福島民報版・円谷英二伝(10)結婚・トーキー時代の到来

10、結婚・トーキー時代の到来

 

 「稚児の剣法」の成功で一本立ちのカメラマンとなった英二は、脚本家で監督の犬塚稔とともに次々と時代劇を撮影していった。

 この時代、英二にもロマンスが生まれた。ロケ風景を見学に来ていた荒木マサノという女性が、活発に動き回る英二の仕事ぶりに興味を持ち、その後何度も来るようになった。まさのは、父親がトンネル工事などで全国を廻っているエンジニアで、ロケを見に行ったのは、京都に一家で移っていた時期であった。二人は次第に親密になっていったが、ある日、英二が自分で作った木製のカメラスタンドの上で撮影中、スタンドがカメラと英二の重みで壊れ、転落した英二が入院するという事件があった。負傷した英二は入院したが、毎日看病に来たマサノの献身的な態度に感心し、遂に結婚を決意するのである。

 しかし、映画漬けの人生を送る英二は、結婚式の次の日にもロケ地に出かけてしまう有様だった。マサノ夫人は英二の実家から送られて来たお祝いの餅を、泣きながら一人で食べた経験もあるという。また、英二は天才肌、職人肌といった性格であったから金銭感覚に乏しく、 給料日になると弟子達を連れて酒宴を開き、その日のうちに使い切ってしまうようなこともあった。このためマサノ夫人は給料日になると英二と一緒に給料を受け取りに行ったという。マサノ夫人は、映画人としては優秀でありながら、だだっ子のような英二と結婚し、当初は大変な苦労をしたようである。

 結婚によって英二の生活も変化した。「石にかじりついても映画界で成功するまでは帰らない。」と誓って家を飛び出した英二だったが、カメラマンとして認められ、結婚もしたことで故郷・須賀川との連絡が増えるようになった。マサノ夫人は気さくな人柄で英二の実家からも好かれ、英二と実家との関係もますますうまくいくようになった。

 映画界にも大きな変化があった。それまでの映画は無声で、映画案で弁士が活躍していたが、1927年にアメリカで初めての音付き(トーキー)映画、「ジャズ・シンガー」が製作されてから、各社はトーキーを研究するようになった。日本では1931年、「マダムと女房」が最初の作品となった。

 松竹では、日本で第3作目となるトーキー映画の製作を、犬塚と英二のコンビに任せた。犬塚は「怪談・夕凪草子」という脚本を書き、作品が製作されていった。

 ところが、これは当時の映画人にとっては大変な事だった。トーキー用の機材は、漠然と輸入されて現場に届けられただけであり、そのノウハウなどには全く触れていなかった。現場のスタッフは手探りでこの新しい分野に挑戦していかなければならなかったのである。

 当時のフィルムは映像と音を同時に撮る一発撮りだったため、野外では雑音が大きくて撮影できなかった。また、スタジオで撮っても、カメラの音がカタカタと鳴り、耳障りであった。

 英二はここでアイディアを出し、カメラにドテラを着せ、音を防いだ。これでもダメだとなると、今度はガラスの部屋を作り、その中にカメラを入れてそこから撮影し、マイクだけ外に出して撮影した。英二は持ち前の才能を発揮し、この映画界の新しい波に応えていったのである。

 ある日の撮影の時、雑音を立てないようにスタッフが慎重に作業を行っていると、風流な小唄の音色が聞こえてき た。スタジオの隣は、小唄の師匠の家があったのだった。英二らはこれは利用してやろうとばかり、小唄の練習の日を選んで撮影を行い、BGMとして無断借用することに成功した。

 映画技術発展の裏には、人知れぬ先人の苦労がある。英二もまた日本映画界の技術発展に貢献した一人であった。円谷英二といえばゴジラやウルトラマンなどの特撮・怪獣映画を誰でも想像するが、実はこういった一般的な技術の中でも大きな貢献をしていたのであった。無声映画からトーキーの時代への変革の時代、英二らはアイディアを絞って新しい道を踏み出していったのである。

 英二らの努力により、松竹がトーキー技術を開発していったことにより、他社もトーキー映画の製作に踏み出すようになった。この新技術は映画会社にとっては不可欠のものになっていったのである。英二らは当時数少ない技術者として注目されたが、同時に他社も英二の技術が必要になってきた。