福島民報版・円谷英二伝(12)JOでの排撃

12、特撮への道

 

 大沢善夫というよき理解者を得て、時代劇漬けの映画作りから解放された英二は、新しい映画会社JOにおいて、よ り密度の濃い研究を行うようになった。折しも、映画界はトーキーの時代を迎えており、大沢は英二にスクリーン・プロセスの研究を命じ、費用も会社が負担するようになった。

 今まで会社の理解を得られず、自費でスクリーン・プロセスの研究を行っていた英二にとって、これはありがたい事であった。この様な協力もあり、英二のスクリーン・プロセスは一応の完成をみたのである。

 ちょうどその頃、世界の情勢は今までにない不安な方向に向かいつつあった。ドイツではナチスが勃興しており、そのナチスと日本が日独防共協定を締結したのである。

 ナチスのアーリア人至上主義政策の中では、日本人は下等な民族であり、その民族と友好になるのは彼らの思想上、 矛盾を抱えることになった。時の宣伝相ゲッベルスは、この問題を解決するため、日独合作映画を製作して、サムライの国、ニッポンを印象づけ、ニッポンのイメージを高める事を考えたのである。

 この合作映画では、日本側のスタッフに英二も付く事になった。山岳映画の巨匠とうたわれたアルノルト・ファンク監督らドイツ側のスタッフとともに、約半年間、日本中をロケして廻ることになった。

 英二にとって、海外の映画人と仕事をするのは今回が初めてであった。若い頃から師匠達に「いつか海外の作品に、 負けない映画を・・・。」と姿勢をたたき込まれていた英二は、海外のスタッフを相手に発憤した。映画技術もさることながら、ドイツ人スタッフがビールを持ち込むと、自分も負けずに飲み、飲み比べでも負けない意地を見せるほどであった。

 また、ドイツ側スタッフがフィルムを無駄にするのを、英二は黙って見ていられなかった。ドイツ人はカメラを構えていないときでも、回したままでいる事があった。ある時、英二は腹に据えかねて、廻ったままのカメラを自分で止めてしまった。

 「何をするんだ!」

 「フィルムを無駄にするな!」

 外人が相手でも、英二は一歩も引かなかった。むしろ外人が相手だと、闘志を燃やすタイプであった。

 こんな事もあったが、英二はこの作品の中で完成したばかりのスクリーン・プロセスを活用し、難しい映像作りに成功した。ドイツのスタッフはその機械に驚き、「ぜひ一台ドイツに送って欲しい。」と申し出たほどである。ナチスの人種主義も、この時ばかりは英二の技術に形無しだった。

 この合作映画は「新しき土」という題名で放映されたが、英二はこの後に、当時人気絶頂の市丸を主人公にした「小唄礫・鳥越お市」という映画を初監督し、いよいよ映画人生も充実したものになってきた。

 昭和12年、JOはPCLと合併、新たに東宝となって、英二は東宝東京撮影所勤務となった。これにより、英二は久々に東京の地を踏むことになった。

 ところが、ここでもまた問題が起こった。鳴り物入りで上京した英二に職を取られてはかなわないと、古株が結託して英二に仕事をさせなかったのである。英二はまたしても映画界の旧体質に直面することになった。

 こんな時、助け船を出したのは東宝の重役である森岩雄であった。このまま英二が仕事もできない状態でいるのはまずい。まずは国から依頼のあった、皇族を中心とした映画を作る撮影を英二に任せ(「皇道日本」という名で完成)、次いで、社内に特殊技術課を新たに開設し、英二をその課長に任命した。

 特殊技術課、と聞けば、怪獣映画や戦争映画を連想させ、英二に最も向いている仕事であるように感じられるが、当時はその様な作品はなく、完全な裏方であった。「鳥追お市」でようやく監督の座に上り詰めた英二にとって、これはあまり嬉しい申し出ではなかったのだが、 当時、スクリーンプロセスの第一人者であった英二に代わる様な人材がいるわけでもない。英二はこの申し出を受け入れることにした。

 特殊技術課と言っても、部下がだれもいるわけでもなかった。英二は早速「阿部一族」、「田園交響楽」といった文芸作品に協力し、スクリーンプロセスを活用したのである。

 この様ないきさつにより、英二は映画監督への道を断念し、特殊技術の道を歩むことになった。しかし、この後に戦争映画の様な特撮の必要な作品を多く製作する時代が来て、その技術が活躍する舞台が待っているのである。