福島民報版・円谷英二伝(13)ハワイ・マレー沖海戦

13、ハワイ・マレー沖海戦

 

 特殊技術課長となり、監督への道から離れた英二だったが、世情は戦争への道を進んでいた。当時国民の最大の娯楽であった映画は国家の統制下に入り、映画法が制定され、戦争映画というジャンルが登場した。

 英二がまず取り組んだのは昭和15年「海軍爆撃隊」という作品だった。英二はこの作品で初めて、ミニチュアの軍機を製作して撮影したが、初めての試みはあまりうまくいかなかった。同年には「燃ゆる大空」という作品の特殊技術を担当したが、この作品は陸軍の協力の下、実際の軍用機により撮影したので特撮は飛行機が墜落する場面程度のものであった。

 しかし昭和17年、太平洋戦争に入った後の「南海の花束」では、英二の特撮技術が大いに生かされる場面が登場し た。この作品は南洋に新航路を求める航空会社の話で、戦争映画というカテゴリーに属すものではないが、多くの飛行艇が自社とミニチュアを合わせて登場し、 悪天候の中、飛行機が飛ぶ場面などは秀逸な出来であった。

 この年、海軍は東宝に、開戦1周年を記念し、真珠湾攻撃を映画にした作品を制作するようにとの命令を出した。また、しばらくしてマレー沖海戦の戦果もあり、「ハワイ及び、マレー沖海戦の映画を作るように。」という事になった。

 英二らはこの作品に取り組もうとしたが、海軍では軍事機密ということで、軍艦も飛行機も、一切英二らには見せてはくれなかった。「実物が見れないのでは、映画を作りようがないではないか。」と海軍に詰め寄ると、「君たちは実物も見ないで、竜宮城でもなんでも作るじゃないか。」と反論される有様であった。

 この様な状況下、英二はわずか4センチ四方の真珠湾の写真をもとに、精巧な真珠湾のミニチュアを製作していった。また、日本の空母は、アメリカの雑誌「ライフ」に載った米軍空母を参考に製作した。爆撃されるアメリカ戦艦などはブリキで製作したが、これも、戦時下の物資不足で、あちこちからかき集めてきた材料で補った。

 こうして、ようやく開戦記念日の12月8日に間に合った「ハワイ・マレー沖海戦」は、上映されるや大人気となり、国民のほとんどが見たといわれる作品となった。

 この作品は、海軍を志願した二人の青年が、ともに励まし合いながら予科連や海軍兵学校で鍛え上げ、クライマックスでは遂に真珠湾攻撃、マレー沖での英戦艦撃沈という場面が登場する。正味2時間という長い映画だが、ほとんどの部分は予科連と海軍兵学校で練習に励む主人公らの訓練風景が延々と描かれ、最後の十数分のみが特撮スペクタクルを堪能できる。長い長い前振りを待たないと大活劇が見られないというものだが、熱心な予科連での訓練の末、大手柄をたてられるという展開は、この時代の戦争映画作品に多く見られる筋立てであり、クライマックスの大活劇を盛り上げるのには最も効果的である。

 開戦1周年記念映画として製作されたこの作品は、国民のすべてが見た映画という様な評価もあり、実質的な英二の関連する作品としては国内では最大のヒット作と言えるものである。英二の特撮は十分な効果を上げており、周囲の期待にも十分に答えている。この作品の中では特殊技術は決して本編を支える添え物ではなく、人間ドラマの末にクライマックスとして主役の座に座っている。始めて英二の特撮は俳優を食うほどの活劇として存在し、観客はそれを見るために映画館に集まったのである。

 しかしながら、観客はこれら特撮場面を高度な映画技術の結晶として堪能したのではなく、海軍の輝かしい成果として見たのである。この時代には映画技術について語るのはごく限られた映画関係者だけであり、観客は英二の技術に期待したのではなく、日本の勝利を見るため に集まったのであった。

 これだけの成功にも関わらず、戦後英二はこの作品について多くを語ろうとはしなかった。作品としては非常に成功 しているが、その映画の戦意高揚性、国民を戦場へと向けた力は相当なものだった。後に監督の山本嘉次郎は「あの映画を見て、予科連を志願した人がいると思うと、また、あんな映画がなければ、うちの息子は死なずに済んだのに、と考えると…」と語っているが、その言葉がこの作品の功罪をすべて表現している。国民の最大の娯楽であり、最高の威力を持つメディアであった映画の力は大きかった。この作品は結果として多くの若者を戦場に連れ去ったのである。