福島民報版・円谷英二伝(17)怪獣映画の企画

17、怪獣映画の企画

 

 再び東宝の地を踏んだ英二が取り組んだ作品は、東宝戦後初の本格的戦争映画、「太平洋の鷲」だった。この作品は 英二ならではという特撮場面を提供して気を吐いたが、「ハワイ・マレー沖海戦」からのフィルムの流用が目立ち、マスコミの反応は決して良くはなかったが、 興行的には大ヒットとなり、当時流行していた戦争映画の中でも一番の人気作品となった。

 さて、この頃東宝では、独立を果たしたインドネシアを舞台に、終戦後に現地へ残り、インドネシア独立のために 闘った元日本兵の作品が企画されていた。日本とインドネシアの合作大作、「栄光の影に」である。ところが、この作品は政治的背景でインドネシア側の同意を 得られず、企画は突然中止になってしまった。

 大作映画の突然の中止は、東宝幹部をあわてさせた。「何とか別の作品で補わないと・・・。」製作を担当していた田中友幸は、すぐに次の企画を立てなければならなかった。

 この頃、アメリカでは空想科学映画、後のSF映画が大変な流行となっており、奇抜な作品が次々と製作されていた。その中であまりヒット作とは言えなかったが、太古の恐竜が原子爆実験によって甦るという「原子怪獣現る」という名の作品が田中の目にとまった。

 折しも日本では、昭和29年3月1日、ビキニ環礁において日本の漁船、第五福竜丸が死の灰を浴びるという悲劇が 起こっており、唯一の被爆国であるという現実と併せ、核の恐怖は世界のどこよりも深刻な問題として感じられていた。「このテーマなら、日本の方がすばらし いドラマを作ることが出来る。」田中は直感した。

 そして田中の頭の中には、この作品に大きく介在するであろうもう一人の人物が浮かんでいた。「円谷さんの技術を 持ってすれば、アメリカ映画に匹敵するくらいの作品になるかも知れない・・・。」当時まだ、英二の技術は認められているというほどのものではなかったが、 「ハワイ・マレー沖海戦」の英二だから、あるいは、という気持ちが田中にはあったのである。

 東宝ではすぐに企画会議が開かれ、英二を東宝に呼び戻した森岩男はこの企画に大賛成し、早速この作品の計画が進められるようになった。題名は「ゴジラ」と決定し、幻想作家の香山滋が原作を書くことになった。

 英二はこの作品が企画されるや、これを千載一遇のチャンスと読んだ。これまで、戦争映画などで特撮の腕を披露し た英二であったが、史実を再現する特撮は、多くの観客には特撮の技術を評価されることはなかった。現実に存在するはずのない怪物を表現するのなら、初めて 自分の真価を問うことが出来る。

 多くの師匠から映画技術と、その思想をたたき込まれ、映画一筋に捧げてきた自分の人生であった。ここで成功しなければ、二度とチャンスはは来ないも知れない。英二は「よし、やってやるぞ!」と奮い立った。

 しかしながら、日本映画界にこの様な作品はかつてなく、テキストとなるものは何一つなかった。すべては手探りで あった。英二の元に集まったスタッフも、人数だけは100人近くになったものの、ほとんどが映画のキャリアもない素人だった。英二は寝食も忘れるほどこの 作品にのめり込み、工夫を凝らして各場面を製作することになった。

 人形を少しずつ動かして撮影するコマ撮りは、予算や時間の関係で出来ない。それではと発注したぬいぐるみは、重 さが100キロもあって俳優が入ると一歩も動けず転倒した。この様な試行錯誤の撮影が続いたため、スタッフは連日徹夜の繰り返しとなり、撮影は午前五時に やっと終了し、「ゴジラは5時だ。」とからかわれる有様だった。

 また、まだ認められていない特撮スタッフに周囲は冷たかった。隣では、すでに名声を馳せていた黒沢明が一番豪華 なスタジオで「七人の侍」を撮影している。「あんな風にやれて、うらやましいよなあ。」英二はスタッフにつぶやいたが、心の中では、「今にみていろ!」と 情熱を燃えたぎらせていたのである。

 日本初の特撮怪獣映画「ゴジラ」は、そのキャラクターが国民の誰もが知り、海外でも一番有名な怪物として知られ るほどになっているが、作品が企画された時点では、上記のように、他の作品の穴埋めとして立案され、アイディアも海外作品の焼き直しという程度のものでし かなかった。しかし、これをすべて覆してしまうのは、英二のこの作品にかけるすさまじい執念であった。特撮映画は本編と特撮が別々に撮影されるが、特撮を のぞきに来た本編担当の本多猪四郎は、英二のあまりの情熱に驚き、自分も負けてはいられないと発憤した。