ゴジラ2014見ました

「GODZILLA」評

 DSC_0395

高まる期待

 7月31日、巨大ショッピングセンターで最新「ゴジラ」を見た。

 巨大ショッピングモールというのが、なんともアメリカ的だった。だだっ広い田舎に、忽然とショッピングモールがあった。その中にある映画館はシネマコンプレックスというのか、いくつもシアターがあり、その中の一つがゴジラだった。私はポップコーンとコーラを買った。すごく巨大なポップコーンだった。ここもアメリカ的である。

 最新ゴジラに関しては、かなり評価が高く、素晴らしい映画であるとの報道がされている。特に、昭和29年作の最初の「ゴジラ」と似ていて、ぜひ一緒に見て欲しいなどという話も多く伝わっている。とかくゴジラについては、昭和29年の最初のゴジラが傑作で、後はどうでもいいみたいな評論も多いので、それに迫る傑作ならすごいと思った。

 巨大ショッピングセンターではあったが、かなりの田舎だった。周りには田んぼとか畑しかなく、牧場もあるようだった。それなりに広いシアターには、自分を含めても10人足らずの観客しかいなかった。それでも音響効果は抜群で、いやがおうにも期待が高まった。

 

期待はずれのゴジラ

 だが、期待はまもなく失望に変わった。なんだよこれ、みたいな雰囲気だった。

 作品が全体に説明調である。映像として自然に流れず、登場人物が言葉で説明しないと話が進まない。ゴジラは昭和20年代からいて、あの頃の原水爆実験はゴジラを滅ぼすためで、新怪獣も出て、アメリカではそれの仲間が目覚めて・・・と、誰かがいわないとわからないみたいな展開をする。

 日本の原発事故が発端となり、そこに厳戒態勢が敷かれるが、日本でこの様な秘密が保たれるとは思われない。この国でこんな巨大なものが、秘密裏に研究されるなど無理だろう。秘密保護法を施行した安倍総理だって難しいと思う。そこで新怪獣登場・・・って、ご都合主義過ぎる。

 

 さて、新怪獣「MUTO」は、武藤さんとは関係があるのだろうか?日本人の名字みたいな怪獣は初めての登場である。

 それにしても、形があまりにも生物的でない。こんな生き物がいるとは思えない。せいぜい宇宙怪獣。子供番組的でイヤな感じがした。何かに例えるとしたら、「コンパス」に似ていると思う。非生物的な怪獣と闘うなら、ゴジラではなく、ガメラの出番ではないのか?

 

 また、多くの評論には1998年のアメリカ版ゴジラと比較し、あれとは違うというのが多いが、私に言わせればかなり似ている気がした。

 その一つには、変な擬人化である。1998ゴジは主人公と目の前で顔を合わせる場面がある。あんな巨大生物なら、そんなことはあり得ない。ところが、今回の作品にもそれがある。核兵器を積んだ船で主人公が寝ているところに、MUTOがやってきて鼻をつき合わせる。自分の子孫を全滅させたのがこいつとわかっているような場面だ。身長100メートルの怪獣が等身大の人間と台頭に渡り合うとは思われない。なんだかマンガ的だ。

 MUTOの雌はどこかに巣を作り、そこに大量の卵を繁殖させる目的で置くが、今主人公はそれをガソリンで焼く。これも前作と同じ展開である。安直に前作を批判できないと思う。あの金属っぽい、コンパスみたいな怪獣の子供が「筋子」、「いくら」みたいな形態なのは、ちょっと信じられない。

 

核兵器の神格化

 一番面白くないのは、昭和29年のゴジラに似ているとの前評判にもかかわらず、全然「核」を否定していないことである。日本の原発で始まるが、別にそれを否定しているわけでもない。原発事故は怪獣のせいだとし、最後にも核兵器で怪獣を葬り去ろうとする。

 かつて「続・猿の惑星」という映画があった。「猿の惑星」は最後に遠い他の惑星だと思った星が実は地球だったという衝撃のラストを迎えるが、私には続編の方が印象深かった。人類に代わって世界を支配した猿たちだが、そこには人間の子孫達もまだ生き残っていて、彼らは核兵器を「神」とあがめている。人類を一瞬にして滅ぼす核兵器こそ、彼らにとっての「神」なのである。核兵器否定どころか、「神格化」である。あの作品では人類の未来像をそのように表現していた。

 

 新作ゴジにはその「続・猿の惑星」に登場する未来人のような気色悪さが随所に感じられた。最終的には核兵器礼賛である。結局、この世を制するのは「核」であるというわけだ。アメリカ人には、「核」は神様なのだろうか?

 昭和29年の初代「ゴジラ」は、アメリカでも大ヒットしたと聞いている。しかし、アメリカで上映されたこの作品は、日本で上映されたものとは若干違っている。アメリカ人にとってまずいところは、意図的にカットされている。

 大戸島にゴジラが現れ、国会でそのことが論議される(開始26分当たり)。このゴジラについて発表するのは国際問題の見地から辞めるべきとの意見が与党議員からなされるが、菅井きん扮する野党議員達がそれに反対する。この場面が丸ごとなくなっている。

 また、無敵のゴジラにとどめを刺すため、芹沢博士開発のオキシジェン・デストロイヤーという薬品を投じることになるが、日本版ではこの様なものを発表するのは原水爆を越える兵器になると芹沢博士が躊躇する。この場面も、核兵器の恐怖を表現するものとは微妙に変えられている。アメリカ人は、核兵器の否定は嫌らしい。最新ゴジラは、改めて60年の時を経ても何ら変わらないアメリカ人の考え方をクローズアップした様にも思える。

 

日本版ゴジラを

 昭和29年の「ゴジラ」は、核兵器に犯される現代社会に警句を鳴らし、人間の恐怖そのものをゴジラという怪物にして表現した作品である。それは日本独自の発想であり、アメリカ人にそれをまねることは難しいと思われる。

 ここは、ぜひ日本版ゴジラの復活を願いたい。いろいろな不安がたまる日本、原発事故の何ら解決できない日本で、その鬱積した不満や矛盾をできるだけ表現した新作ゴジラの登場を希望する次第である。

 日本のゴジラ映画の中で革新的なものに「ゴジラ対ヘドラ」があった。公害を具現化したヘドラは確かにインパクトがあった。今まで見たこともない、いい意味で期待を裏切る新作「ゴジラ」の登場を願いたい。