福島民報版・円谷英二伝(26)永遠の命

26、永遠の命

 

 唐突に訪れた英二の死後、息子たちを初めとする後進も、必死で特撮の火を消すまいと努力した。英二の息子、一 (はじめ)が総指揮した「帰ってきたウルトラマン」は、かつてのウルトラシリーズを思い起こさせる力作であったが、この息子も英二の死後、わずか3年で亡くなり、後は次男の皐(のぼる)が引き継いだ。

 また、円谷プロを離れた特撮人も各地でその力を振るい活躍した。彼らもまた多くの作品を残していった。

 しかし、英二によって作られた「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」は、その後も何度も再放送され続け、現在に至っている。新しい特撮番組が次々と登場しては消えていく中で、英二の作った作品はずっと放送され、子供たちが見続けることになった。

 80年代に入り、家庭にビデオが常備品となると、ウルトラシリーズはさらに家庭に身近になった。子供たちは再放送を待つまでもなく、いつでもウルトラマンを見ることができるようになった。

 90年代に入ると、少年時代に「ウルトラマン」に強烈なインパクトを受けた人々が親の世代になり、生まれた子供はやはり怪獣ファンになった。ウルトラマンは日本で初めて、親子が一緒に楽しめるヒーローとなった。

 英二本人がもうこの世にいなくても、作品は永遠の命を持ち、いつまでも子供たちに愛されていく、世代が次から次へと代わっても、前と全く同じ様なインパクトを持って子供たちを魅了し続けるのである。

 また、英二の名を一躍世間に広めた「ゴジラ」は、その後も続編が次々に登場し、英二の死後も後進によって製作され続け、最近では最新のCGによってアメリカ版まで登場した。アメリカ版は本国でも批評の嵐だった。多くの人は「ツブラヤと違うじゃないか。」と不平を 言った。英二の名前と実力は、外国にまで浸透しているのである。

 

 円谷英二の生涯やその生き方は、この紙面では語り尽くせないものであり、興味を持った方は是非拙著を御覧いただきたいと思う。私たちと同じ地方出身で、地元に安住せず、厳しい道を選んだ青年期、現状を打破し、世界を相手にすることを師匠にたたき込まれた修業時代などは多くの人々、とりわけ若い世代には知っておいて欲しい事実である。

 

 円谷英二の人生には、夢、技、愛という重要な3つのファクターが考えられる。円谷英二の事業を推進している須賀川青年会議所も、この三つを中心に活動しているのである。

 円谷英二の人生は、小さな頃から将来の夢を大きく持ち、そしてその夢を実現しようと取り組んだ一生であったといえる。生涯が夢を実現するための連続であったのである現在、将来に夢を失っている若者が多くなっていると聞くが、そういう人たちには見習って欲しい事である。夢は安直に実現するものではなく、不断の努力が必要であることと、夢は立った一つの単調なものではなく、無限に広がっている事もふくめて。

 英二は映画界入りしてからいろいろな側面で日本映画界の技術発展に取り組み、多くの功績を残している。日本映画界のレベルを向上させたばかりでなく、自らもプロとしてのプライドを持っていた人物であった。どのような場面を提示されても、必ず「出来るよ!」と答えたと言われているが、そういったプロ意識としての「技」の集約も、英二ならではのものであった。

 また、英二の最大の特徴は、映像が多くの人々、とりわけ子供たちに向けられている事実をふまえ、自分の作り出す映像の中に、残酷な場面や汚らしい映像は努めて出さないような工夫をこらした点にある。映像が子供たちに与える影響が大きいことを熟知していたのである。 怪獣映画もまた、英二の手に掛かれば次第に恐怖の対象ではなくなり、子供たちのアイドルとして慕われるようになっていった。現在、子供を巡る犯罪が多発しているが、安直に子供受けをするものだけが画面に氾濫し、英二ら先人の思想が商業主義によって踏みにじられた結果と言えなくもない。円谷英二は自らが子供好きであったこともあり、映像の中に限りない愛をもたらしていったのである。

 今年は英二生誕から100周年に当たる年であり、須賀川市でもそれを記念して円谷英二展が行われた。須賀川市の出身であり、日本の映画界に大きく貢献し、そのキャラクターは世界に知られた円谷英二が地元の出身であることは、私たち須賀川市民、福島県民には大きな誇りであると思う。作品を堪能するとともに、その生き方、生き様を多くの方々に知っていただきたい次第である。