建築基準法問題顛末記②  二人の新聞記者

建築基準法問題顛末記② 

二人の新聞記者

 image002

 2009年の建築基準法違反発覚問題の際、この問題を追いかけた二人の記者がいた。そのことを知る人はほとんどいない。しかしこの問題は、あるいは二人の記者の激しい競争がなければ明るみには出ていなかった可能性もある。

 

記者に相談

 2008年秋、大手某社の建築基準法違反が疑われたとき、これは記事にしてもらえないかと私はある全国紙の記者に相談した。その人は以前、須賀川市で仕事をしていた人で、この頃はもう転勤して埼玉にいた。遠方なので福島県まで来てくれることは難しいが、ときどき連絡を取っていた。新しい情報が入ればその都度メールで送っていた。ただ、いかんせんこちらにいるわけではないので、取材をずっと続けられず、なかなか進展しなかった。

 

別な記者の登場

 ①の通り、「燃えない溶剤」の製造販売を行う会社の人物が大変有力な証言(それは行政を欺くための品であること)をした。大変重要な証拠が揃った。そうなると、先の記者が遠くにいるのがもどかしくなった。そこで私は別の全国紙記者に相談したら、その社の郡山支局の記者を紹介してくれた。やがて精力的な若い記者が私の会社にやってきた。私が今までの状況や燃えない溶剤の会社とのやりとりを録音したものを聞かせると、記者は俄然やる気になったように見えた。

 こうなると、先の記者よりも、情報をすぐ伝えられる身近な記者の方が摘発に動いてくれる可能性はずっと高い。私は後から紹介された記者の方に期待するようになった。

 

証言者出現!

 こんな折、また大きな動きがあった。ある地域で、私と親しい同業者のところへ、大手某社を退社した従業員が就職したのである。この従業員は以前、大手某社の建築基準法では違反となる地域にある工場に勤務していて、「間違いなく石油系溶剤を使用していた」と話している。これは嬉しいニュースであり、重要な証言となる。この業者のある地域は関東で、先の記者の居住地から遠くない場所であったので、私はこの情報を先の記者にも後の記者にも伝えた。二人はそれぞれ別に私と親しい同業者の所へ取材した。いよいよ情報がかたまってきた。かなりいい感じで進んでいると思った。

 

さいたま市で先に摘発

 そして、思いがけぬことがあった。2009年7月9日、先の記者が、自身が当時居住していたさいたま市の大手某社工場が建築基準法違反であると行政に通報したのである。それはこのような情報だった。 

9日、さいたま市が、〇〇〇〇のさいたま〇工場(近隣商業地域)を立ち入り
調査し、石油系溶剤の使用を確認しました。市は建築基準法上の「用途違反」に
当たると判断し、近く行政指導する方針です。市は、溶剤の仕入れ先が〇〇〇油
であることも確認しました。ちなみに同工場にある石油タンクは198㍑でした。

  福島県でなかなか行政が認めなかった建築基準法違反を、さいたま市はたった一度の情報提供で認めてしまったのである。これは大きな動きだった。先の記者は、現地から遠いなりに、独自の取材を進めていたのである。

 しかし、これは最初に話して取材してもらっていた先の記者が自ら動いて取った行為である。これを後の記者に伝えるのはルール違反であるように思えた。私はこれを後の記者には伝えなかった。私の立場上、それは仕方のない行為だった。

 

競争

 しかし、記者らが取材を重ねていくうち、先の記者がさいたま市で違法な工場を摘発したことが第三者によって後の業者に伝わってしまった。これにより、クリーニングの建築基準法違反問題は二社のスクープ合戦となった。

 2009年7月11日、私は朝刊を見て驚いた。大手業者の建築基準法違反が社会面トップで報道されていたからである。これには事前に連絡も何もなかった。いきなりの大きな扱いに私は朝刊を見て驚いた。他にこの情報を追っている競争相手がいる以上、これは一刻も早く報じなければならない。そう考えるのは当然だ。成り行きとはいえ、先の記者には申し訳なかった。

 

 この後、後の記者に会ったとき、「本当はもっと取材を続けて詳しい記事を書きたかった」とのことだった。新聞記者にも競争があり、各記者はしのぎを削って争っている。この記者はこの記事により、社で表彰されている。それは、意義のある内容の記事を書いたからに他ならない。こちらにとって結果オーライではあったが、二人の記者にはそれぞれ申し訳ないことをしたように思える。心の中に若干わだかまりの残ることではあった。