりも円谷英二の人間的な部分を意識的に掘り下げてお話ししていただいた。無論、お話の前にこちらからその様なお話をお願いしたい旨をお伝えしたのだが、そういった意向を受けて、丁寧にお話ししてくれた事もありがたい。

今度はあきら氏の方から、「須賀川市で円谷英二記念館を作るというが、どのようなコンセプトなのか。」と質問された。そこで、五十嵐理事長率いる現在のスタッフで行っている活動を説明した上で、円谷英二氏の活動、業績を「夢・技・愛」という3つのテーマを持ってコンセプトとしている事を説明し、さらにはこのうち「愛」が一番重要であるというお話をした。ここでい私たちが現在知っている限りの「愛」とは、多くの後進を育て、世に送り出した、弟子や後進達に捧げられた愛、「残酷なものは撮らない」という言葉に代表されるように、特に子供の観客を意識した映像表現における愛情、そして、作品における平和への祈りや環境破壊を早々と予言して、その映像表現の中で、人類の平和や未来への警句を投げかけている地球や環境への「愛」である。

「愛ねえ―――。」と考えているあきら氏。何か重要な話が聞き出せそうだ。実子であるあきら氏なら、まだ知られていない事も教えてくれるかも知れない。

あきら氏のお話では、円谷英二はとにかく子煩悩だったそうである。ある時、子供をおいて、マサノ夫人が買い物に行った時には、「子供を家において、もし何かあったらどうするんだ!」とひどく叱ったという。「子供は何をするかわからない。だから放っておけないんだ。」というのが心情で、あきら氏らも「いつも忙しいので家にいるわけではないのだが、何となく、いつも見られているような気がした。」と言うことだった。先日の満田かずほ監督にお話をうかがった時にも、「ウルトラマンやセブンがいつまでも人気の衰えない理由は、30年前でも非常にきちっと作っていたからだと思う。手抜きをしないように、いつも円谷英二監督の目が光っているような感じがした。」と聞いたが、それだけ英二氏の存在感は大きく、まわりに注ぐ目も一方ならぬものがあったのではないだろうか。

あきら氏はさらに、「当時、ウチはいつもお金があるわけではなく、提灯一つ買うのも困ったようなこともあったが、そういう時でも高価なおもちゃは買ってもらえた。家の敷地の中に、本物の蒸気で動く機関車が走っていたよ。」という事だった。そりゃまた随分と贅沢な話だが、こういう事を聞くと、「いつまでも子供の心を持った人物」と評されるのも納得がいくし、子供と大人の境界線がなく、自分もその中の一員であるという認識があるのではないだろうか。

やがて、長男の一氏に長男・昌弘氏が誕生し、英二氏にとって初孫となるのだが、昌弘氏は子供の頃病弱で、入院していたという。そうすると英二氏は忙しいのにも関わらず病院へ通ってしきりに心配していたそうだ。子供に対する愛情をあきら氏は「異常なほどだった。」という言葉で表現したが、これほどまでに注がれた愛情は、やがて作品への愛となり、自分の子供ばかりでなく全国の子供達にまで広がったというわけだ。

円谷プロの設立に関しても、「自分の子供達の就職時期と重なったという事もあるが、自分の廻りに東宝へ入りたくても入れない人たちがたくさんいた。そういう人たちの面倒を見たという印象が強い。」との事だ。英二氏の事について、あきら氏からも、「人を育てるためのような人生だった。」という事だが、戦前から戦後に渡って数多くの後進を育てた現実はもう少し多くの人に伝わって欲しいと思うし、また、数多く登場する日本の特撮作品が、実は英二氏以外のものであっても、ほとんど英二氏に何らかの関わりがあることは、英二氏の影響力、技術開発のパワーの凄さを物語っていると思う。

英二氏の特徴として、金に糸目はつけない、そして後輩の面倒をよく見るということがある。この二つがリンクするような場面が人生にたびたび登場するようだ。例えば映画界入りする前、おもちゃ会社の企画が当たってもうけたと思ったら、会社の先輩達を連れて花見に駆り出したりしたことが挙げられるが、こういった背景にあるのは少年時代、両親をなくしたものの、周囲の愛情に強く支えられて過ごしたことが原因になっているように思える。

 

仰天真相!円谷英二はウルトラマンより

      マグマ大使に肩入れしていた!

上記の愛の部分と関連があると思うが、息子や孫達に捧げた愛情ばかりではなく、かつての弟子達への愛情も凄いものがあった。あきら氏に言わせると、「あれで結構人を信じない面もあった。裏切られた事も多かったから」という事だが、映画技術のことに関して聞きに行けば初対面でも、他社の人でも、貴重なノウハウを気軽に教えてくれた英二氏は、ウルトラマンの頃、同時期に進行していた「マグマ大使」を製作していたかつての愛弟子・ピープロの鷺巣富雄氏の事が心配だったという。「ウルトラマンの頃は、長男の一さんが活躍し、円谷プロも優秀なスタッフが集まって充実していたが、一方のマグマ大使を製作する鷺巣富雄氏は孤軍奮闘といった趣だった。」という。そこで、戦時中には一緒に仕事をした鷺巣氏を心配し、英二氏はたびたび鷺巣氏の現場を訪れ、アドバイスをしたり手伝っていたというのだ。「オヤジさんは、ウルトラマンより、マグマ大使に肩入れしてたと思うよ。」というあきら氏。

どひゃあ、何か腰砕け状態!久々に腰が抜けるような話を聞いた。だって、東宝映画を見て猛烈なインパクトを受け、それらの映画で怪獣を作った円谷英二が今度はテレビで怪獣をやる事になり、日曜日7時を聖域としていた我々の世代にとっては、ウルトラマンやセブンが正道であり、悪い良い方をすれば他のは亜流みたいに思っていた時代もあるんだから―――。マグマ大使だって毎回見ていたけれど、「これは円谷英二とは違うんだから―――みたいな、円谷英二でなけりゃあダメ、という考え方が子供の中にもあったものだ。ところが、肝心のウルトラマンを息子や弟子に任せ、自分はいくら何でも他の会社に応援に行ってたなんて事は、普通はありえないじゃないか。

これを聞いていろんな事を感じた。まず自分に関しては、上述の様に、ウルトラマンなど円谷英二関連の作品には表現の出来ないムードを感じ、他社の作品にはそれを感じない、などと言っていたのがまるっきりただの勘違いだったこと。結局ブランド志向みたいなもんですね。人間の感覚なんて所詮そんなもんなんじゃないか。

英二氏に関しては、やっぱり凄いよなあ、ってこと。以前鷺巣氏にお会いしたとき、同時期に放送されていても、それを競争相手として意識したことはなかったと言っていたが、そりゃあそうだよね。手伝ってたんじゃあ―――。心配になって、手伝いに行く―――。そこには何のメリットも経済性もない。いや、当然なのだ。偉人と呼ばれる人はそんな目先の問題に触れてはいけないのだ。自分が第一人者である分野で、かつての弟子が苦労をしている。そりゃあ助けに行けなくちゃあ―――。やっぱり偉人だ!記念館があって当たり前だ!自分が須賀川市以外の人だったら、さっさと記念館作れよこの野郎、なんて考えると思うよ。

自社のウルトラマンを放っておいて、他社の作品に肩入れするのは表面的には笑い話に近いものがあるが、かつての愛弟子が一人苦労をしているのを黙って見逃すことが出来なかった点においては、これもまた英二氏の「愛」という事になるのだろう。

 

現在の作品に対する手厳しい批評

会話の中で、最近の作品に内容が及んだとき、あきら氏は「君は最近のウルトラマンをどう思っているか。」という話になった。

そこで私は、「私が少年時代に見たウルトラマンやセブンのインパクトを現在のティガやダイナに求めることは出来ないが、現在の状況の中では非常に良くできた作品なのではないかと思う。それは、製作しているスタッフが私と同じくらいの世代、要するにウルトラマンやセブンに大きな影響を受けた人たちが関わっていることが大きいのではないだろうか。自分の息子と一緒に見れるヒーローとして、貴重な存在だ。」という趣旨のことをいったら、「いや、そうじゃない。ダイナやティガはウルトラマンとは違う。ダメだ!」と厳しい答えが返ってきた。あきら氏に言わせれば、「ウルトラマンとセブンで終わっており、帰ってきたウルトラマンはおまけってとこだろう。」との事。「最初の時代と、次に作ったもの(マンとセブンのこと)がずっと大きい。これから10年、100年先に残っているのはウルトラマンとセブンだけではないのか。」と、やはりウルトラマンとウルトラセブンは別格であり、後の作品とは比較にならないというご意見をお持ちだった。

実際、こういう意見を持っている人は多い。ウルトラマンやセブンは自分の聖域であり、後のいかなる作品もこれを越えることは出来ないのだ。しかしながら、そういう保守的なファンでも、最近のティガに対する評価は高く、ウルトラマンの復活という人は多いのだ。息子が見て、父親が見る。その父親の観賞に耐えられる作品というのは少ないのではないか。それに立派に答えた数少ない作品であり、また、歴史的にそんな作品は存在しないのだ。そういう事を言ったのだが、「いや、ティガは、過去の作品に憧れている作品だ。」とバッサリ切り捨てた。

満田氏にお会いしたときも、「ウルトラマンを越えることは出来ない。」という意見であり、「ヒーローものを作ろうとすると、だんだんウルトラマンに近づいていってしまう。」との事だったが、わかる気はする。ウルトラマン以降、違ったヒーロー像を作ろうとスタッフは張り切ったが、遂に初代ウルトラマンの呪縛からは離れられなかった。ウルトラセブンは新たな可能性を模索する意欲作であるし、最高傑作であるという意見が多いが、ウルトラマンでやり残したものをやったととらえる向きもあり、視聴率で判断する限りはウルトラマンには及ばなかった。試行錯誤の末登場したウルトラマンティガは、ウルトラマンから離れるというのではなく、むしろウルトラマンを見て育った人々が持つイメージの中のヒーロー像を具現化したとでも言うべきものであり、それが、「過去の作品に憧れている作品」という表現になったのかも知れない。

ウルトラマンという、画期的であり、視聴率の上でも怪物であった作品の当事者だった人々には特別の思い入れがあるのだろうが、こういう話を聞くと、改めて当時のスタッフの情熱がすさまじいパワーで注がれたものであり、結果として後の作品がそれには追いついていけない結果にもなっているのだと思う。

円谷映像でも、いずれはヒーローを描きたいと言っていたあきら氏。どんなヒーローが登場するのか楽しみである。

 

CGとゴジラに関して

SF映画に関して、今年の最大の話題は何といってもアメリカ版「ゴジラ」である。昭和29年に公開されて以来、アメリカでも大変な評価を受け、すっかり有名になったゴジラが、最新のCGと巨額の金をつぎ込むアメリカの映画の中でどの様に表現されるかは非常に楽しみではあるが、こういった最新の技術に関してはどの様に思われているのだろうか。

先日満田さんにお会いしたとき、「円谷英二が生きていたら、果たしてCGは使うだろうか。」という事が話題になったが、この件に関して、あきら氏は、「いや、間違いなく使用していると思うよ。」との事だった。

昔の手作りの特撮に親しんだ人は、私も含め、現代のCGによる特撮は何か安易な印象を受け、抵抗を感じるが、そういった作品をたくさん撮った英二氏にしても、CGがあれば必ず使用した、とあきら氏は断言するのである。

その根拠として、「英二氏はとにかく新しいもの好きで、何か新製品が出るとお金がなくても必ず買ってくるような人物だった。特殊撮影の機器に関しても、自分で機械会社に発注して作ったぐらいの人だ。あれだけいろんな機械を使った人が使わないわけがない。」ということで、どんなものにも興味を持つ英二氏がCGに興味を持たないはずがない、という事である。この様なエピソードで有名なものに、円谷プロを設立したばかりの頃、資金繰りの見通しがないのに、当時6000万円もするオックスベリー・オプチカルプリンターを購入してしまったというのがあるが、確かに英二氏が映像に関する機械を使ってみないわけはないと感じる。アナログ時代に最高位を築いた人だが、決してそれにこだわることはなかったという事だろう。英二氏の新しい物好き、機械好きの証拠として、「防空壕の中にも電蓄があった。」という事だが、「むしろ率先して使っているのではないだろうか。」とも。しかし、そこは「特撮の神様」と言われる人だから、「CGを使用してみて、その上でアナログと比較するのではないか。」との事。安易にCGばかりを使用はしないだろうというのはわかる気がする。

ゴジラについては、「恐竜のような怪物を表現する上において、自由に表現が出来るなら、より、スピードがあり、より、生物性が強い方向へ行くと思われる。だから、もしオヤジさんが生きていてゴジラを撮るとしたら、ストーリーは違うものになるだろうが、ゴジラのフォルムはほぼ同じものになっていくと思う。」と、大変興味深い見解をお話しされた。昭和29年の重々しいゴジラが印象的な我々にとって、アメゴジのあの、時速450キロという走る早さは抵抗があり、アメリカ人でさえそう感じた様だが、もし、英二氏が現代の技術をもって撮れば、あれと同じようになるというのだ。

これはかなり難しい見解である。というのは、昭和29年の最初の作品以来の重いゴジラ、神々しいゴジラではなく、恐竜的なゴジラが円谷英二であっても登場するというのだ。ただ、ゴジラの原作や検討用台本を見る限りでは、ゴジラはかなり生物的な動きをし、牛を食ったりしているのだから、時間とお金に余裕があり、自由な撮影が出来たのなら、仮に昭和29年であっても、英二が目指したのはより恐竜的な動き、当時であればコマ撮りであったのかも知れない。

ゴジラは偶然の産物でもある。最初のゴジラが誕生するときには時間がなく、コマ撮りが出来なかった。やむを得ずぬいぐるみを製作して撮影したのだが、最初の作品では出来るだけぬいぐるみらしさを隠そうという涙ぐましい努力も感じられる。しかしながら、ぬいぐるみのノッシノッシと歩くゴジラは重量感があり、それはそれで好評だった。そして、以後の怪獣のイメージを決定したのである。

これは別に日本に限ったことではない。アメリカ版ゴジラは現時点ではかなりの不評だし、アメリカでのゴジラに関するテレビでも、「あの小さな二人の女の人は今回は出て来るんですか?」などといった質問をするアナウンサーまでいるのである。怪獣映画のイメージは、英二氏本人はあまり嬉しくはないだろうが、円谷英二の特撮で固定されているのである。

ゴジラ以降の英二氏はすさまじい勢いで大量の映画を撮影し、ゆっくりと研究する暇もなかったようだが、決してぬいぐるみに愛着があったというわけではなく、昭和30年の「ゴジラの逆襲」では怪獣の動物的な対決を描くため人形などを駆使し、昭和39年の「宇宙大怪獣ドゴラ」では不定形の宇宙生物を描こうとした。これらの作品は成功とは言えず、ぬいぐるみを越えていくことは出来なかったが、英二氏の性格は、既成概念にとらわれるという事は考えられなかったから、生きてCGの時代を迎えていれば、この新機材にチャレンジした可能性は十分考えられる。円谷映像で、今まさにCGをガンガン使用するあきら氏のいう話は正解であると思う。

 

円谷英二と「合わなかった」人

あきら氏はさすがはカンの良い方で、こちらが何を聞きたいのか探り当てながらも、一方的に話すというものではなく、私も意見を挟みながら話すといった風情で、長いインタビューが過ぎていった。

ところで、英二氏は「仲の悪かった」人はいないのだろうか?80年代に出た「特撮映画未使用フィルム集」によると、登場人物がみんな「円谷英二は偉かった、偉かった」と礼賛し、良いことずくめである。しかし、今回は随分と人間くさい英二氏の素顔に迫っているのだから、仲が良くなかった人、意見の合わない人について聞いてみた。

「イヤと言えば、古澤監督とは合わなかったみたいだな。」とあきら氏。古澤監督とは、植木等の「無責任シリーズ」、「日本一シリーズ」を多く手がけた監督、故・古澤憲吾氏の事である。惜しくも昨年亡くなってしまったが、テンポのよいドラマ展開は現代においても古さを感じさせず、「日本無責任男」とその続編の「日本無責任野郎」、それに、「日本一のホラ吹き男」等の作品は大傑作である。

英二氏とは古澤氏が監督、英二氏が特技監督としてのクレジットがあるのはわずか2作で、昭和38年の「青島要塞爆撃命令」、そして昭和40年の「クレージーの大冒険」のみである。

後者の「大冒険」は、特撮場面とギャグがかみ合わず、作品としてはまずまず面白いものの、成功、というには今一歩の感があるが、前者の「青島要塞爆撃命令」は、第1次世界大戦の日本軍とドイツ軍の青島(チンタオ)要塞をめぐる攻防を描いた作品で、英二が幼い頃憧れた徳川大尉が日本で初飛行したモーリス・ファルマン機が大活躍する映画である。英二氏はこの作品の中で、少年時代の憧れの飛行機を実物大(!)の模型まで製作し、やる気マンマンだったはずだ。作品的にも古澤監督のテンポの速い演出と息詰まる特撮スペクタクルが一体化し、最高に面白いと思っていたのだが―――。両巨匠には、どんな行き違いがあったのだろうか。

何年か前に、福島市で行われた植木等氏の講演会(お寺が主催―――植木氏は僧侶の出身)で植木等氏が言うのには、「古澤監督は特攻隊の生き残りで、とにかく厳しかった。無責任男の笑いが出来るまでは、何回も、何日間も同じ事をやらせられた。」そうである。妥協を許さぬ厳しい姿勢は英二氏とはお互い様で、そういう点でぶつかり合ったということなのだろうか。

逆に、円谷監督と最も相性が良かった監督に、故・本多猪四郎氏がいる。この監督は円谷氏より年下だあることから、現場では監督でありながら英二氏を「円谷さん」と呼び、英二氏は「本多君」と呼んでいたそうである。本多監督が一歩下がっていたわけだ。

英二氏は、ワンマンな監督は好きではなかったのだろうか。何となくわかる気もする。

 

さて、ここで話は意外な方が登場する。「ゴジラ」を初め英二氏の東宝映画ほとんどのプロデューサーである故・田中友幸氏である。

英二氏からしてみれば、田中氏はいろいろ注文をつける人だったらしい。また、版権などの面でも衝突があった様である。

詳しくはわからないが、後に東宝社長にまで登り詰めるエリート・田中氏にとって、映画会社を渡り歩き、会社の一員として収まるなどという事は到底考えられないアウトロー・英二氏はやはり扱いにくい人物だったのではないだろうか。

英二氏の逸話の中に、弟子を大切にして面倒を見、他の映画会社の人でも、特撮についてわからないことがあれば、いろいろ教えてやっていたという。また、映画で使用する小道具なども頼まれれば貸してやっていたという。

これは今聞けば、「さすがは特撮の神様は違う!」とか「利害など超越した偉人」という事になるのだろうが、会社という単位で考えれば、会社の備品をライバル会社に無断で貸してしまったり、わからないことを何でも教えてやったりする社員がいたら大問題だ。挙げ句の果てに、独立してしまったのでは会社はたまらない。映画という特殊な社会と、業界一の技術者だからなせる技だったのであって、現代だったら懲戒解雇になっても少しもおかしくない。これもまた、立場の違いが原因だったのだろうと思う。

 

「かぐや姫」と「ニッポンヒコーキ野郎」

英二氏が映画化したかったが未完のまま終わった作品に、かぐや姫と「ニッポン・ヒコーキ野郎」という企画がある。

「かぐや姫」は良く知られた童話であり、英二氏自身、戦前に同名の作品の特殊技術を担当している。おそらくは最初期の映画界で、孫悟空などとともに何度も映画化されているに違いなく、日本の映画の中では子供用の映画を含めると相当数映画化されていることだろう。

英二氏がこの物語にこだわったのは、少年期か青年期に何らかのこの物語に対するインパクトを与えられたのが原因と思われるが、今となっては詳しいことはわからない。「ゴジラ」のような映画の成功で、晩年を怪獣につきあわされ続けながらも、「誰もが見たくても見れないような映像を作り出すことが特撮だ。」と言っていた英二氏には、かぐや姫こそが特殊撮影が果たすべき最高の題材であったと思っていたのかも知れない。脚本家の故・金城哲夫氏が英二氏の指令を受け何度も脚本化したが、どれも英二氏を満足させるには至らなかったという。時間の制約の中で次々と特撮作品を量産した英二氏にとっては、この理想的な題材だけは、制約なしに伸び伸びと完成したかったのかも知れない。

 

一方の「ニッポン・ヒコーキ野郎」は、言わずと知れた英二氏が亡くなる直前まで書いていたという原稿で知られる未完の作品。幼い頃、須賀川市で新聞の記事から見た飛行機の日本初飛行で飛行機に憧れるようになった英二氏は、偶然にして映画への道を歩むようになるのだが、最後の最後まで実は飛行機に憧れていたのではないかというのは地元も我々としては興味深いところだ。

この作品は、自身が日本飛行学校へ入学し、最初期の日本飛行界で起こった出来事や苦労話をベースに作っていこうとした話という事だ。飛行学校の時代は、「毎日毎日が輝きに満ちた楽しい日々」と言っているほど思い出深いものだったそうで、映画界入りしてからも、その夢は消えなかったそうだ。

あきら氏は、「やっぱり特撮って言えば、飛行機だからね。」と言っている。そういわれてみると、特撮技術の中で、英二氏が画期的に優れているのは飛行機の表現方法ではないかと思えてくる。

飛行機の特撮に本格的に着手するのは、おそらくは昭和10年代だと思われる。「海軍爆撃隊」で、爆撃機の特撮を描いた英二氏は、そのときの回想として、「ミニチュアの飛行機を撮影するような、単純なものではなかった。」と言っている。ミニチュアを撮影すればすむような簡単ものでないことを身を持って体験したわけだが、その後も多くは戦争映画の中で、秀逸な飛行機の場面をたくさん映像化しているのである。また、「この時期に製作されたエノケンの孫悟空では、孫悟空が乗るのが金透雲ならぬ飛行機で、これもユニークな発想で面白い。

この当時は現代のように、国民のすべてが飛行機に乗って自由に旅行できるような世界は夢のまた夢であった。英二氏の役目は、自分の子供の頃がそうであったように、多くの日本の少年達が憧れている飛行機の夢を、自身の映像によって疑似体験させてやる事だったのかも知れない。

今から50年以上前の、戦前の作品の中にあっても、自由に飛び回る戦闘機や雷撃機には操演の糸は見えない。つまりこの時期からもう飛行機を描いてみせる技術は確立していたわけである。

戦後の作品になると、飛んでいるのはレシプロ機からジェット機やロケット、果ては宇宙船や円盤担った。それでも基本は同じだから、戦前の技術は充分生かせたと思う。私たちも、怪獣退治に向かうビートルやウルトラホークに夢を馳せていたのである。

一方怪獣映画においては、昭和31年「空の大怪獣ラドン」が秀逸である。昭和29年のゴジラは、日本初の怪獣映画という事で実験的な特撮が多く行われていた点、また、この映画だけの特徴ではないが外国映画のハイライトをまねたとしか思えない映像が見られる等のマイナスポイントと言えなくもない特徴があったが、ラドンはすべてが秀逸であった。空を飛ぶ大怪獣、当時はそういう発送が珍しかったソニック・ブーム(衝撃波)、自衛隊機との空中戦、乱れ飛ぶ瓦屋根、こういった特撮の要素があまりにも素晴らしくリアルに表現され、特撮映画の最高峰といっても間違いではない。

また、この翌年の「地球防衛軍」も飛行機の夢が展開された映画であった。本格的SF映画として公開されたこの作品は、宇宙人の円盤と、地球防衛軍の新旧の兵器との闘いをメインに据えたドラマである。当時のSF映画が外国ものを含め宇宙人と人類との複雑なドラマに主眼をおいたのに対し、この映画は地球軍対ミステリアンのドカドカとした闘いが中心であり、特に空中戦が堪能できるものであった。

ちょっと長くなったが、結局のところ英二氏は「大空への夢」を、映像の世界で多いに開花させた人であった。それは、結果論としては単なるパイロットとしての人生よりは遥かに実りがあり、自身が少年時代に夢を描いたのと同じく、多くの後輩達に空への夢を描かせるには充分であり、映画とはその最高の手段でもあったと思われる。

自著で書いたことがあるのだが、初めて飛行機に乗り、下界を見下ろした時、この景色はかつて見たことがあると感じたことがあった。上空から田圃を見ると、一つ一つ区切られた田圃が、一つづつのコマごとに、絵の具で染めたように色が均一であり、ミニチュアのように見えるのである。こういう事は自身が体験できたから映像化できたのである。こういう点でも画期的であり、最初期のカメラマンの中では、唯一、英二氏は空から降りてきたカメラマンだったのである。

あきら氏によると、「ニッポン・ヒコーキ野郎」の企画は昭和39年頃からのもので、これもやはり5、6年過ぎても完成しなかったことになる。英二氏の命を受け、あきら氏は本田技研の航空部に行って資料をもらってきたこともあるという。「かぐや姫」と同様、これも絶対に譲れない分野だったという事か。

 

その後の円谷プロ

「日本・ヒコーキ野郎」を未完にして、英二氏は昭和45年1月25日、突然帰らぬ人となってしまった。

これで困ったのはまず、円谷プロの赤字であった。「作品の制作費がかさみ、5億ぐらいになっていた。」との事だったが、その後は本当に大変だったみたいだ。しかし、そこは当初赤字であっても色あせないヒーローの強みがあり、徐々に挽回していって後継のウルトラマンも多数登場した。

英二氏は亡くなったがその作品はいつまでも残る。特に、ヒーローとしてのウルトラマンはその後の少年達の通過儀礼にもなっている。また、自国でも新版ゴジラが作られるほど熱心なアメリカでは、テレビではいつでも日本の怪獣映画をやっているのである。

 

円谷あきら氏にはお忙しいところ時間を割いていただいて本当にありがたかった。知られていない英二氏の部分に関し、まるで空欄を埋めていくように質問が出来て、しかもそれに確実にお答えいただいたのは大変助かった。結婚のこと、宗教のこと、人間関係のこと―――。良い話、悪い話を含め、これでほぼ英二氏の一貫した人生の流れがわかった様にも感じた。

また、円谷英二氏の事もさることながら、もし次回お会いできたら、あきら氏にはあきら氏の独立、なぜ円谷映像を設立したのか、という経営者としてのお話を是非うかがいたいとも思っている、

円谷あきら氏にはこれからのご活躍に期待したい。また、お話の中で出てきた円谷映像のヒーローが早く完成して、我々の前に登場する日を心待ちにしております。

5時半ぐらいまで続いたお話は終了し、私はこの後フィルムを返しに円谷プロへと向かった。皆様のご協力に心から感謝いたします。

(それにしても、円谷英二関係の方々どうしてみんなワープロで出せない文字の名前なんだろう。円谷あきら氏、満田かずほ氏といった方が難しい字でいるのはなんだか不思議な引き合わせを感じる。そう言えば、円谷氏も最初は「エンタニサン、エンタニさん」と呼ばれていたという。)