私と円谷プロ(「ウルトラマンが泣いている」に寄せて)

私と円谷プロ

「ウルトラマンが泣いている」刊行に寄せて

 

 円谷英明氏の著書「ウ ルトラマンが泣いている」は、様々な反響を巻き起こした。発売された直後の6月22日、円谷英二氏の実家である大束屋のカフェには何人かの人が集まった が、そのうち三人が「ウルトラマンが泣いている」を購入し、あっという間に読了していた。みんなこの本が出ることを事前に知り、発売日には購入していた。 それだけ関心が高かったのである。

 ここに集まった人達は、JCやシュワッチなどの活動を通じ、それぞれが円谷プロと何らかの関わりを持ち、普通の人よりはその実像、実態を知っていたと思う。それだけに、英明氏がどんなことを書くのかはかなり興味深かったと思う。

 こういったことも含め、現在まで三冊の円谷英二伝記を発表している自分としても、自分と円谷プロの関わりを記載してみたいと思う。

 

ゴジラの里構想

 1980年代後半、須 賀川青年会議所(JC)で、「ゴジラの里構想」が発表された。特撮の神様にして故郷須賀川出身の偉人である円谷英二氏に光を当て、町おこしをしようという ものである。それは、青年会議所メンバーがゴジラやウルトラマンを見て育った世代になってきたこととシンクロしていた。

 当初、版権の話ばかりする東宝に対し、円谷プロダクションは比較的好意的で、当時のJCメンバーは頻繁に円谷プロを訪れ、円谷プロの人々も須賀川にやってきた。JCメンバーの中にはこの機をとらえ、ウルトラマン関連商品を考えた人もいた。こういう中で「ウルトラマンパン」や「ウルトラマンそば」という須賀川発の新製品も登場した。こういう製品は、売上の5%を版権料として円谷プロに支払うことになった。

 この時期、当時は祖師ヶ谷大蔵にあった円谷プロを何度か訪れたが、倉庫にはすさまじい数の着ぐるみが置かれ、晴れた日には表で従業員が着ぐるみの塗装など補修作業を行うという、きわめてのどかな情景が見られた。

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須賀川JCによって作られた「ゴジラのシルエット」市近郊の山に作られた

 

「ウルトラ春秋」の発行

 須賀川JCのムードは 盛り上がっていたが、メンバーの関心は落ち込む商店街の活性化や、観光産業の開発にばかり向けられ、肝心の円谷英二作品のことはせいぜいウルトラマンとセブン、ゴジラくらいしかわからないという有り様だった。そこで、私は毎回のJC例会に「ウルトラ春秋」という冊子を配って啓蒙を図った。内容は須賀川市時代の英二氏の様子や、戦時中の当時は全く知られていなかった作品を紹介したりということが多かったため、JCメンバーというよりは特撮関係者など他の人達 からの関心が高くなった。これはしばらく続いた。JCの理事長は一年交替だったが、おおむねそれぞれの理事長はそういう啓蒙活動に深い理解を示してくれ た。

 

包装材にウルトラマンを

 ここで私もあの有名な ウルトラマンを使用できないかと考えた。クリーニングには商品がないので、仕上がり品を包装する透明の包装材にウルトラマンの絵を使用できないかと考え、 先に製品を販売していたJCメンバーを介してお願いしてみた。そこで、当時の円谷プロ社長はあっさりOKを出した。しかも、「クリーニングは具体的な商品ではないから」と、版権料はいらないと言われた。使用していい絵はこちらから持っていくと何度もダメ出しされたが、最終的にウルトラマン2つ、セブン1 つ、エース1つが決まった。これは大変嬉しかった。この様な包装材は10年近く使用された。

 ただ、当時の円谷プロ社長からは、「どうせ店のシャッターにウルトラマンを描くようなことでしょ」とも言われた。社長は、こちらを街の中で家族だけでやっている小さなクリーニング業者だと思ったようだ。包装材に使用するとは思っていなかったのだろう。

 

本の出版

 2005年には福島空港が開港、大阪からの第一便からはウルトラマンとバルタン星人が降りてくるという趣向で盛り上げた。

そんなとき、地元の歴史春秋社という出版社から私に対し、「本を出してみないか」という話があった。先にウルトラ春秋などを出していたので、出版社はそれに目を付けたのである。私は自分の著作本が出せるということになり、大喜びした。

しかし、地方の出版社なので版権などの交渉はすべて私任せ。早速円谷プロ社長に連絡して みると、「一冊につき5%の版権料がかかる」というものだった。私は、「ウルトラマンなどのキャラを使用するわけではないから、版権はないのではないか」 と主張したが、社長は「版権を払わないで出版するわけにはいかないよ」とのことだった。

 

あちこちに相談

 そこで私は、これまで円谷プロや特撮関連の出版物を書いた人達に連絡し、版権の問題を聞いてみることにした。何人かに連絡したが、ここで聞いた話は大変意外なものだった。

 まずある人は、「私も円谷プロから5%取ると言われた。しかし、円谷プロに近しい人から、そのまま出しても大丈夫だ。といわれ、実際版権の契約をせずに出版したが、その後何もいわれていない」とご丁寧に手紙で返答してくれた。そのまま出してももめることはない、というのである。

 次に、怪獣関連のムックを出版した出版社に連絡すると、編集担当者が版権の切り抜け方についていろいろ詳しく教えてくれた。全く面識のない私に実に詳しく教えてくれたものだ。 どんな人かわからない電話だけの人物に、これだけ丁寧に教えるというのは、逆に言えばそれだけ円谷プロに対し、良い印象を持っていないのだろう。会話の 節々にそれは感じられた。

 さらには、以前より特 撮関連の出版物を多く出していたサブカル系の編集者に電話したが、この方は露骨に円谷プロを非難し、「円谷プロはウルトラマンのデザインをした成田亨氏に 一銭も払っていない。そういう会社だ」と述べた。円谷プロは各出版社や特撮関連の執筆者達と円滑な関係を持っているわけではないことがわかった。

 これだけ聞くと、実際には円谷プロの許可なく出版した人もいるが(しかも結構名著と呼ばれたりしているが)、その後で円谷プロから訴えられたりすることはないらしい。それだけに、5%と強く主張した社長の真意がわからなかった。

 ただ、私は本業を持っていて商売のために本を書くのではないことと、包装材の件など今後の付き合いもあるだろうという判断から、出版社からもらえる執筆料の10%のうち5%を 支払うということで合意した。完成した本は「翔びつづける紙飛行機」という名前で発表され、須賀川市では友人の皆様に出版記念パーティーを開催してもら い、ここには英二氏の次男、円谷のぼる氏がやってきて自分の曲を二曲歌った。

 ある意味、執筆料から 5%を削るというのは著者にとっては大変なことである。文章を書いて生計を立てている人にとっては、収入の半分を持っていかれることになるのだ。それができたのは、私が会社を持っていて、少なくとも執筆は趣味の領域に入るからである。特に、伝記の場合には円谷プロの生み出したキャラクターなどの商品を扱うわけではない。それなのに、一律5%は不平等であるとも思える。

 また、円谷英二氏の生涯をつづる場合には版権の上で非常に微妙な問題がある。それは、東宝時代のキャラは東宝に版権があることである。簡単にいうと、ゴジラは東宝、ウルトラマンは円谷プロである。そういうことも原因で、これまで円谷氏の伝記がなかったのかも知れない。

 実はこのときまで、円谷英二氏のまとまった伝記というものは存在しなかった。「翔びつづける紙飛行機」は、当時の情報が十分ではなく、完成度の低い本ではあったが、それでも初の伝記として取り上げられた。この本が出版されたのは1994年 (平成6年)、英二氏が亡くなってから34年過ぎていたが、その間、円谷プロや円谷家には、偉大なる創始者の業績を編纂したり、伝記を作成したりするよう な動きが全くなかったのである。これはかなり奇異だと感じた。円谷プロの誰にも、そういう意識は全く感じられなかった。

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翔びつづける紙飛行機(1994年出版)

 

最初の衝突

 1996年頃、当時は インターネットの普及が進み、各自がパソコンなどを持ち始めた時期だった。私も早速ホームページを開設し、円谷英二のことについて地元から研究していた成 果を発表したりした。しばらくそれをしていたため、アクセス数も増え、ネット関連の雑誌には私のHPが何度か紹介されたりもするようになった。

 そのとき、私は福島空 港で行われたイベントを紹介した。そこには円谷プロから借りたウルトラ兄弟の着ぐるみを当時のJCメンバーが着用、寸劇を行う趣向のものもあった。この 頃、私のHPから情報を無断で持っていく人が多かったので、私は「このページの著作権は私に帰属します。使用する場合には必ず連絡下さい」というような注意書きを入れておいた。

 このことが、円谷プロの逆鱗に触れた。このHPにはウルトラ兄弟の写真が使用されている。その著作権がこちらにあるわけではないので、これは確かに間違いだったが、電話をかけ てきた円谷プロの女性担当者はすさまじい怒りっぷりで、「どう責任を取ってくれるの!」とか大騒ぎだった。私は詫びて全部消しますと言ったのだが、全然理解してないみたいだった。挙げ句の果てに、前々から紹介されていた「ウルトラマンそば」にまで言及し、「もしどこかで、バルタン星人そばを作った人がいたらどうするの!」などと言ってきた。どうやらウルトラマンそばが版権を得ていることすら知らなかったらしい。見当違いも甚だしいが、この女性従業員はほどなく退社した。円谷プロの出入りの激しさをうかがわせた。まあ、この問題は電話だけで終わった。少なくとも創始者の著作などで円谷プロに貢献していること は、この女性社員には全く伝わっていなかったようだ。こういったトラブルがあったことは、円谷プロの上司からは何一つ連絡がない。一般の会社では考えられないことだ。

 この時期、平成ウルト ラシリーズとして「ウルトラマンティガ」が放送された。ドラマの中にはGUTSという部隊が登場し、怪獣と闘うのだが、その中で使用されていた隊員用の黄色い車があった。当時の円谷プロ社長はその車に乗って須賀川までやってきたこともあった。「ティガは大赤字だった」と「ウルトラマンが泣いている」に書かれているが、もしかしたら、こういうことも原因の一つなのかも知れない。

 

さらに進む英二研究

 そんなことがあっても、最初の伝記を書いたことにより、円谷英二研究の熱はますます上がっていった。私はいろいろな方々にインタビューを試み、円谷英二の実像を究明すべく動き回った。「ウルトラ春秋」にも載せることが多くなった。この時期、インタビューした人達はこの様な方々だった。

○満田かずほ氏(元円谷プロ専務。ウルトラマンやセブンで多くの作品を監督する)

○鷺巣富雄氏(ピープロ社長。マグマ大使、怪獣王子、スペクトルマンなど数多くの特撮作品を手がけるカリスマ)

○犬塚稔氏(無声映画時代からの脚本家、監督。座頭市などの脚本を担当。英二氏とは無声映画時代の仲間、1901年生まれで英二氏と同期。インタビュー時で96歳!)

○円谷あきら氏(英二氏の三男。円谷映像社長。)

○円谷イヨ子氏(英二氏の親戚)

○松林宗恵氏(新東宝、東宝で活躍した映画監督。戦争映画の巨匠)

○有川貞昌氏(英二氏の弟子、東宝では英二氏の次の特技監督)

 このほかにも多くの方々からお話を聞いたが、この方々から聞いた話は、まさに珠玉のようなエピソードばかりだった。特に、昭和29年の「ゴジラ」で有名になる以前の英二氏の話題は大変貴重だった。私は断然、またさらに詳しい伝記を作成すべく動き回った。

 この方々は、みんな大変親切に対応していただき、素晴らしい方々ばかりだった。鷺巣氏からは、当時小さかった息子のために、「息子さんに」とピープロのソフビ人形をいくつもお送りいただいた。2008年にはいただいたソフビによって「なんでも鑑定団」に出演している。

 ただ、こういう中に円 谷家の人々はない。満田氏は円谷プロ重役だったが子孫というわけではない。また、円谷あきら氏は英二氏の三男だが、もうこの時点で円谷プロを離れており、 円谷映像株式会社を立ち上げ、独自の活動をされていた(そのあきら氏からは、当時放送中だった平成ウルトラシリーズに辛辣なコメントをいただいている)。

 正直、肝心な円谷家の中に、英二氏の生涯について語ってくれる人がいないのだ。世代が違うといえばそれまでだが、自分の祖父であり、会社の創始者については少しは調べても良かったのではないだろうか?この点も不思議だった。

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須賀川を訪れた鷺巣富雄氏(2000年)忘れ得ぬ素晴らしい方だった。

 

再び伝記出版

 十分な知識を得た私は、また円谷英二氏の伝記を発表したいと考えていた。そのとき、渋谷の出版社からやってくれないかと話があった。メジャーデビュー(地方の出版社でなく中 央からという意)を考えていた私にとってまさに渡りに船。問題の円谷プロとの交渉も出版社がやってくれることになった。

 しかし条件は、また10%のうち5%を支払うというものだった。この様な方法が一般的ではない様だったが自分としては仕方がなかった。

 題名は「特撮の神様と 呼ばれた男」と決まった。いよいよ出版の段になり、また円谷プロからクレームが来た。表紙が気に入らないというのである。「特撮の神様・・・」の表紙には、円谷英二氏とゴジラが描かれているのだが、円谷プロの主張は、これにウルトラマンも足せというものだった。

 これはほとんど難癖に近いものだった。「特撮の神様・・・」の表紙は六本木の著名なデザイナーによるものであり(ちなみに弊社のロゴマークもそのデザイナーの作品)、今更そんな主張は受け入れがたかった。出版社は円谷プロに主張は受け入れられないと宣言し、本はそのまま出版すると通達した。本は無事出版されたが、いろいろ言ってきた円谷プロからは何の文句もなかった。

 つまり、いろいろ言ってくる割には、強引に実行すると、先方からは何もないのである。以前、アドバイスされたとおりだった。ただ、私の場合にはしっかり5%を払うことになった。

 「特撮の神様と呼ばれた男」に関しては、大御所の竹内博氏が製作されるような、マニアにはたまらないが一般の人がとても読むには価格も厚さも抵抗のある出版物というのではなく、年代順に円谷氏の実像を描き出そうとした純然たる伝記本である。そういうものが今までなかったのだから、それについていろいろ言われる筋合いはないと 思う。

 さらに、この本に関し、円谷プロからは何一つ協力はなかった。資料の提供などなにもなかった(写真の貸し出しがあったのみ。しかも有料)。創始者である円谷英二氏について、 円谷プロに残るその子孫達は何も知らないし、知ろうともしなかった。創始者を称える出版物を苦労して書いたのに、そこから金を得ることばかり考えていた態 度は正直愉快ではなかった。円谷プロは権利を持っているだけの会社であり、その会社に権利に関する代金を支払ったという形だが、創始者のことを何一つ知ら ず、何の協力もなく、金だけは欲しいという態度にはやや呆れた。機会があれば、現在まで出版された特撮関連本の版権というものは、みんな一律で同じく5% なのかどうかおうかがいしたいところである。

 とはいえ「特撮の神様・・・」は出版され、自分としては一番発行部数の多い著書であり、それなりに反響もあった。これを受け、古巣の歴史春秋社からは、子ども向けの「ものがたり円谷英二」の出版も提案され、発表された。

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「特撮の神様と呼ばれた男」と、「ものがたり円谷英二」(ともに2001年発表)

 

円谷英二生誕100年

 「特撮の神様・・・」が出版された2001年は円谷英二氏の生誕百年ということで、須賀川市でも円谷英二展が開催されるのを始め、各地でいろいろな催しがあった。これにより、円谷プロとも接触が多くなった。

 私はこの時期、「ウル トラマンが泣いている」の著者、円谷英明氏と初めてお会いしている。場所は品川のプリンスホテルだったと思う。英明氏はいつもかならず女性秘書を傍らにつけ、雰囲気的に堂々たる印象だった。円谷コミュニケーションズ社長という名刺をもらったので、相当羽振りがいいのだと思った。円谷英二氏に関する情報が欲しいということで、私は関連する蔵書やビデオをお貸ししたことがある。円谷プロの女性スタッフはわざわざ私の自宅まで来てそれを取りに来た。

 また、ウルトラセブン をはじめとする数々の番組で脚本を担当した市川森一氏も須賀川にやってきて、いろいろお話しした。大変紳士的な方で、私の話を興味深く聞かれていたようだった。私は円谷英二氏に関する情報を伝えるため、特に戦前の円谷英二作品、「孫悟空」、「阿片戦争」、「決戦の大空へ」、「加藤隼戦闘隊」、「雷撃隊出 動」などの特撮場面を見せた。市川氏には、円谷英二氏の生涯をテレビ化する企画などもあったようだった。

 私は市川氏の脚本によるウルトラマンやウルトラセブンに胸躍らされていたので、そういう方に、たとえ戦前の映画にせよ、「円谷英二の特撮は・・・」と語るのはかなり気恥ずかしかった。

 市川氏には円谷映像の男性スタッフが付いてきたが、円谷プロの関連で誰かが来るときには、若く、かなり美人の女性スタッフがいつでも付いてきた。当時青年会議所の現役だった私は、他のJCメンバー達と、「いつも美人ばかり来るよなあ」などと話していた。

 円谷英二展は、予定通り2001年に須賀川市博物館で行われた。私は会場のキャプションを担当した。無償だったが、別に抵抗はなかった。

 

須賀川市の活動の斜陽

 しかし、JCは40歳で終了。この団体を去らなければならない。後進は私たちほど円谷英二氏の活動に興味がなかったらしく、円谷英二を中心とした町おこしは斜陽となった。それでも、サークルシュワッチの活動は続き、毎年4月にはウルトラマンショーが続いている。

 私としては円谷英二氏の人生の歩みを通じ、特に少年期、青年期を明らかにするようにして、特撮に賭けた人生の実像に迫ることを考えていた。多くの作品によって日本の子供達の大半を魅了した英二氏の人生を、一人の偉人として描くことを考えていたのだが、生み出したキャラクターは影響力が強すぎた。みんながそちらを向き、肝心の英 二氏への関心が希薄だったのである。それは、須賀川で活躍した人々も、円谷プロの方々も同じだったのではないだろうか。

 一方私の方も、本業であるクリーニング業界の方に関心が強くなった。特に、業界の中にいろいろな問題があることがわかり、ここでも本を書くようになった。私のHPを見ていただければわかるとおり、クリーニング業界にはとんでもない問題と、ひどい奴が跋扈している。そうなると、架空の怪獣よりも、実社会でぶつかる怪物に対し、ムラムラと闘争心がわき上がり、特撮映画やプロレスで培われた私の精神はそちらへと向かっていった。そのようなことから特撮関連への関心は薄れていった。

 そうこうするうち、円 谷プロに関連したタイの人物が、円谷プロと版権を巡る訴訟を起こしたというニュースが流れた(このあたりのところは「ウルトラマンが泣いている」に詳しい)。これはむしろ円谷プロに気の毒と思えるのだが、版権問題が明らかでない状況が続く円谷プロでは、さもありなん、という印象だった。やがて円谷プロに別資本が入っていく。同時期、新日本プロレスなどプロレス団体も大手資本に買収されるニュースが流れた。子供の頃に夢中にさせてくれた媒介が次々と変わっていくのを知り、一つの時代の終焉を感じた。

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円谷英二特撮映画祭のポスター。こういう映画祭が何度も行われた。

あいまいな版権問題

 円谷英二氏は次から次へとアイディアを生み出す人物で、職人的にどんどん作品を製作する。こういうクリエイター気質の人は概して数字にこだわらない。そういう点が会社経営にも 及び、さらにはその後に付いてきた著作権、版権の管理がおろそかになった原因ではないかと思われる。

 いろいろないきさつを知れば、円谷プロの人々にはそれぞれの立場があり、「ウルトラマンが泣いている」で悪く書かれている人達が、そんなにひどかったとは思えない点もある。ただ、版権がどこに存在するのかハッキリしない状況で、取れる人からは取ろう、という発想にだけは困った。「ウルトラマンが泣いている」では肉親どうしの醜い主権の奪い合いが主に書かれているが、そういうのは同族経営の会社にはよくある話であり、それよりも、対外的な問題の方が大きかったように思える。

 素人考えで申し訳ないのだが、少なくとも後進は、ウルトラマンのデザイナーである成田亨氏と話し合い、権利関係をハッキリさせておくべきではなかったか。成田氏は二つの著書で、後進はおろか円谷英二にまで辛らつな言葉を浴びせている。「ウルトラマンが泣いている」ではその成田氏のことも取り上げているが、それならば、著者は成田氏の生前になぜ動かなかったのかと思える。

 最後に、どんなに後進がもめようと、円谷英二作品の輝きはいささかも失われることはないと申し上げておきたい。世の中の人が何もかも成功し、すべて公明正大であるということは珍しい。それだけにこういう円谷英明氏による裏面史も、カミングアウトの一つとして悪くはなかったのではないだろうか。

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ウルトラマンを造形した成田亨氏の二つの著書。随所に円谷プロに対する辛辣な非難が書かれている。