福島民報版・円谷英二伝(25)英二の死

25、英二の死

 

 英二は京都の時代、マサノ夫人と出会い結婚したが、献身的に英二に尽くす夫人に対し、夫としてほとんど何もする事が出来なかった。苦しい時代を支えた夫人にやっと恩返しが出来た事は、晩年、伊豆に別荘を建てたぐらいであった。

 あまり贅沢らしいことをしなかった英二だが、晩年には疲れ切った自らも静養する意味も兼ねて、伊豆の浮島に別荘を買った。映画一筋の人生だった英二にとっては珍しい出費だった。

夫人と二人でそこへ出かけた英二は、夜になってから夫人を庭に出し、ある場所へ立たせた。そして、自分は中から別 荘の電気をみんな点灯して夫人に見せ、「どうだ、きれいだろう。」と自慢したという。夫人の立った場所からは、別荘が最もきれいに見えた。ビジュアルの専 門家であり、絶妙のアングルをとらえることのできる英二らしいエピソードだが、それは、自らの運命を悟っているかのような行為であった。

 昭和44年、昨年製作した「連合艦隊司令長官・山本五十六」に続き、815シリーズと呼ばれた東宝の大作戦記シリーズの第二弾は、日露戦争を題材にした「日本海大海戦」という作品であった。

 日本海海戦をクライマックスにしたこの映画は、英二の代表作といってもいい出来映えに仕上がっている。連合艦隊とバルチック艦隊の壮絶な激突を特撮で描ききった英二は、過労の中、他の作品よりも情熱を持って撮影を行っていた。

実はこの日露戦争は、英二にとって思い出深いものであった。明治34年生まれの英二にとって、明治37年に勃発し た日露戦争とその大勝利は少年時代の最も大きな出来事であった。英二は須賀川にも何度もやってきた活動写真の巡業でこの戦争に関連する映画をたくさん見て いたし、子供のころに最も夢膨らませた活劇でもあった。

 大作の一場面づつを丹念に製作していく英二には、少年時代の思い出が脳裏をよぎっていた。幼い日、須賀川で、日本軍の大活躍を活動写真で見たものだ。そしてそれを今、自分が映像化している・・・。原点回帰とも言えるこの映画が、実は英二の最後の作品になってしまった。

 

 昭和44年11月、英二は来年(昭和45年)に迫った万国博覧会の三菱未来館で行われる映像展示の撮影のため鳴門へロケに行った。この時体調を壊し、無理をして撮影を強行したためよけい悪化し、帰るとすぐに入院し、以後は別荘で静養するようになった。

 昭和45年は、英二にとって静養先で新年を迎える事になった。この頃の英二は、「ニッポン・ヒコーキ野郎」という映画を作ろうとして、自らその脚本を書いていた。

 英二は円谷プロ独立に際し、「これからは映画会社の企画に関係なく、自由に作品を作りたい。」という希望を持っ ていた。東宝時代のように海外の怪獣映画の注文にばかり応えているのではなく、特撮をもっといろいろな作品に生かし、幅広く多くの作品を製作したいと考え ていたのである。折からの怪獣ブームにより、円谷プロは「怪獣」にあまりにも拘束された作品製作を余儀なくされてしまったが、実は英二自身、もっといろい ろなテーマに挑戦したかったのである。

 英二の企画、「ニッポンヒコーキ野郎」は、英二が若い時分に日本飛行機学校で経験した様々なエピソードを散りば め、日本飛行界黎明期の苦労を描いた企画であった。飛行機がやっと飛び始めた頃、先人には人知れぬ苦労や喜びがあった。本来英二の作りたかったのはこう いった作品であり、英二もやっと自分の時間が出来て、この様な作品にチャレンジすることが出来るのであった。

 しかし、この企画は中途でとぎれた。

 1月25日、静養期間も終わり、英二は体調もほぼ取り戻して明日には東京へ帰るという日だった、午後10時、突然発作をうったえた英二はそのまま床に伏し、帰らぬ人となった。享年68才であった。

 英二の死は突然のことであり、周囲を慌てさせた。葬儀にはかつての弟子たちや映画関係者が大勢訪れ、その死を悔やんだ。中でも昭和29年から「ゴジラ」の中に入り、ゴジラ役者として活躍した中島春雄は、「特撮は死んじまった。」とその死を悔やんだ。

 英二の死は突然やって来て、その映画界での活躍の割には、あまり語られることがなかった様にも思える。だが、 人々に夢を与えた人物はやはり夢の中にいるのであって、英二が亡くなっても作品はずっと見ることができ、語り継がれるのである。英二の夢は、実はこれから 広がるのであった。