福島民報版・円谷英二伝(16)苦闘の追放時代

16、苦闘の追放時代

 

 公職追放指定となった英二は、3人の子どもを抱えまず生活安定を考えなければならなかった。英二自身、「もし、 映画界にいられなくなったら・・・。」と、以前から考えていないわけでもなかった。英二は昔、おもちゃ会社にいたことを思い出し、進駐軍が乗り回していた ジープを見て、そのおもちゃを製造することを思いついた。職人を数名雇い、作られたおもちゃはデパートに納品されていった。

 また、戦前に映画研究の資金づくりにしていた即席カメラにも着目した。今度は誰もいなくても、無人で撮影、焼き 回しが出来る機械を発明したのである。これは東京のデパートにまず置かれ、地方のデパートからも引き合いが来た。現在、あちこちにある証明写真機の走りの ような機械だったが、構造上問題が発生し、長くは続かなかった。

 そうしているうちに、映画会社から特撮部分の注文がやってきた。映画作品には、どの様なものでも必ず特殊撮影を 必要とする場面があり、こういうところは英二がいないと大変困ったのである。英二は自宅に非公式ながら「円谷特殊技術研究所」を設立し、進駐軍にばれない ように特殊撮影を続けた。ここに、新しく弟子も集まり、ともかくも英二は映画の仕事に復帰するようになった。

 公職追放指定は、日本においては決して映画人を完全に映画界から追放するものではなかった。とにかく映画の仕事をしているところを進駐軍に見られなければ良かったのである。

 しかしながらこの時代、英二の仕事は決して芳しいものではなかった。各映画会社から、本当にわずかな特殊撮影部 分を、拾い集めるようにして撮影するのが英二の仕事だったのである。独立プロが撮影した「箱根風雲録」という映画では、江戸時代に治水工事が成功して農民 が喜ぶという場面を、英二らが近所の畑に溝を掘り、そこへバケツで水を流して撮影し、後で人が演技する場面と合成した。ろくに金もなかったので、こんな粗 末な撮影を行うよりなかったのである。

 この時代、大映において、英二の特撮を大いに発揮できる題材の映画が企画された。昭和24年「透明人間現わる」である。

 京都で撮影されたこの作品に、英二は全力を挙げて取り組んだ。「透明人間」は、アメリカで既に映画化されてお り、「キンゴコング」とともに大変な話題となった作品だった。少ない予算、限られた時間、粗末な設備・・・。あらゆるハンディを乗り越えて英二はこの作品 の特撮部分に挑んだ。

 この作品の出来如何では、英二は大映に入社することも検討されていた。この時代、生活の安定が最高の目的であったから、英二は何とかがんばり、大映に弟子達とともに迎え入れてもらえようとした。

 だが、大映幹部の評価は決して高くなかった。作品は決して悪くなかったが、幹部は英二ならもっと凄いものを・・・と期待していたのである。幹部達の顔をうかがい、納得していないことを悟った英二は大映入りをあきらめた。

 こうしている間に進駐軍は去り、映画界への統制がなくなると、各映画会社は一般受けする戦争映画などを製作した。英二もまた追放指定解除となり、