福島民報版・円谷英二伝(19)怪獣映画時代の到来

19、怪獣映画時代の到来

 

 「ゴジラ」の記録的な成功によって英二は一躍認められることとなり、特撮映画は日本ばかりか海外でも売れる東宝のドル箱として続々と製作されるようになっていった。

 

 昭和30年には「ゴジラの逆襲」が製作された。企画自体はまさに二番煎じだったが、この作品で英二は初めて「特技監督」という、日本で初めての地位を与えられた。

昭和31年には特撮がもっとも成功した作品、「空の大怪獣ラドン」が発表された。「ゴジラ」で英二の特撮に負けな いような白熱のドラマを演出した本多猪四郎監督は、この作品では一歩引き、特撮スペクタクルをサポートする様な本編を作り出した。本多監督は山形県の出 身、同じ東北人で10歳年上の英二を立て、特撮に理解のある演出を行うことにより、以降、特撮映画では英二と最も組むことの多い監督となった。

 しかしながら、英二は怪獣映画の代表と呼ばれることを非常に嫌った。特撮をもっと幅の広い作品に活用しようと考 え、怪獣だけが特撮だと思われることには疑問を感じていたのである。実際、この時期には怪獣映画に限らず、様々な作品で特撮の腕を振るっているのだが、海 外でも人気のある怪獣ものはやはり注文が多く、会社の方針には英二も従わざるを得なかった。

 特撮の価値が認められた昭和30年代には、怪獣映画以外でも、最も充実した作品が多く登場した。昭和35年「ハ ワイ・ミッドウェイ大海戦・太平洋の嵐」では、戦時下の「ハワイ・マレー沖海戦」と同様の真珠湾攻撃場面を、今度はカラーでより進歩した技術を見せて表現 した。前述の「日本誕生」や「世界大戦争」と併せ、英二自身が自身の映画人生の中で代表作と公言する作品がこの時期に製作されており、技術の充実・成熟度 をうかがわせている。

 充実した英二の映画人生を、さらに喜ばせる出来事が起こった。長男、一(はじめ)の息子、昌弘(現・円谷プロ製 作本部長)の誕生である。元来子供好きだった英二は、初孫をことのほか喜んだ。幼いころの昌弘は病弱で、何度か入院することもあったが、そんなときにはど んなに忙しくても病院に駆けつけたという。

 またこの頃から、英二のもとにも怪獣ファンの子供たちからのファンレターも来るようになった。これは、初孫の誕生と、英二の心の中で重なっていった。この様な意識の変化が、その作風にも現れてきた。

 昭和37年、製作担当の田中友幸が、2年がかりでキングコングの版権を獲得し、日本を代表するモンスターのゴジ ラと闘う、大作「キングコング対ゴジラ」の企画がまとまった。作品は東宝創立30周年記念作品という冠までもらい、多額の予算が付き、特撮も思う存分でき るものである。

 ところが、英二はこの作品において、日米二大怪獣の果たし合いを徹底したコメディーとして描く方針で進めていった。多額な予算をかけた大作にも関わらず、英二の考えは周囲をあわてさせた。

 「監督、私は反対です!」当時の一番弟子、有川貞昌が周囲の意見を代弁した。これだけの大作をコメディーにすることはないではないか。2年がかりの苦労で版権を得た企画だし、本編の本多監督も否定的だ。これはいくら師匠でも賛同できない。有川の主張はもっともであった。

 「いやあ、これでいいじゃないか。」英二の反応は意外とあっけらかんとしたものだった。怪獣が子供に喜ばれるなら、むしろそうやって子供向きに作った方がいい。当時の英二の考え方はこうだった。観客の視点を、子供たちに向けて考えていたのである。

 ただ、この作品の描き方には、英二なりの計算もあったことも確かである。怪物どうしの闘いには日本のぬいぐるみ方式ではどうしても限界がある。「ゴジラの逆襲」という作品でそれを知っていた英二は、今度は思い切ってプロレス調の闘いを描いていったのである。

 怪獣映画がシリアス路線を外れ、子供向きになっていったことには異論があるが、この時期の英二は、特撮のプロと してリアリティーを追求していたのではなく、映像をファンタジーとして考え、観客に喜ばれるものを提供していった。事実、「キングコング対ゴジラ」は、怪 獣の動きはコミカルではあるが、特撮は決して手抜きでなない。観客に喜ばれるものを真剣に製作していったのである。

 英二の子供に向けられた愛情は以降も続いていった。「子供が見てるんだ。残酷な場面は見せるな。」、「子供の夢を壊すような事はするな。」英二は弟子たちに語り続けたという。