「ゴジラ キングオブモンスターズ」見ました(ネタバレあり)

「ゴジラ キングオブモンスターズ」見ました

ネタバレあり

 

怪獣は神々

 「ゴジラ キングオブモンスターズ」を宇都宮で見た。映画館はショッピングセンターに隣接している。いよいよ梅雨が始まり、しとしと降る雨の中を向かった。

 作品では怪獣の位置づけは「太古の神々」。神話の中で、怪獣と人間は共存していた。過激な環境団体が現れ、増えすぎた人間を「調整」すべく、怪獣達をよみがえらせる。しかし、怪獣の一匹、キングギドラは宇宙からやって来たことがわかる。怪獣達は一番強い奴をボスとしてそれに従う。キングギドラがボスでは、自然界のバランスを戻すどころか、人類絶滅の危機……。そこで人類も怪獣の王、ゴジラに味方して立ち向かう、という筋立て。

 とにかくすごい、最初から最後まで戦闘シーンの連続だ。息つく間もなく怪獣が大暴れ、休む暇がない。かつて本多猪四郎監督は映画「ガンヘッド」を、「こんな刺激の連続では感覚が麻痺してしまう」と批判したそうだが、これを見たら同様な感想を持つのではないか。そのくらい過激である。円谷英二特技監督も、無声映画時代は時代劇の筋立てで盛り上げ方を考えていた。活劇の連続という作品には抵抗があると思う。

 主に活躍する怪獣はゴジラ、キングギドラ、モスラ、ラドンで、このメンツでは「三大怪獣・地球最大の決戦(1964)」だ。モスラがゴジラの味方をするなど、若干リメイクといえなくもない。他に、スカンジナビアのトロールみたいなのとか、造形の時点で失敗したクモンガみたいなのも出てくる。

 日本人にはお馴染みの怪獣達がほぼ別解釈で表現されているという意味で、なかなか興味深い作品ではある。

 

失われた主張

 同作品は環境問題に触れている点はあるが、アメリカ映画らしく「ゴジラ(2014)」同様に勧善懲悪で文明肯定である。オスプレイやF35がバンバン飛び回る光景はなかなか神経を逆なでさせられる。アメリカ人はそんなもの、なんとも思ってないのだろうか?まあオスプレイもF35も怪獣達に全く歯が立たないのだが・・・。

 格闘するゴジラとキングギドラに、「オキシジェン・デストロイヤー」が使用される。昭和29年版では海中で手動操作だったが、本作品ではミサイルである。その武器がいかなる効果があるかは説明されていない(たぶん)。しかし、かつてゴジラを葬り去った同名兵器とは違い、結局怪獣を倒せない。初代ゴジラへのオマージュなのかも知れないが、見ている私たちには日本の無力さを表現されたような気分で、余計なお世話的な場面だった。

 一番抵抗があったのは、眠るゴジラを核兵器で蘇らせる場面。放射能がゴジラのエネルギー源という発想はどの映画当たりからだろうか?ゴジラは核兵器の犠牲者という初代の主張は葬り去られている。武器礼賛、核兵器礼賛で初代ゴジラの持つ文明批判、核批判の思想が、軍拡や核兵器肯定の思想へとすり替えられている。

 別物の映画とみればそれでいいのだが、「ゴジラ」と名が付く以上、個人的にあまり嬉しくない。怪獣が格闘する真下を人間達が動き回るのも、普通、潰されるだろと思うし、放射能は平気なのか?

 

ゴジラは猿山のボスか?

 ゴジラ、モスラの登場場面ではそれぞれ日本の映画音楽(伊福部明&古関裕而)がすこしだけ流される。

 この作品の解釈で面白かったのは、怪獣達は一番強い奴に従うという点。ゴジラがボスならいいが、キングギドラだとそれに従い、みんな暴れ出すという。そこでふたたびゴジラをボスにすべく人類も協力するのだが、それじゃあ怪獣は上野公園の猿のようではないか。ゴジラがトップなら秩序が保たれるという。ラストシーンでは、いろんな怪獣がゴジラの前にひれ伏す場面がありビックリした。あらゆる怪獣が、ゴジラの前に水戸黄門が印籠を見せたが如く「ははぁーっ」とひれ伏すのだ。なんという発想!日本的だとでもいいたいのか?「カイジュウ」という分野は、生物の種別を超越しているようだ。

 キングギドラがボスになると、怪獣がみんな悪くなるというのは、なんだか日本のクリーニング業界のようで笑った。一番悪い奴がいい加減なトッピング商法やおかしな宣伝を繰り返すと、日本中の業者がそれを真似る。おかしなノウハウがあっという間に業界中に広まる。業界紙も悪い奴をさも素晴らしいかのようにちょうちん記事で応援する。日本のクリーニング業界は、ブラック企業たるキングギドラをトップにした悪者集団なのか?暗い映画館では、様々な妄想が浮かんだ。

 

アメリカ人の怪獣解釈

 アメリカでは日本の怪獣映画がテレビで見られ、たくさんあるチャンネルのどこかで特集されることもある。一日中怪獣映画ばかり放送されることもある。マニアみたいな人が出てきて解説するのを見たこともある。つまりとても日本怪獣に親しんでいる。その中で、本作は日本の怪獣をアメリカ人が独自の解釈で表現したともいえる。私はこの作品の監督もスタッフに関しても何の情報もないが、なんとなく日本怪獣への愛着は感じられた。

 それにしても、キングギドラがやたらあくどい。人間をポリポリ食うし、破壊の限りを尽くす。日本が生み出した怪獣を巨大生物としてダイナミックに描いているのには感心させられるが、やっぱり国が違うと表現も違うんだなあと思った。

 ゴジラは何度もキングギドラに闘いを挑む。しかし、強いギドラはなかなか倒せない。何度か敗戦といっていい勝負をして、最後に勝ってみせる。この辺の展開は旧ガメラ的でもある。なにか、こういうあり方はアメリカ人には受けそうだ。東宝映画でも、かなり海外セールスを意識して作られたと思われる「キングコング対ゴジラ(1962)もそんな展開だ。

 目立つのは怪獣の擬人化である。怪獣達はより人間のように演技する。キングギドラの三本の首が争い、憎々しげな表情を浮かべる。かつてアメリカ版ゴジラ製作を東宝が許可した際、「怪獣に話させないこと」という文言が条件の一つになったと聞いているが、アメリカ人は何でも擬人化したいのだろうか?日本で作られた「シン・ゴジラ」などとは全く違う怪獣像がある。

それにしても、この映画にはあの巨大な怪獣に人間が触る場面が二回も出てくる。日本の映画で、怪獣に触る場面なんてあっただろうか?せいぜい、キングコングが女性を捕まえたり、ガメラが少年を救出する程度の話だったのではないか。しかし本作では二回とも人間が自分の意思で怪獣に手で触れている。普通では考えられないことだ。古代の神々という割には触るとは何事だろうか?アメリカ人は、触ると嬉しいのか?あまり怪獣に触らないで欲しい。その点は気になった。

 ともかく、いろいろ考えさせられる興味深い映画でした。