追悼つげ義春
3月27日、孤高の漫画家、つげ義春が3月3日に亡くなったと発表された。私にとって大変影響を受けた人なので、それについて述べていきたい。
つげ義春との出会い
中学校の頃、図書館で日本漫画全集のような本を見つけ、読んでいた、その中に、手塚治虫、水木しげる、白土三平などよく知られた漫画家に混じって「つげ義春」という知らない人物の名を見つけた。見てみると、タッチがほとんど水木しげるだった(たまたまその本で紹介されている作品に水木タッチのものが多かった)。しかし作品はおどろおどろしく、ちょっと卑猥でもあった。強烈なインパクトを残したが、なにしろ私の中学時代はプログレッシブ・ロックとか他のことに感心が大きかったので、しばらくは関心が他のものにあった。
学生時代にはまる
大学時代、いい加減都会の猥雑さに飽きてウンザリしていたことの私は、田舎ののんびりした雰囲気にあこがれていた時期があった。そんなときに1983年6月に旺文社文庫より発行された「つげ義春旅日記」という本を書店で買った。これには漫画は二編しかなく、つげ義春の文章が満載され、特に温泉紀行が多く掲載されていた。漫画家らしく、温泉のイラストも多数載っており、これに魅了された。つげ義春はシュールレアリズム作家という私の先入観を大きく覆し、山奥の温泉への案内人のようにも思えた。
この本に掲載された旅日記の中に、私が親に連れられて何度も訪れた岩瀬湯本温泉に関する記載がある。
岩瀬湯本温泉-来てよかった。いままでで最高の所だ。コケむしたわらぶき屋根が隣家にくっつきそうに何軒もひしめき合い、まるで家と家とが額を寄せ合い、ボソボソと陰鬱な話をしているようだ。
表現はともかくとして、私にもっともなじみのある岩瀬湯本温泉を最高評価していることで、私は表現者としてのつげ義春にはまっていく。帰省のたび、岩瀬湯本や二岐温泉、会津の温泉に行った。この後家業を継ぐ私は父のすすめでその時期隆盛だった八戸の会社に就職するのだが、青森に行ったのは、いろいろな秘湯に行けるのでは、という仕事以外の部分に関心があったからに他ならない。
温泉を訪ねる旅
青森時代には、行ってわずか一週間後に恐山に行った。恐山はつげ義春作品にも出てくるし、つげと関連の深い水木しげる作品には定番のようなものだ。この地には一年間いたが、計三度ほど訪れている。それは、大学時代から親しくしていただいた朝日新聞の○○記者がむつ支局に赴任していたこともあった。恐山のある下北半島には薬研温泉、下風呂温泉、湯野川温泉があり、いずれも行っている。
青森時代には、有名な温泉ばかりでなく、誰も知らぬような温泉や、ときには、岩手、秋田まで足を伸ばして各地の温泉を訪ねたが、宿泊まですることはほとんどなく、ひたすら入りにいったというものだった。それでも、秘湯の醍醐味は感じられた。
地元でも温泉行脚
やがて福島県に帰ってきても、温泉旅は続いた。日本交通公社出版事業局で出版した全国温泉案内なる本を見て、片っ端から温泉旅を続けた。その中には以前親に連れられて行った岳温泉、甲子温泉などもあったが、次第に温泉の宝庫、会津地方に足が向いた、とりわけ、南会津方面には秘湯が多く、毎週日曜は温泉を目指して出かけた。柳津温泉、西山温泉(つげ氏の写真や絵で有名)、宮下温泉、早戸温泉(行ったらつげ氏のイラストそのままの光景だった)、玉梨温泉(つげ氏が漫画「会津のつり宿」の題材にした)、大塩温泉、小豆温泉、湯ノ花温泉、木賊温泉(「会津のつり宿」の最後に登場)、檜枝岐温泉など、本当によく行ったものだ。
ときには、奥会津を越えて新潟にまで足を伸ばしたこともあった。このときには山でクマに遭遇し、その後登山をしていた東京経済大学の学生を「危ないから車に乗って」と宿まで連れて行ったこともある。この学生は一眼レフを車に忘れ、東京経済大学に「○月○日に檜枝岐付近で私の車にカメラを忘れた人がいる」と伝え、本人の元にカメラが返ったなどという、それなりのドラマも生まれたこともあった。この青年には丁重にお礼をされた。
1980年代は自社が会津に進出することになった。私は工場の二階に住居を建て、より近くなった温泉に行くようになった。
この時代には営業職をしていたのだが、厳しい営業職で体も心も疲弊しても、不思議と温泉、とりわけ加熱せず自然に沸いているような温泉に入ると、精神的にも安定し、活力が生まれるように思えた。温泉には不思議な力があるものだと感じた。
つげ義春からの手紙
この頃、私はつげ氏に手紙を書いた。内容は「近所の景色」という漫画で、登場人物が発する吹き出しの言葉が、発行された時期によって違うことがある、これはなぜか、という質問と、あなたの漫画にはブライアン・イーノの音楽が合うという個人的な意見だったが、なんとつげ氏からすぐにハガキで返事が来て、質問については「そういう世界ですので」と自虐的な回答があり、あとは近著を若干宣伝しているような印象の内容だった。何より、「あのつげ義春から手紙をもらった」というのが感激であり、大喜びしたが、後になってつげ氏は意外と筆まめで、ファンレターにはかなり返事を書いていることがわかった。
コミックばくの時代
一方、1980年代後半にはつげ義春をメインとした漫画誌が創刊された。それが、「コミックばく」である。つげ義春の作品をメインとして、後はやはりシュールな作品がわきを固めていた。しかしそこは寡作なつげ氏のこと、年に4回の季刊誌だった。それでも、つげ氏の新作を見られるのは嬉しかった。
この時代には「ある無名作家」、「別離(上下)」、「無能の人(全五話)」などの傑作が発表された。私は「ある無名作家」のラストの場面、「無能の人」の五話、最後のあたりなど、なにか、気がついたら自分が作品の中に入っていたような、包み込むような感覚を感じた。これこそが、つげ漫画の真骨頂であるように思える。
しかしながら、「別離」を最後としてつげは作品を発表しなくなった。コミックばくはまさにつげ義春に最後の表現の場を与えたのである。
晩年はこの作品が再発されることが何度もあり、また、インタビューなどが書籍化されたが、新作は発表されなかった。思えばコミックばくに書かれた作品はみな過去を振り返るような内容であり、「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」のような超現実的作品とか、「会津のつり宿」、「庶民御宿」のようなユニークな作品はなかった。創作意欲は既になくなり、それまで歩んだ道を振り返るのが最後の力だったのだろう。
作品を発表しなくなって40年近く過ぎても、その死は悲しく、いたましい。それは、旧作品の映画化などが何度かあったこともあるが、各作品がいつまでも力を持ってその後の時代にも輝き続けたからに違いない。
私が大きく影響を受けた人物に、円谷英二、アントニオ猪木、ウィルヘルム・フルトヴェングラー、ブライアン・イーノ、そしてつげ義春がいる。最初の三人はまさに「動」、残りの二人は「静」である。派手な活動を見せる人たちには魅せられるが、一方、静かに、主役たり得ない存在である「静」も、実は大きな力を持っているものと思える。



