円谷英二の師・枝正義郎を語る!(第3回街かど講演会開催)

 街かど講演会

突然の案内

 「須賀川知る古(しるこ)会」という団体から連絡が入り、10月16日に円谷英二氏の最初の師匠である枝正義郎氏のお孫さんが来て講演会をするから出席して欲しいといわれた。

 これには仰天した!枝正氏は確かに円谷英二の最初の師だが、もはや100年近く昔の話であり、知る人ぞ知る存在なので、そんな方が来られても、マニアックすぎて誰もわからないのではないか、と思った。

 こういう会では、私が行かないわけにはいかない。おそらく参加者の中で、私が一番理解しているだろうからである。別に自慢しているわけではなく、こんな話、これだけ限定された地域で、他の人がそうそうわかるものでもないだろう。義務のような気持ちでお誘いを受けることにした。

 

前日のパーティー

 講演に先立ち、15日夜に大束屋コーヒー店(円谷英二の生家)でウェルカムパーティーが行われることになった。

 「須賀川知る古(しるこ)会」という団体は初めて知ったが、ほとんどが女性であり、故郷・須賀川市の文化を大切にして、ときどき勉強会を行うという趣旨の団体だった。市長のお母様も参加していた。総勢40名くらいがほとんど参加し、結構なにぎわいを見せた。

 講演される枝正義郎氏のお孫さんという方は、佛原和義氏という名前で、ニューヨーク在住だという。スラリとしたダンディーな印象の方で、イメージ的には「モスラ対ゴジラ」で佐原健二が演じた虎畑二郎みたいな感じだった(虎畑二郎は作品の中で悪役ですが、佛原氏は別に悪い人ではありません)。名字が違うのは、母方の祖父であるからだ。67歳という年齢は全く感じられないカッコいい人だった。

 講演していただくことになったのは、この会のメンバーの友人が佛原氏の奥様の友人であり、そのつてでお願いしたことがわかった。このパーティーも結構ご馳走が出て盛り上がった。

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枝正氏の人生

 16日当日の講演は午後1時スタート。街中にある会場には約50名の人々が集まった。

 佛原和義氏は多摩美の卒業、その後、アメリカに渡って米国の大学の彫刻科も卒業している。祖父である枝正義郎については、沸原氏の父親が亡くなった後、母親がポツリ、ポツリと話してくれたという。

 円谷英二の師、枝正氏は広島県に4人兄弟の二番目として生まれ、身長は180センチあり、なかなかの伊達男だった様だ。広島ではカメラマンをしていた。

 枝正氏は上京し、枝正氏は日活の前身といわれる吉沢商店に入社、映画の道を歩むことになる。枝正氏の修行中、奥様は士族の娘として習得したお花、和裁などを教え、家計を支えたという。奥様も、幸福な家庭を築くことができたようだ。

 

枝正義郎の活躍

 ここから先は、話の都合上、講演で出なかった話題も交えて説明していきたい。

 日本映画界の草分けとして活躍した枝正氏は、徐々に頭角を現し、日本映画最初期に様々な作品を残していく。他社では「目玉の松っちゃん」と呼ばれた尾上松之助がすさまじい作品数を残しながらも、その粗製濫造ぶりにはいささか批判もあった折り、枝正氏は澤村四郎五郎(五代目)を主役に据えて良質な作品を作っていた。初期の特撮の名手としても知られており、忍者映画などで実力を発揮した。

 しかし、初期の日本映画は外国映画に大きく水を空けられており、「日本映画なんて見に行くのは子供や身分の低い人ばかり」といわれるほどだったという。そういう風潮を打破したかった枝正氏は、大正9年(1919年)、「哀の曲」を発表、オペラ歌手の川田貴美子を主演とし、外国映画に負けない作品を目指した。この作品で円谷英二氏はタイトル部分の撮影を担当、これが映画初参加となった。

 この後も様々な作品を世に送り出した枝正氏だが、昔のフィルムは可燃性で保存が難しく、ほとんど残っていない。枝正氏も、優れた技術を持ち、業界では名の知れた存在であったにもかかわらず、あまり作品に恵まれなかった点は残念である。本人も、所属していた天然色活動写真株式会社(天活)が倒産、国活に移籍するが、関東大震災で仕事がなくなり、京都の松竹下賀茂に移籍し、ここから何本か映画を撮っては別の会社に移籍するような状況になったという。「悲運の人、枝正義郎」と記した本もある。

 昭和9年(1934年)、枝正はとんでもない作品を世に出す。「大仏廻国」である。大仏が立ち上がって中京地域を観光するという奇想天外な作品だが、これは前年のアメリカ映画、「キングコング」の影響もあると思われる。

 昭和19年9月6日、枝正は出勤しようと玄関に立った瞬間、脳溢血で倒れ、55年間に渡る映画人生を終える。厳しい戦時下の中でも、葬儀にはたくさんの花が飾られ、壮大なものだったという。菊池寛、永田雅一ら当時の映画界の重鎮らも参列した(この部分は佛原氏が講演で話した)。日本映画創世記の技術者、製作者として、多くの人々の尊敬を集めていたことがわかるエピソードである。

 枝正は大戦中、娘を地元広島に疎開させていた。その後、娘さんは結婚し、佛原氏が生まれたのである。

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貴重な映像「坂本龍馬」

 佛原氏はいくつかの写真をスライドにして披露した。

 まず、広島から京都に来た修学旅行生を、京都太秦の撮影所に招待した写真が紹介された。

 次に、大正10年、ハリウッドに研修旅行し、帰国した写真が紹介された。これには円谷英二氏が写っている。わざわざ迎えに来たのだから、師匠に対する尊敬の念が強くうかがわれる。

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 この他、嵐勘十郎とのツーショット、忠犬ハチ公(生きているときの)を抱きかかえている写真なども紹介された。大変興味深いものだった。

 そして、枝正義郎監督の映画、「坂本龍馬」が上映された。といっても、フィルムは完全ではなく、30分程度だった。それでも、雰囲気は感じられ、貴重な映像に会場の人々は見入っていた。

 いろいろな活動をされた枝正監督だが、映像が残っているのは大変喜ばしいことである。上映に際して、坂本龍馬に関しては、当時、決して幕末に活躍した人物であるという評価はなく、この映画によって初めてその活躍を表現されたということであった。初めて英雄として表現されたのである。いかにも枝正監督に相応しいエピソードである。

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英二への影響

 枝正義郎氏は、円谷英二氏を映画界に誘った人物として知られている。花見の喧嘩がもとで知り合い、円谷英二氏に再三会い、映画界入りを勧めている。この辺について佛原氏は、「(円谷英二に)才能の輝きを見たんだと思う」と分析している。

 実際、ここで英二氏は映画の技術を学んでいる。特に、枝正氏が特撮の名人として知られていたことが、英二氏の映画人生に大きな影響を与えたのではないかと思われる。まず技術的に、英二氏に与えた影響は大きい。

 しかし、それにも増して、精神的な部分が大きいと私は見ている。

 枝正は熱心に英二氏を映画会に誘った。それは、この人物の才能を見出したのだというが、当時の日本映画はチャンバラが主流で、子供が見るものという印象があった。冒頭に述べたように、外国映画に遠く及ばなかったのである。

 それを、日本も外国に匹敵するような映画を製作したいと考えていたのが枝正氏である。日露戦争に勝利し、列強に加えられても、芸術面でははるかに劣るといわれていたのでは面白いはずがない。負けていられるかという反骨の気概を英二氏に伝承させたといえるのかも知れない。

 円谷英二氏の文献を見ると、日本映画が外国映画に対してどうか、という点が多い、いつも、外国作品と比較し、追いつこうと思っていたのである。それゆえ、いろいろな技術を開発している。外国に負けたくないという気持ちがいつもあった映画人生だったといえるだろう。

 英二氏の外国へのライバル意識は異常であることもあった。ドイツとの合作映画「新しき土」では、ドイツ人スタッフとビールの飲み比べでも競い合っている。「ゴジラ」では、外国で評価されたことを何よりも喜んでいた。これは、やはり最初の師、枝正義郎氏の薫陶を受けたからであると思う。現状を打破しようというチャレンジ精神、外国には負けないぞという技術革新の向上心、自分の作品はきちんと作るという良質な製作をする生真面目さ。枝正氏なくして、「ゴジラ」も、「ウルトラマン」もなかったのである。もし枝正義郎がいなかったら、円谷英二は映画界入りすることもなかっただろうし、その精神を学ぶこともなかったのである。

 

貴重な記録

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 質問のところで、私は佛原氏に対し、「枝正氏との映画の接点はないか」と聞いた。これは、やや意地悪な質問で、枝正氏が亡くなって四年後に生まれた佛原氏に、接点はないかと言っても、それは無理な話である。

 しかし、さすが佛原氏はダンディーでニューヨーク在住であるだけに(あんまり関係ないかも知れないが)、ちゃんとそういう場合を考えていた。

 「それなら、こういう冊子がある」

 と、ファイルを取り出した。

 後でそれを見たが、枝正とともに活動した柴田勝という映画人が残した枝正の記録だった。枝正氏の生い立ちや、亡くなるときのこと以外は、枝正氏が関わった作品のフィルモグラフィーであり、各作品の詳細な記録は、もはやフィルムが存在しない現在、枝正氏の活動を伝える貴重な記録である。後年、枝正氏に関して書かれた書籍の多くは、おそらくこの記録を元に書かれているものだと推測される。これが須賀川に残されるのは大きいと思う。

 

講演を終えて

 正直にいうと、私は街中にウルトラマンとかゴモラとかエレキングを飾り立てることにわずかばかり不満を感じていた。形ばかりで気持ちが伝わらないということだ。しかし、須賀川市にはこんな素晴らしい団体があり、こんな講演が開催される懐の深さがある。これには感激した。これでこそ、ゴモラもエレキングも生きるのだと思う。

 枝正義郎という名は、この須賀川市ではほとんど自分と円谷家の円谷誠氏くらいしか知らないのかと思っていた。大変嬉しく思い、実現した知る古会の皆様には感謝申し上げたい。

 

枝正義郎に関する文献

  円谷英二の最初の師、枝正義郎に関しては、2016年10月16日の街角講演会で、本人のお孫さんが知る古会にプレゼントした「映画とともに。枝正義郎の記録」(柴田勝著)に詳しい。しかし、これは私家版であり、手に入れることが難しい。

 一般の書籍には、この様なものがあるので紹介したい。

 

日本映画史1(佐藤忠男著・岩波書店)

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 著名な映画評論家、佐藤忠男氏による映画史評論。1冊ですごい厚みがあるのに、全部で4巻になる大作。その1巻目に枝正義郎の「哀の曲」をかなり詳しく紹介している。この作品が枝正の代表作であり、日本映画史の中でも特筆すべき作品であると著者はみている。

 枝正義郎が活躍した時代背景と、関連のある映画人などにも詳しい解説が述べられている。

 

巣鴨撮影所物語(渡邉武雄著・西田書店)

円谷英二と阪妻・そして内田吐夢(渡邉武雄著・西田書店)

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 巣鴨近郊に住み、周辺地域の映画史について独自の研究を行う著者の作品。後に有名になる映画人の若き日々について書かれており、興味深い。内田吐夢監督、円谷英二撮影の「延命院の傴僂男」などについての記載も詳しい。

 

戦前日本・SF映画創世記(高橋真樹著・河出書房新社)

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 日本のSF作品は戦後の作品に限って紹介されるが、この書籍では戦前の作品を紹介している。現在ではフィルムも存在せず、製作者も亡くなっている作品を著者は情報を集め、一冊の本としたのだからそのご苦労には頭が下がる。勿論、大変興味深い内容となっている。

 枝正義郎についても、一つの章を設けて詳しく解説している。