福島民報版・円谷英二伝(9)初のカメラマン作品「稚児の剣法」

9、初のカメラマン作品「稚児の剣法」

 

 衣笠貞之助がヨーロッパへ旅立った後、師匠を失った英二は松竹下加茂所属となり、ここでも映画作りに没頭していた。英二のがんばりは周囲に注目を集めるところとなり、撮影においてもいろいろなアイディアを出して、次第にスタッフから信頼を集めるようになってきた。

 そういう英二に、またとないチャンスが到来した。

松竹に芝居の世界からとびきりの二枚目俳優がやってきた。林長二郎、後の長谷川一夫である。この逸材をどうしようかと松竹幹部は考えたが、脚本家として活躍していた犬塚稔に監督もさせ、初監督作品にする事にした。

犬塚稔は、それまで脚本しか担当していなかったが、この抜擢を承諾したものの、今までロケ現場など出たこともなく、現場を知らない事が不安だった。このため、カメラマンはキャリア豊富な人材にしようと考えた。

犬塚は当時松竹で一番活躍していたカメラマンの杉山公平にこの相談を持ちかけた。多忙な杉山は自分は出来ないと断りながらも、「それなら円谷がいいですよ。」と、英二を推薦した。名も知らぬこの新カメラマンに犬塚は当惑したが、杉山は「是非やらせて欲しい。私が保証するから。」と勧めるばかりである。犬塚は不安を感じながらも、これを受け入れることになり、かくして主役も、監督も、そしてカメラマンもすべてがデビュー作となるこの作品は、「稚児の剣法」というタイトルに決まって撮影が開始された。

撮影では一番のキャリアを持つ英二が現場を取り仕切った。英二は短期間で映画の技術を学び取り、充分な知識と能力を得てこの初カメラマン作品に臨んだ。芝居だけで、映画の撮影には慣れていない長二郎はしばしば演技がもたつき、英二が怒鳴りつけるような事もあった。英二のリードが大変を占め、「稚児の剣法」は遂に完成した。

 松竹では、林長二郎のデビュー作を新人達に任せたものの、別のベテランスタッフで「御嬢吉三(おじょうきちざ)」という作品を製作することにした。せっかくの逸材をもしデビュー作で失敗させたら大変だという判断であった。

 ところが、「稚児の剣法」は社内で行われた試写において、あまりの出来の良さにスタンディングオベーションが起こるほどの作品に仕上がっていた。やがてこの作品は公開されるや大ヒットとなり、英二もこれでようやくカメラマンとして一本立ちする事になった。

 この作品で一緒に仕事をした犬塚と英二は、この後、ともにサイレント時代の時代劇を数多く製作し、強力なコンビを組んでトーキー時代まで一緒に仕事をする重要なパートナーとなった。また主役の林長二郎とも、英二は晩年まで付き合い、時代劇と特撮映画という全く畑違いのジャンルで仕事を行いながらも、時折会っては旧交を暖めていたという。

 

 ようやく映画人らしくなった英二だが、この頃から既存の映画技術ばかりでなく、より素晴らしい映像を求めて自分で研究をするようになった。この頃、映画の撮影はスタジオよりももっぱらロケが中心だったため、雨が続くとロケ地での滞在費もかさみ、映画そのものの企画が中止されてしまうことも少なくなかった。そこで、英二はスタジオの背景を工夫し、あたかもロケをしているように見せることを行った。また、動かない背景では臨場感がないと考え、スクリーン・プロセスという技術も開発し始めた。

 師匠に教えられたように、既存の撮影には満足せず、常に前進する姿勢を持っていた英二であったが、こういう進歩的な発想が必ずしも周囲に受け入れられるというわけではなかった。英二は技術を説明して会社側に予算を出してもらおうとしたが、「そんなトリック技術は外国映画にまかせておけばいいんだ!」と全く相手にされなかった。このため、英二は自腹を切って研究費を捻出しなければならなかった。

 この時代、映画には音がなく、各映画館では活弁士が活躍していた頃であり、映画史においても初歩的な時代といえた、こういう時代であっても、英二は映像に関する研究を怠っていなかったのである。

 

犬塚稔―――明治34年、英二と同じ年に生まれた犬塚稔は最初脚本家となり、後に監督もこなした。英二がカメラマンとなって多くの作品に関わったが、戦後は脚本家にしぼって活躍し、「座頭市物語」などの名作がある。今年100歳、自分をまだ現役であると名のり、まだまだ健在である。

 

スクリーン・プロセス―――演技をする俳優の背景を大きなスクリーンにし、後ろからあらかじめ撮影しておいた背景の映像を映写する一種の合成技術。後のSF・怪獣映画などには欠かせないテクニックと言える。