福島民報版・円谷英二伝(20)円谷プロの設立

20、円谷プロの設立

 

 怪獣映画の成功により、一般にも認められた英二ではあったが、怪獣・SF映画が海外で人気があることにより、企画はいつも海外のバイヤーからの注文を付けられ、英二は決して理想の作品を撮影しているわけではなかった。

 昭和33年「大怪獣バラン」という映画は、アメリカのテレビ用の企画であり、方針の変更で急に劇場用として作り 直された。昭和36年「モスラ」は、ラストシーンが九州の山麓だったが、海外バイヤーの意見で外国の都市のシーンに取って代わられ、丁寧に作られた特撮 シーンは丸ごと廃棄された。昭和39年「フランケンシュタイン対地底怪獣」は、これも海外からの注文で山の中に大ダコが登場するシーンが付け加えられた。 「山の中にタコが出るか!」スタッフはあきれた。

 この様なことが頻繁に起こったため、「理想の映画作りが出来ない。」と、英二は不満を感じるようになり、周囲にもそれを語るようになった。「円谷さんは独立するんじゃないか・・・。」撮影所ではそんな噂が立ち始めた。

 こういう折り、アメリカのプロダクションから東宝にアニメの企画を持ち込まれた。俳優のカーク・ダグラスが興し た会社だが、日本のアニメ技術に目を付け、制作を依頼してきたのである。東宝はすぐ断ったが、アニメを特撮の一要素として重要視していた英二は、戦時中か らの付き合いのある鷺巣富雄に連絡し、アメリカ側と交渉を開始した。結局これは実現しなかったが、後に独立する大きな原動力になった。

 昭和38年、しばらくは国民の最大の娯楽であった映画も、ついに斜陽の時代を迎えるに至った。観客動員数は次第 に減り、新しいメディアはテレビに変わりつつあった。各映画会社はこの危機を打開すべく、人気シリーズものの量産体制となった。英二の特撮映画も今までの 倍の製作本数になった。ただでさえ不満を持っていた英二にとって、この変化は独立を思い立たせるするきっかけともなっていった。

還暦を迎えた英二は、この辺が自分の映画人生の最後のチャンスになることを考えていた。映画に代わるテレビの存在 に注目し、息子たちは映画に進まず、テレビ局へと就職させていたのである。英二は東宝に勤続する市川利明を呼び寄せ、自らが設立する株式会社円谷特技プロ ダクションの支配人にしたのである。昭和38年4月12日、円谷プロが旗揚げし、英二は自ら社長となった。

新興の円谷プロでは、テレビ界に進んだ息子たちが、それぞれの職場から前途有望な若者たちをたくさん円谷プロに招 き入れた。市川支配人と若い新人たちが円谷プロ初期の体型を作り上げていった。飯島敏宏、上原正三、そして、中心となって活躍した沖縄出身の金城哲夫ら は、来るべきテレビドラマのシリーズのため、脚本を書き上げていった。

しかしながら、英二は自ら独立していくために重要な事を怠っていた。東宝に対し、自分が独立する旨を全く告げない ままに会社を設立してしまったのである。「英二、独立!」寝耳に水の情報に東宝も慌てた。この時点では円谷プロはテレビでのみ仕事をするとは決まっていな かったので、他の映画会社に東宝の独占であった英二特撮が流出する恐れもあった。東宝幹部は英二を説得し、東宝も資本参加することによって子会社的存在に することに成功した。

 また、独立に当たって、テレビで活用させるべく、アメリカから当時の金額で4000万円もする画面合成の機器、オックスベリー・オプチカルプリンターを勝手に発注してしまったのである。これはフジテレビにおいて、「woo」という新番組作成の見通しが立ったことで購入を決めたのだが,この[WOO]はとん挫してしまい、支払える見通しが立たなくなってしまったのである。

 この危機は長男の一がTBSにおいて新番組の契約を取り付け、TBSがこれを購入してもらうという事で乗り切った。TBSの企画は「アンバランス」という名前でスタートしたが、後に「ウルトラQ」となった。

 映像を作らせれば誰にも負けないような技術を持ち、どんな場面でも作ってみせるプロ意識を持っていた英二であっ たが、会社経営に関しては全く素人であった。古巣に独立を全く告げなかった事、採算を考えないで機材を購入してしまうことなどは、英二の性格の一端を物 語っている。

 前途多難でスタートした円谷プロではあったが、若い人材の力はこの頃から爆発し、空前の怪獣ブームがやってくるのである。